Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ダニエルの70週と安息の補填

◆前提として
エレミヤの70年とダニエルの70週の双方に関わる概念に「安息」がある。
イスラエルは聖なる安息を様々な意味に於いて守って来なかった。つまり、安息日、安息年、七年目の解放と免除、ヨベルであり、総じて「安息」を破った罪がエレミヤに糾弾されている。
またバビロン捕囚には、ただユダの民が罰を受け他国に抑留されたという以上の意味が神殿祭祀の中断にある。そうでなければ北イスラエル王国アッシリア流刑が70年に含まれない理由が説明できない。

そこで70年には、不足した安息の清算が含意されており、それらの安息の関わったすべての年月は七倍されることになり、70周年となることになる。
即ち、エレミヤの70年によって贖われたのは、イスラエルの罪でも安息という七分の一に関するものとなり、イスラエルの全ての年月の罪を贖うものとはいえない。
エレミヤの70年が地上に神殿と祭祀をもたらしたのに対して、ダニエルの70週はイスラエルをまったく贖うものであり、それはもはや血統のイスラエル民族を意味しない。即ち、『神のイスラエル』のまったき贖罪による天界の祭司団の贖罪の完成を指していると見れば、この70週についてダニエルに示された目的のすべてが合致することになる。

バビロン捕囚からの赦しが、イスラエルへの仮の清めをもたらしたように、足りない安息の補填(イスラエルの罪を含意)は天界での完全な祭儀を司る祭司ら(聖徒)を登場させることになる。
この意味に於いて、七十週はイスラエルエルサレムを聖なるものとする由来である神殿の、天界での完成を目指すものと言える。

◆七十週の目的
ガブリエルは『あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている』と述べ、その期間の全体がメシアの到来よりも、イスラエルと聖都エルサレムについてのものとしている。この七十週の主目的はメシア到来を知らせるものではない事は特に注意を要する。
その期間の満了により下記6点の目的を成し遂げることになる。
1.『違背を終わらせ』
 脱落聖徒らによる『背教』を退ける Dan8:12.8:23

2.『罪を終わらせ』
 聖徒らが天に召されることでその妨害が不可能となり

3.『罪過を贖い』
 新しい契約に基いて聖徒らの罪をキリストの犠牲により贖い

4.『永遠の義をもたらし』
 『完全にされた』キリストと伴なるために聖徒に義が付与され Heb2:10-11

5.『幻と預言者を封じ』
 神の経綸が示されていた幻と預言とが成就し Rev10:7

6.『聖の聖なるところに油注ぐ』
 天界の神殿が祭祀を開始するための準備を終える Rev15:8

◆共通する神殿祭祀の再開
これらは、結論としてアブラハムへの約束を相続する裔としての神の民イスラエルの完成を成し遂げることを意味している。
彼らが天界に召されることにより、地上での『背教』の影響はまったく彼らに及ばなくなり、その攻撃に耐え抜いた聖徒らにはキリストの倫理的完全性が『贖い』によって付与され、こうして『新しい契約』は『王なる祭司、聖なる国民』を完全なものとして天に存在させて終了し、『神の奥義は終わりに至る』ことで様々な啓示はその働きを終了する。そしていよいよ全人類のための贖いのための天界の神殿が機能する用意がまったく整うことになる。
以上のように、ダニエルに示された70週は、地上で神殿祭祀が回復されたことを前表として示したエレミヤの70年の意義の実体を知らせるものといえる。
そこにはイスラエルの贖罪の主題が見られ、安息という十戒の第四戒がイスラエルと神との間の聖なる印となることへの成就が見られ、こうしてイスラエルという名の神の民は『安息』を守って、ついに神との関係性に到達することが許されると見ることができる。それは70と490という安息の贖いを示しており、その罪の清めは、まず7の倍数の時の経過を必要としている。次いでその期間を神の民は耐えて過ごす必要があることも含意されている。

エレミヤの70年が前516年で終了し、翌年に祭祀が復興することで計算できる仕方で成就したのに対し、ダニエルの70週はメシア再臨の時の不明性を含むため、終末に関する部分は聖徒と人類の裁きのために不明にされる必要が生じている。
従って、最後の第70週目の終了については明確に語られていないばかりか、多くの解釈を生む原因を作っている。それが意図されたものであるなら(そうであろう)、「聖書に厳密に従う」ことを願う終末の象徴的「パリサイ派」は帳尻を合わせるかのような解釈を施す誘惑に曝される。(Dan12:4)

だが、終末が裁きを含んでいるのであれば、何もかも神が人に明かしてしまうということは期待できないし、そうすべきとも言えない。
多くの「クリスチャン」が、ダニエルの70週を年代通りに理解したいという願うのには、神の裁きに自分たちだけは赦されているという利己的な自信、また、自分は神の経綸を理解するに値するという傲慢さが含まれているであろう。
しかし、神の経綸の理解とは、常に与えられるものであり、人間はその限界を越えることはできず、むしろ、不明性に神の尊厳を認めるべきであろう。


◆六十九週の起点(前455)と終点(後29)
エルサレムを建て直せという命令が出てからメシアが来るまでに』⇒『アルタクセルクセス(Ⅰ世)の支配の第20年』Neh2:1 アルタクセルクセスⅠ世(464-424位)即位年後の第20年は前445年
メシア到来までの期間として『七週と六十二週』という分割の理由は明確ではないが『危機のうちに広場と堀は再建される』との言葉は、ネヘミヤが城壁を再建する時期の困難と整合していると言える。
従って、最初の7週というのは49年をかけたエルサレムの復興を言うともとれるが、ここははっきりとはしていない。
<ただ、七週がニサン16日からシワン5日までに相当するシャヴオートを含意して何かを示そうとしているのかも知れない>

メシア到来までの期間としては『油注がれた君の到来まで七週、また、六十二週あり』と語られているので、そのまま考えれば合計で69週年483年となる。
前455年から483年後であれば、西暦後29年となり、ナザレのイエスバプテスマを受け受膏者となった時と見做すことは不合理ではない。
<ただ、これを当時のユダヤ人が意識していたかは難しい。バビロニアからともされる大ヒレル以降の律法学者らの言及について見聞きしことがない。根拠の一つとして、ヤムニア会議のときにダニエル書を聖典に含めるか否かで論議があったことが挙げられ、結果ネヴィイームには入らずケトゥヴィームに含まれている>

◆第七十の週の特殊性
従って、満69週の後に第70週が始まり、メシアの活動『一週の間大いなる者ら(聖徒)と、固く契約を結ぶ』最後の一週が始まっていると見るべきことになる。
それゆえ『その六十二週の後、油そそがれた者は断たれる』と言える。そこで70週の全体が満了するかと言えばそうではなく、『そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃する』とあり、『完全な犠牲を唯一度限り捧げて神の右に座し』Heb10:12、律法祭祀をその古い契約と共に終わらせたと言える。Heb8:13 
従って、メシアが結ぶ『契約』とは『新しい契約』であり、イスラエルを導く点で、モーセ以来の律法契約に代るモーセに相当する偉大な預言者を要すると見て間違いないであろう。

そこで問題は、メシア到来の第七十週の半ば、西暦後29年からの三年半後に地上を去ったメシアはその後も『一週の間・・固く契約を結ぶ』という活動を続けたかというところにある。それであれば、西暦36年までその最後の一週は継続し、37年の春先に満了していたことになる。
ここで考えるべきことは、終末にも聖霊で油注がれる聖徒らの存在を新約聖書が再三語っていることである。つまり、契約を結ぶというメシアの働きは初期聖徒らだけで終わっていない。

ダニエル書と黙示録が揃って三時半、1260日を語っているところからすると、この三年半に相当する期間の意義は何かを問う必要がある。しかも、その以前に聖徒らの天界への召集は終了しているという証拠はなく、その主張は大いに矛盾している。むしろ黙示録6:11では、亡くなった聖徒らが象徴的に祭壇の下に居て、不遇の状態のままであるとも描かれている。
聖徒らの天界への召集は、天界でのキリストの権威の実現と関わっている。Rev11:15-18

従って、メシアの活動の要諦は『新しい契約』の締結にあり、その活動期間は初臨と再臨とにある。同時に、再臨では聖徒らの最終的裁きと地の諸国民の裁きが関わっているために、『その日と時とは、天使らも子も知らない』ほどにされる必要があり、第七十の週の残り半分の到来は、メシアの再臨による『新しい契約』の完遂という目的を持っていると見るべき理由があることになる。

そこで、終末に『時と法とを変えようとする』とは、聖徒らの契約に基く活動を妨害して三時半に及ぶことを指していると捉えると、一気に黙示録との整合性を多様に得ることができる。
聖徒らは三年半の間、間断の無い迫害に面し、諸国民に蹂躙されるが、その人々からさえ救われる者がある。Rev11:2
この第70週が終わることによって、奥義が終了し神の王国が実現するので、ルカに記された『異邦人の時』とはこれを言うのであろう。それは継続的な時間を指すのではなく、異邦人がイスラエルに対して優勢で圧迫を加えている期間を指す。であるから、諸国民からの『女』は三時半の1260日の間『荒野で養われる』と言える。この集団は契約には無いからである。Rev12:14




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NKJV
9:24 "Seventy weeks are determined For your people and for your holy city,To finish the transgression, To make an end of sins,To make reconciliation for iniquity,To bring in everlasting righteousness, To seal up vision and prophecy, And to anoint the Most Holy.
9:25 "Know therefore and understand, That from the going forth of the command To restore and build Jerusalem Until Messiah the Prince, There shall be seven weeks and sixty-two weeks; The street shall be built again, and the wall, Even in trouble some times.
9:26 "And after the sixty-two weeks Messiah shall be cut off, but not for Himself; And the people of the prince who is to come Shall destroy the city and the sanctuary. The end of it shall be with a flood, And till the end of the war desolations are determined.
9:27 Then he shall confirm a covenant with many for one week; But in the middle of the week He shall bring an end to sacrifice and offering. And on the wing of abominations shall be one who makes desolate,Even until the consummation, which is determined, Is poured out on the desolate."



概観すると障碍と達成が混在する
神殿、また城壁再建がそのようだった。

強まる反対の中で対型的祭祀の準備が完了される
それは漫然と時間を過ごさないようだ。

開始の時間が精密に計られるのは、残り時間が決まっているところが大きいのでは?というのは、ここでメシアの到来を示してはいるが、その後が知らされていない。
”in the middle of the week”『今、この時に王国を再興なさるのですか?』『父に属する時についてはあなたがたの預かるところではない!』
双方が律法契約の挫折への対処であるが70週はその先へと物事を推進

安息しなかった期間=490年
390+40=430
安息しなかった全期間が天の神殿祭祀まで待たされる
しかし、その間に不定の無契約期間が挟まれた
契約の民の存在しない期間
69週でメシアの現れまでが予告された。では70週目は何か?それはダニエルでも格別な扱いを受けている。
ネヘミヤ記は、アルタクセスクセス王によるエルサレムの城壁の再建命令とその事業のあらましが描かれる。
『建て直せ』という命令の出た年を明かすためにネヘミヤ記があるのだろうか?『こうして城壁は五十二日を経て、エルルの月の二十五日に完成した。』<445or440?>

ダニエルでは『1週の間効力を保つ』という翻訳もあるが、『週の半ばで犠牲を終わらせる』以後の内容が無い。
実際にはキリスト後も聖霊は残っており、第二世紀に及んでいる。キリスト後3.5年では「効力を保つ」という謂われはない。
神殿祭祀も70年まで存続していたので、「効力を保つ」のが律法契約とは言い切れず、キリスト後3.5年に何か相当な事柄を必要とするが特に見当たらない。コルネリウスの受膏も旧約に意義を持たせなければならなくなる。そこで至聖所の準備が終わったと言えるか? やはり「効力を保つ」ではなく「固く契約を結ぶ」と訳されないとここは理解されない。


(521年 - 486年)ダレイオス1世 36(ギリシアを攻める三人目)
(486年 - 465年)クセルクセス1世 22(アハシュエロス)
(464年 - 424年)アルタクセルクセス1世 41(アルタシャスタ)
(424年 - 423年)クセルクセス2世 2
(423年)    ソグディアノス 1
(422年 - 404年)ダレイオス2世 19
(404年 - 343年)アルタクセルクセス2世 62
(343年 - 338年)アルタクセルクセス3世 6
(338年 - 336年)アルセス 3
(336年 - 330年)ダレイオス3世 7


アルタクセルクセス1世の第20年 BC.445 - 49=396  -62週(434)=38+1 = 39
この王の支配について先代のクセルクセスの支配の始まりに異論あり<「キリスト教弁証編評論」,パリ,第68巻,1939年>
アルタクセスクセスは第41年11月以降も統治をしていたことを示す粘土板があるとのこと、しかしそれは1ヶ月程後まで ほかに「51年統治」の文言有り そのズレはクセルクセスから始まっているか? クセルクセスⅡ世の治世の始まりで解消しているか?なぜ学会はその観方をとらないか?10年早く治世が始まっている場合にルカと合致する。
それで「アルタクセスクセスの治世は41年以上在った」云うことにしてクセルクセスがダレイオスⅠ世と共同統治をしていた期間を穴埋めすることができると考える識者もいる。<「旧約聖書セム語研究」[Old Testament and Semitic Studies in Memory of William Rainey Harper The American Journal of Semitic]William Rainey Harper , Robert Francis Harper ,Francis Brown ;1908年,Vol,1,p304>


イスラエルの安息の不足は、即ち聖性の不充足であり
この民族でなくても初めから不可能であったことは
メシアによって初めて充足されたところに見えている

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⇒ 七十年について
70年の目的を定住に解釈させる要素に回復の預言がある。

実際のイスラエル民族に回復の預言が終末に成就すると考えるキリスト教徒も存在する。彼らがキリスト教に大量改宗するという。

しかし、回復は聖徒のシオンへの帰還を予告するものであり、70年が至聖所の存在、つまり神殿の再建を表すものなら、別の時節を指すことになる。
前515年(ダレイオスの第六年)には第二神殿での祭祀は復興されているので、そこから七十年前は585年で第一神殿の破壊をその前年とすると、神殿祭祀の復興は71年目であったことになる。
ここでエレミヤの預言とエズラがキュロス大王の神殿再建の勅令との整合性を見ることができ、七十年の目的が民の解放ではなく、神殿祭祀の復興であることが見て取れる。

一方で、エレミヤの七十年の預言を知ったダニエルにガブリエルから知らされた70週の目的を見ると、同じく至聖所に油を注ぐことが含まれており、新約聖書に伝えられる使徒らの情報によれば、これが地上の神殿ではなく、キリストを土台石として彼らによって組み上げられる天界の神殿の理解を得られる。
そこで70週に込められたものは、『新しい契約』の成就であり、その契約は『神のイスラエル』である聖徒らと結ばれたものであり、キリストが繰り返し語っていたように、再臨の時の不明性を含んでいるために、70週の最終部分を特定することはできないことになる。しかも、その目的が成し遂げられるためには、終末の聖徒の存在と活動とを要するのであるから、『新しい契約』は『一週の間、堅く契約を結ぶ』期間がなお残されることになる。

しかし考古学の示す年代ではエレミヤの70年記述と整合する他の年代が「ものみの塔」には得られていない。しかも、アッシリアの終りからネブカドネッツァルを通じキュロスまでの年代は資料が比較的に整合し易い考古学の安定期ということらしい。各年を記した資料が存在し、日蝕月食が一致する。
⇒ キュロスの意義

それを示唆するのが70週の予告であり、こちらではその目的がはっきりと述べられている。
70年が70週の予表と見れば、70年の終りは単なる帰還と居住ではないことになる。
⇒ 「帰還の意義

70週の方では、エルサレム再建が含まれ、それだけでなく至聖所の油注ぎがその期間の終りに挙げられる。しかし、神殿と城壁が逆転しているのはなぜかと言えば、その神殿が地のものでないからと言える。

1260-490=770 1260-49=1211 1290-490=800 1290-49=1241

女シオンが差し出す赤子は男児であり、継承者であろう。
赤子の状態は、シオンの子らが陣痛のあるかないかの内に生み出された事、その全数は古代の者らと加算して14万4千よりもずっと多いこと、そこから成長してゆく必要のあることが示唆されているようだ。

だが、サラの子らは一度ここで全体が生み出されることになる。水と霊からの新たな誕生であるが、まだ生まれたばかりで善悪を弁えるのはその後の三時半の行動による。


黙示録のヨハネは神殿を測る そこにはエゼキエルの神殿のように誰も人がいない それは未だ機能していない祭祀の場である ゴグとマゴグの敗退の後にこれが語られるのは理由があるのでは
ゴグの家の者らとは、霊感を語る預言者で、聖徒の著しい反対者では なぜなら彼らが元聖徒でありサタンや悪霊らほどに自分の陥った状況がどんなものかを知っている 自滅的狂乱 時を変えようとする試みか

                                      • -

וְהִגְבִּ֥יר בְּרִ֛ית ヴェ ヒゲビール ベリート 「契約を堅く(制御・締結)する」
「偉大なものの[ラ ルァビーム]ために」[לָ רַ בִּ ים]⇒jh10:29『父が与えてくださるもの[ホ]は他のものより偉大』 Lk7:28「女から生まれた者で・・最も小さいもの[ホ]も彼より偉大」

間中契約を締結し続けるという意味ではないのでは
その間に管制する、とならその機会が二度開かれることになる
なぜ、黙示録に蝗が現れるか、シャブオートと同様の事態が発生するためヨエ

ユフラテから解放された後には神殿再建がその目的となった
彼らが解かれると二億の騎兵が生じる、それはその使いが聖徒で、その言葉に信仰を置くものの現れを意味しないか?(joh17:20-21)
それが実数なら、たいへんな勢力だ

その後バビロンに囚われていた⇒理由は?
咎を終わらせる」の咎は何か?
律法からは離れているだろうし、肉のイスラエルの咎ではないのでは ⇒ Zec3:9
いずれにせよ、「定めない時に至る義」は一度目の顕現では行われていなかった それは契約であり、不安定なものであった
しかし42ヶ月が終了すると、契約が終了し完全な贖罪が行われる
では、そのときには至聖所が存在しなければならないが
天への召しの後いくらかの時間があるか?
42ヶ月はその直前(三日半前に終わる)
「証印を押してしまうまで、損なってはならない」

・分割の理由
もし、契約締結一度なら終末に聖徒は登場しない
そして二世紀からこれまで聖徒は存在して来なかった
彼が管制されるとは、彼が関わる事態を指しているようだ、つまり、その期間に亘ってずっとひとりひとりと契約を結んで回るのではないようだ

パウロは背教の後の天への召しを述べる
聖徒の召しが完了していないので
天の神殿の至聖所は出来上がっていない
当然、油注ぎも行われない


二つの70を関連付けている要素に安息年がある。土地の安息という場合には70年が相当するが、安息だけでは済まないイスラエルの叛きの年月には70週が対応する。その合計は実は490年にはならず、本来は420年と見ることもできる。しかし、エゼキエルに求められた日数は430日であったから、ここには整合性はないらしい。
したがい、490年となる70週は、安息年を含んだ数字であり、土地の安息とは深い関連はないようだ。その間のヨベルは最大9回になる。10度目のヨベルまで更に最短10年を要する。


①ハシュミタとその歳月の満了②捧げ物の終了とマシアハの死③ハコデーシュハコダーシムの油注ぎ④アアロンの安置⑤ルァビームとの契約の締結

語られていないもの:定礎・蝗害・ユフラテ環流・残りの者・アリヤー
必要なもの:日の出の方角からの王らの進軍と攻囲・バビロンの没落・勅令と什器の返還・残りの者の解放・ゼルバベルとエシュア

バビロンの滅びの後になぜユフラテの件が再度現れているのか?聖所が神殿ではない理由、祭祀可能かその直前であることは明らか・・

イザヤはキュロスの名を挙げ、東から興る人と言い、猛禽とも呼ぶ、諸国の民を従わせ、副王らの腰帯を解く45
同時にバビロンの没落を語り寡婦になり子を失うと言う、シオンは子を回復され、夫が戻る。そこで買戻しとシオンの救いを同列に置く
ユダばかりの回復を言わない
エレミヤは神殿の復讐を語り、キュロスの戦法を予告する セラヤには書を石に結わえバビロンは沈み起き上がらないと言わせるがこれはヨハネが繰り返す
そこでキュロスの征服には、イスラエルの買戻し、シオンでの祭祀の復興、バビロンの没落が関係する しかし、これらは当時すべて成就はしなかった
バビロンについては、幾らか時間は端折られている観がある それが没落なのか、滅びなのか 黙示録の場合にはそこに違いが大きい 但し、終末に於ける時間差は小さいと言える これを黙示録で見ると、アリヤーによって自動的にバビロンは没落せざるを得ない しかしその滅びは没落の後に罪を犯す結果つまり神殿への復讐となる ここが古代預言では区別されていないように読める
シオンについては、買戻しによるアリヤーと神殿の再建とがほぼ同時に語られるが、実際の歴史では22年の差があった そこは黙示録の42ヶ月が対応すると思えるが確証は無い この間は聖徒の浄めに関わるので、古代預言も端折るとは思えないが、どうか? 単にイザヤやエレミヤがヨハネを逐一追わないだけなのか? エズラが描くように実際の歴史では黙示録の内容をほぼ追うことができるように観える


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