Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ヒゼキヤの呼びかけ

歴代誌とサマリア年代記との違いについて

ユダもペサハ シェニーを祝ったがそれは時期が既に着ていたというのがエズラの記録だが、伝承では汚れに対する処置のように申し立て、通常からサマリアは月遅れであったという。

だが、クシュムが移民して来たのはその後だという反論がある。それにサマリアが自ら汚れを認めるわけがない。暦が違ったか、差別化を望んだかなのだろう。
この時代はいろいろと微妙な事が多いらしい。北部族から神殿に詣でる人々を留めたのは人口の少ない北部地域より、サマリアの方がアッリシアからの監視が厳しかったからだという説もある。

ユダ王が北に関心を示した例はエホシャファトにも見られる。両国民が合体するという預言の成就はユダ王の働きかけでも、真の意味ではキュロスⅡ世の業績にも由来しない。
ヒゼキヤの息子がマナセと名付けられたところに、ヒゼキヤの北への気持ちが込められているとも、マナセの妻がガリラヤ出身であったというのは根拠が薄いらしい。

捕囚後の後代の伝承は反サマリア主義に囚われているので、かなり注意して見る必要がある。


アシェル・マナセ・ゼブルンの一部が参加したがエフライムについて、エズラは書いていない。
ユダも使者の勧告がなければ多く集まらなかった事情が見える。当時のイスラエル民族全体の傾向が想像される。





メモ
預言書の二つの国民の融合を語る場面はそれぞれに相当な意味があるように書かれている。この見通しが余り良くない・・
原因は、ただレハベアムに在ったのだろうか。


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