Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

パウロが語ったふたつの「エルサレム」

『上なるエルサレム

「ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす。すなわち、こう書いてある、「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い」。
兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。」(Ga4:25-28)


ガラテア書の時期は49年以降で、ヤコブの裁定にも関わらず、ユダヤ教徒からの外的反対と同調圧力は引き続き残っていた。
この例えの中で「兄弟」と呼びかけた相手が「シオンの子ら」即ち聖徒であることがイザヤの引用からも分かる。バビロン捕囚により寡婦となっていた女の子らが多くなるというのは、実数を意味しない。神の前に於ける優勢を表すと思われる。
彼らは「契約の子ら」の領分を超えて「約束の子ら」に入っている。即ち、「不妊の」「サラの子」であり「ハガルの子」のように律法の奴隷ではない。その件はヤコブの裁定に含まれたが、依然としてユダヤの聖徒らには律法の習慣が非常に強く残っており、その一部がガラテアのエクレシアイに影響を及ぼしていた。
パウロとしては、外地のユダヤ系イエス派と異邦人の信者との一致を阻害するこの策動に強く反対しており、ガラテアの頭書ではペテロやバルナバとの一件を明記している。
これらガラテアのエクレシアイは、タナハに関する理解を相当に持っていることが前提されており、そこはエフェソス書のようではない。
そのため、サラとハガルの例えにも得心がいった。
そこで、地上のエルサレムを母とするキリストを受け入れなかったユダヤ教徒をイシュマエルに例え、他方で、イエス派(パウロはこれを外部からの別称ながら「クリスティアノイ」という新たな「道」として称されるのを喜んだのでは)は「自由な女」サラを母とすると記す。ペテロもこれを確言しており、上記の句もまた「不妊の女」を通して、待望の子の到来と、その優越性を数の多さに象徴しているであろう。
その「子ら」は単に、律法に拘束されることのないキリスト教徒を指すのではなく、サラが生み出す「真のアブラハムの裔」即ち聖徒を指している。そこで「上なるエルサレム」[ἄνω Ἰερουσαλὴμ]の実体が見えて来る。聖徒らも聖霊を注がれる以前には「契約の子ら」ではあっても「約束の子ら」ではなく、その契約は不安定な状態にあった。しかし、彼らに聖霊が注がれた理由はイエスへのメシア信仰であったが、それが「約束」を受け継ぐ根拠となっている。従って、律法契約を去り、聖徒となって『新しい契約』に預かる者らの母体はメシア信仰とも言える。これは必要条件である。
そこで捕囚からの帰還を果たし神殿祭祀を復興した『イスラエルの残りの者』たちの対型である者らは、メシア信仰者でなくてはならなかった。そうしなかったユダヤ教は神殿と共に祭祀の不能に陥り、既に二千年が経過しようとしている。そこに回復の預言は適用されない。(今後もけっして)
この信仰を懐いた人々はイザヤ書の「シオン」には相当するが、この預言は未だ成就を見ていない。「捕囚」に相当する何かが欠けている。(七十週?)
しかし、使徒時代のメシア信仰者はユダヤ教とは異なり、未だ純粋であったキリストを信じる者らの集団であった。その中でも自由の先端に居たのは律法習慣に良心を縛られるユダヤ系信徒ではなく、異邦人の信徒らであった。こうして「後の者は先となる」。

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『天のエルサレム
これに対して「天界のエルサレム」[Ἰερουσαλὴμ ἐπουρανίῳ](Heb12:22)については、そこに彼らは依然として到達していないこと、また、それが祝会[πανηγύρει]であることが記されている。ガラテア書との違いは、ヘブライ書がまったくのユダヤ教徒エス派向けに書かれているところにあり、聖徒らの目指すべき天界の場所としての実在していたエルサレムではないエルサレムを指している。地上のエルサレムの破壊まで七年程度の時期にこれが書かれており、その認識は急を要していた。それはまた「新しい契約」の成し遂げる到達点であり、それがシナイ山の対極としてのシオン山に象徴されている。確かにモーセによってシナイ山麓で律法契約が血統上のイスラエルと締結されたが、山は激動し、恐怖が人々を捉えたうえ、山体に触れる者は処刑された。
他方で、シオン山で表されるエルサレムに於いて、キリストの犠牲が捧げられ、実際のシオン山上にある城市エルサレムに信徒らは留まり『新しい契約』の発効を見た。パウロは、血統上のイスラエルが近付くことさえできなかった山と、契約の山の上で契約に預かった自由なイスラエルとを対照しガラテア書では『神のイスラエル』という言葉で言い表した。
但し、『天界のエルサレム』での「女シオン」とは別物のHeb12:22で語られた『シオン』は、契約の場としての意味であろう。というのも『山シオン』[Σιὼν ὄρει]に『近付いた(付いている)』[προσεληλύθατε]<直完了能2複>というのは(翻訳難所)シナイ山との対照とすると、山に近付くことが許されずモーセさえ恐怖に慄いたことが敷衍されていると見ることが出来る。
従って、『天界のエルサレム』とは『新しい契約』を象徴する山の上に成り立つ天界の聖徒の祝会を指しており、それは彼らの将来の姿であることになり、その足元には山で表される『新しい契約』が存在していると見ることが出来る。
言い換えれば、『新しい契約』という象徴の山の上に成り立つ14万4千の使いらの祝会に聖徒らは契約の履行によって近づいているということになり、そのエルサレムは「女シオン」の上に載ることを指していない。
アブラハムが遠く遥かに待ち望んだ城市とは、この『土台』を持つエルサレムであったといえる。Heb11:10 その土台とはキリストの犠牲による契約であり、彼の約束の息子イサクの犠牲に対応するものになる。その城市(支配)はニムロデの建設したようなものではなく、イブリとして過ごしたアブラムが住むべき神の城市(支配)であり定住場所であった。そこで彼は自らの地を得るのであろう。『天界のエルサレム』を支えるその土台をパウロはここで『シオン』と呼んでいるということが出来る。
シナイ山は激動し取り除かれるが、シオン山は堅固な土台であり、聖なる人々を載せるが、それは70人の族長らによって予型されていた。パウロはハガイを引用し、山麓に残り山体に触れることの許されない者らと、揺り動かされないシオンの山体の上に召される聖徒らとの対照の中でこれを語り継いでゆくが、どれほどの人がこれを理解したろうか?この辺りの論議の抽象性は群を抜いていて、ほとんど黙示に近い。







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