Notae ad Quartodecimani

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ダニエル9:27「半週の間」か「週の半ば」か

ダニエル9章27節

 

【新改訳】「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

【口語】「彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。

【新共同】「彼は一週の間、多くの者と同盟を固め/半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」

 

【NKJV】”Then he shall confirm a covenant with many for one week;But in the middle of the week He shall bring an end to sacrifice and offering. And on the wing of abominations shall be one who makes desolate,Even until the consummation, which is determined, Is poured out on the desolate." 

 

【ASB】And he shall make a firm covenant with many for one week: and in the midst of the week he shall cause the sacrifice and the oblation to cease; and upon the wing of abominations [shall come] one that maketh desolate; and even unto the full end, and that determined, shall [wrath] be poured out upon the desolate. 

 

【SacraVulgata】confirmavit autem pactum multis ebdomas una
et in dimidio ebdomadis deficiet hostia et sacrificium
et in templo erit abominatio desolationis  

 

【BHS】

וְהִגְבִּ֥יר בְּרִ֛ית לָרַבִּ֖ים שָׁב֣וּעַ אֶחָ֑ד וַחֲצִ֨י הַשָּׁב֜וּעַ יַשְׁבִּ֣ית׀ זֶ֣בַח וּמִנְחָ֗ה וְעַ֨ל כְּנַ֤ף שִׁקּוּצִים֙ מְשֹׁמֵ֔ם וְעַד־כָּלָה֙ וְנֶ֣חֱרָצָ֔ה תִּתַּ֖ךְ עַל־שֹׁמֵֽם׃ פ  

”[וַחֲצִ֨י ]「ヴァハツィ」but in the middle / [הַשָּׁב֜וּעַ]「ハ シャヴア」of the week”

 

所見;新改訳の「週の間に」というのは、どうやらLXXの影響らしい。

LXXの当該節は訳文が何やら入り組んでいるのでここには掲載しないでおく。どうやら古代ギリシア文化に七日で構成される「週」という概念がなかったかのように「期間」とされる。また七日周期や日付上の六対一という発想も元来のローマにもなかったと聞く。

七日周期の「週」はシュメール由来らしく月朔望の四形態から来ていると思われ、それは一太陰月が29日と約13時間であるところに近似性がある。但し、休日の概念は不明。

(六対一とは神秘的な比率で、造船や弦楽器制作を極めると現れてくる)

 

当該句、英語訳では【CEB】や【ESB】などが”For a half-week”と訳している。

【Darby】【HNV】【JUB】は”in the midst of the week” これが「間中」と解釈されたか

【GNT】は”when half this time is past”

こう見ると、「週の間に」や、さらに「週の間」と訳すのはヘブライ語のニュアンスかとは異なる。それはヘブライ語に拘ったヒエロニュモスもギリシア語からのニュアンスを持たないところに表れている。

ヘブライ語本文の意図から遊離してしまうから、ここを「半週の間は犠牲が絶えさせられる」というような解釈をするのは冒険であるに違いない。その結果として問題の「契約」がどれであるかが異なってしまう。

しかも、この幾らかの解釈の違いで終末に起こる事柄への判断を大きく異なってくる。ここはどうでも良いところではない。

この点で新改訳の文はどうなのだろう。その翻訳だけ読んでいる解釈師はその訳文のために追随者を率いて同じ穴に落ちるとすれば、まず翻訳者に原因があり、解釈師は聖書の本意に触れていなかったことになる。誰であれ、自分の解釈に自信を持ちすぎて正しさを吹聴するべきでないことは明らかで、真意かどうかについては引き返す道も用意しておかねば却って正しさに到達する機会を自ら閉ざすことになってしまう。

今考えられる理想の聖書としては、確立された本文と異本との相違の対照、LXXとその註解、それらの逐語訳と文法、多様な言語の各種の翻訳がすぐに比較できるもの、また検索と自分のメモが書き添えられる機能を有したものが考えられる。これはある程度実現されつつあり、これにAIを加えると研究効率は史上最高に達すると思われる。但し、根本には研究者個人の性格が問われ、これだけはどうにもならない。