Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

バアル崇拝の顛末

 

バアル神

ウガリット史料からカナンの神々の系譜が分かっている。

神々の長はエル、第一婦人はアシェラ

長子バアルは暴風と豊穣の神、その兄弟でライバルの神がモトで死と冥府の神

彼らの姉妹であるアナトは美と武勇の女神

これらの神々に関わるコタル神はすべての技芸の守護者であり、ヘパイストスに相当するが、この神は最近(20世紀後半)まで知られていなかった。

ウガリット文書での主流はバアルとモトとアナトによる豊穣神話である。

 

エルはアシェラが生んだ子らに神を任せて自分は隠遁した。

子らにはバアルのほかに、ヤム、モトが居る。

「ヤム」はヘブライ語同様、セム語で「海」であり、エジプトのテュホン(セツ)に相当するらしく、七つの頭を持つ竜とされる。(ヘブライのレヴィヤターン)

「モト」は冥府の神であり地上に旱魃をもたらす。バアルはモトとの戦いに敗れ、モトに食いちぎられていまう。そこで全地に旱魃が襲う。

バアルの妹アナトは、兄の遺骸を集めて再生させ、モトを鎌で二つに切り、日に晒して臼石で挽いて粉々にしてまき散らす。そうして旱魃は終わる。

万神殿の主に返り咲いたバアルも、冥府の神モトの影響を免れず、毎年にバアルの雨季とモトの乾季とが地上に繰り返されることとなった。

<愛する男神の遺骸を集める女神についてはエジプトのイシス神話と重複し、季節の移り変わりについてはギリシア神話の女神デメテルに相似する>

 また、バアルは雷を持つ天候の神ハダドとしても描かれるが、この点はギリシアのゼウスと重なる。ハダドはアッシリアではアダト。

(ハダドの名字を持つ家はシリアやイスラエルに現在も少なくない)

 

オムリ王

北王国の王朝の創始者とされたヤロベアムは、アヒヤを通したYHWHの勧告よりも個人の怖れに屈し、ダンとベテルにアピス崇拝を持ち込み第八の月の15日に祭礼を行うものとした。これは「王らの記録」の中で『ヤロベアムの罪』と称され、イスラエル王国の存続期間中のほとんどを通して拭われなかった。

そのためヤロベアムの王朝の終わりが預言されていた通りに、戦車隊半分の長ジムリの謀反によりヤロベアム朝は途絶えるが、ジムリの器量不足から軍の大将オムリにより七日で王権はオムリに移るが、オムリもすぐに対抗するティブニによって王国は二分されてしまう。その間に勢力を伸ばしてきたアッシリアに対処しなければならなくなったオムリはイスラエル王国を始めてアッシリア朝貢国家とすることになった。

ティブニの没落はオムリの治世の終わりの七年を残すばかりとなっていたので、オムリは王国の栄えを発揮するためにさまざまな備えを必要としている。

その中で、彼はイスラエルの首都をティルツァから要害に移している。エフライムの中に在ったシェメルの所有であった山を今日の百万円ほどで買い取り、そこをシェメルの名を取ってサマリアと名付けて遷都した。

加えてモアブを攻撃し支配下に置くことに成功している。

律法ではカナン人との通婚は禁じられているが、彼はカナンの長子の支族シドン王、エトバアルⅠ世に娘か養子を嫁がせたらしい。そうであればその娘イゼベルはイスラエルと混血である可能性もあることになる。

 

 

アハブ 

 在位869ca-852or3 

国家の統一とモアブへの覇権を確立した父オムリからイスラエル王国の王位を継ぐ。

エトバアルⅠ世の娘イゼベルを娶り、自らテュロスのバアル神殿をサマリアに建立

イゼベルは自国の祭司団を引き連れてシドンから嫁入りする

ユダのエホシャファトの息子エホラムに娘アタリヤを嫁がせユダとも同盟。

アタリヤも夫エホラムにエルサレムにバアル神殿を建立させ、YHWH神殿から貴重品を奪いフェニキアから祭司団を招聘する

父オムリの治世中にモアブはイスラエルに支配されて、「その子ら」に及んでいたことをモアブ石碑は告げている。

当時のシリア王はベン・ハダドⅡ世、及びハマトの新ヒッタイト王国と軍事同盟を結びアッリシアの強勢に対抗 ⇒  シリア同盟

黒のオベリスクに31年間の戦いの記録あり

855カルカルの戦い アハブは戦車1200輌 歩兵10000を率いて参陣

 -シリアと海岸の12の王たちは防衛に成功、アッシリアを押し返す- 

シャルマネセル Ⅲ 治世中858-824 

これにアッシリアは相当に懲りてその後の二年間戦役を行わない

 

アハブ自身は、YHWH崇拝に回帰する姿勢を見せるところあり、オムリ王朝は息子の代まで延命を許される

843ハザエル、シリア王位を病のベン・ハダドから簒奪して即位

841シャルマネセル Ⅲ、反抗するハザエルのダマスコスの占領に失敗

 

アハブ自身に崇拝への深い関心は見られず、イゼベルに崇拝と内政を許していた形跡が見られる。時にYHWH預言者に責められては心変わりもし、自らを省みるところも見せている。ユダ王国との同盟に、その辺りの立ち位置が見える。

娘アタリヤをエホシャファト王の息子エホラムに嫁がせ、ユダとも姻戚関係を強め、エホシャファトとは共同でシリアと戦う。時のシリア王はベンハダドⅡ世。

特にラモト・ギレアドを奪還する作戦行動をどうするべきかをエホシャファトと共に預言者らに問い、預言者ミカヤと対立しこれを捕縛し変装して出陣するが、矢の致命傷を負い、遂にエズレエルの土地で死に、兵車と共にサマリアに運ばれ、池で兵車を洗っていると「犬らが来てその血をなめる」の預言が成就した。

アハブの逝去を自分たちの独立の機会と見たモアブはイスラエルに従わない姿勢を見せ始め、これが王位を継いだエホラムがユダ、エドムと同盟してモアブの指導者となったメシャを攻め、大勝するきっかけを作る。その時のユダ王はエホシャファトであり、その善王のため預言者エリシャはその願いを聞き入れている。だが、彼は人が良過ぎた。

 

 

ティシュベ人エリヤ 

アハブの治世中から預言者として現れる

ティシュベはおそらくヨルダンの向こうのギレアド、バシャンの高原に位置したのであろう。即ち、イスラエル王国の領土に含まれていた。

イスラエルの三年の旱魃の初期に過ごしたケリトの谷はティシュベの近くであったと思われている。そこからフェニキアのザレファトに移動している。

ザレファトの極貧の子持ち寡婦は、エリヤに「あなたの神は生きておられます」という言葉を用いているが、これは異邦人に対する儀礼の言葉であった可能性がある。しかし、この女は踏み出して後に奇跡を見ることになった。

後にイエスは「その頃イスラエルには多くの寡婦が居た、しかし・・」と語られたとき、まさにイスラエルは異教に染まり、エリヤを匿うこともなくYHWHへの忠節を示す者は僅かになっていた。

イスラエルは大半の時代に於いてYHWH崇拝が表層的に堕していた。

 

カルメル山での対決の場面で、エリヤはYHWHを圧倒的に示し、旱魃を終わらせたにも関わらず、イゼベルはエリヤの命を狙い続け、アハブはどうなのかはっきりしない。ともあれ彼はアハブの戦車の前を走り続けて逃れるが、これは人間の走りでは無理と思われる。

彼はユダのベエルシェバに着き、従者を残して木の下で死を願うが、天使の助けを得てホレブまで40日かけて向かうことになる。

 

エリヤは、アハブとイゼベルの圧迫と迫害に遭って一人残されたと思っていたが、そこに七千人の同志が居ることをYHWHから知らされ、バアル崇拝への神の処置を後の三人を任命することによって果たさせるよう命じられた。だが、実際に直接任命したのは、エリシャ一人であった。そのエリシャが後の二人を任命している。

彼が、アハブ王の死後もアハジヤの治世中に自ら活動を続けていたことは記されているが、ユダの王エホラムに手紙を書いたとの記録が歴代第二21:12に有る以上、空駆ける火の戦車に乗って去ったのも、天界に召されたのではなく(Jh3:13)預言者としての活動のイスラエルという舞台をエリシャに譲り、自らは隠遁してユダ王に助言したというべきである。エリヤはその後も姿を現さないまま没年も場所も不明。

従って、彼の生涯はアハジヤの死後もユダ王エホラム即位後の前846年以降まで継続していたことになる。(アハジヤの弟エホラムの死842については不明)エリシャはユダのエホアシュ(798没)の頃まで活動したと思われる。

<火の戦車による隠れ場への退去は、聖徒の召天を示し、残るエリシャが信徒を指すとすれば、バアル崇拝をグレコローマンキリスト教会として、その処罰がエリシャの活躍期に成し遂げられる予型と見ることはできる>

 

 

エトバアル Ⅰ世 位987-846or847

ヨセフスの伝える「アピオンへの反論」の中でエフェソスのメナンドロスの引用からすれば、ヒラムの王統で32年間治め68歳のフェレスから王位を簒奪した。その以前にはアシュトレテ(アシェラ)の祭司であった可能性あり。

国家を繁栄させたようで支配地域はシドンを除くベイルートにまで及び、キプロス島の一部をも領有し、リビアには植民都市アズマを建設している。

聖書はシドンの王としているが、フェニキア全体を治めたとも[テュルスと同国]

後継者は息子のバアル=エセルⅡ世

メナンドロスはティルスについて前853年のカルカルの戦いについて述べていない。⇒シャルマネセルⅢ世の黒のオベリスク

しかし、息子のバアル=エセルⅡ世は前841年にアッシリアに臣従(朝貢?)したとされている。

 

イゼベル:前-前850年頃

ヨセフスの資料などを追うと、かの有名なカルタゴのディドー*の大叔母に当たるとも *814カルタゴを建設、兄はピグマリオン

アハブに嫁ぎイスラエル王国にバアル崇拝を盛んにさせ、同時にYHWHの崇拝を抑圧し、その預言者らを殺害していた。それを宮廷のオバデヤが残った百名の預言者らを二か所の洞窟に匿い秘密裏に養っていた。

アハブ死後の二年のアハジヤの治世とエホラムの八年の治世中も皇太后として君臨していたことはエフーの言葉にも窺える。他方で娘のアタリヤがユダ王に嫁ぎ、こちらもエッサイの王統を絶えさせる寸前までの悪を行っている。エルサレム神殿の財物も奪われ、近くに在ったらしいバアル神殿のものとされたので、ユダもエホシャファト亡きあとにはYHWH崇拝も相当に邪魔されていたことがわかる。ただし、アハジヤの姉妹のエホシャブアトがアハジヤの一歳の末の息子をアタリヤから匿ったが、彼女は大祭司エホヤダの妻であったので、エホヤダはその赤子と乳母とを神殿の椅子の倉庫に以後六年匿う。

ホレブで知らされたように、エリヤはYHWH預言者が自分一人だけであると嘆いたが、神はイスラエルにバアル崇拝に屈しなかった『七千人』を残していた。↓

『この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。』Rev11:13<この翻訳部分は使い物にならないが一応掲載、直訳にすると終末の聖徒の身の上に起こる事柄が見えてくる>

 

 

カルメル山

北方から南下してくると、その山脈に行く手を阻まれ、海岸の非常な隘路を行くのは行軍を遅くされる上に攻撃に弱いため、一端メギドまで東進してから南下を続けるほかには行軍の適路がない。そのため、メギドが要衝となっていた。

聖書で「カルメル」と言う場合には、最高の峰を指すか、山脈全体を指すのかははっきりしない。

麓に沿ってキションの川があり一部はワジである。そこはかつてセシラの戦車隊が壊滅している。この谷でエリヤに敗れたバアルの祭司らがイスラエルの手によって処刑された。

 

 

エフー 位前842ca-

『エフーがイズレエルに来たとき、イゼベルはそれを聞いて、目に化粧をし、髪を結い、窓から見下ろしていた。
エフーが城門を入って来ると、「主人殺しのジムリ、御無事でいらっしゃいますか」と言った。(上首尾でしたか)』2Kng9:30-31 これは王家の威光のないエフーに対する威圧であり、ジムリの轍を踏みたくないならフェニキア王女でもある自分と組めという意味にもとれる。実際、オムリ王家はアッシリアにも一目置かれる存在であり、エフーが王位を得てもアッシリアは彼をオムリの家の者(下僕)と見做した上に、オムリ家とは異なり朝貢を要求され従わざるを得なかった。

『彼女は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている』Rev18:7

『イゼベルについて、主はまた言われました、「犬がエズレルの地域でイゼベルを食うであろう」』1Kng21:23

『「これは主が、そのしもべ、ティシェベ人エリヤによってお告げになった言葉である。すなわち「エズレルの地で犬がイゼベルの肉を食うであろう。
イゼベルの死体はエズレルの地で、糞土のように野のおもてに捨てられて、だれも、これはイゼベルだ、と言うことができないであろう」。』2Kng9:36-37

『あなたの見た十の角と獣とは、この淫婦を憎み、みじめな者にし、裸にし、彼女の肉を食い、火で焼き尽すであろう。』Rev17:16

 

 

エフー27の王統は、エホアハズ17、エホアシュ16、ヤラベアム41、ゼカリヤ6m 「その子は四代まで王座に就く」2King10:30・15:12  前904年~約60年 

但し、YHWHはエフーの子らの不肖を予知し、ハザエルを任命し用いていたと言える。

 

<列王記はサマリア滅亡前に記された記述があり(2King13:23)、また滅亡後721~の記述もある(2King17:23-)。これは時期別の史料が編纂された痕跡と言える>

 

ケニ人

ケニの由来は創世記から系統を追えないが、アブラハムの時代にカナンまたはパレスチナに生活していたことは記されている。(Gen15:18-19)

イスラエルとの接触は、モーセを保護しチポラを嫁がせたところから深まっている。その族長のひとりエテロ(ヘベル)はミディアンの地で祭司であり、ほぼ間違いなく遊牧民であった。割礼の民かどうかは記述なし、おそらくは割礼の民なのだろうが、ゲルショムの一件は少々気になるところ。(Ex3:1)

彼らは聖書中で時折に「ミディアン人」とも呼ばれるが、これはケトラを通したアブラハムの子孫であることを必ずしも意味しないものと思われる。なぜなら、民数31:9-10によればミディアン人は多数の家畜を持ちながらも定住生活をしており、イスラエルに同行するならば、住居や都市を去らねばならなかったという不都合があること、また、彼らが後世までイヴリーとしての生活を保ち続けた習慣に、部族の誇りが関わっていたことが挙げられる。

イスラエルに帯同してカナンに入ったが、彼らは同盟者であり、カナン諸部族にも含まれず、特殊な立場を持っていた。そのため、カナンの戦車隊長シセラがケニ人の天幕に逃げ込み、これをヤエルが殺害しているが、そこにイスラエルへの忠節が見られる。

特に、エホナダブ以降はイスラエルのような定住生活に入らず、畑も営まず、イヴリーとしての生活を続けることを家訓として守り続けていた。それは『約束の地』を相続するのがイスラエルであり、自分たちではないことを認識していたとも解せる。この点からしても、ほかのモアブやアンモンなどのアブラハム近親の支族とも一線を画して、別系統の異邦人であったとすれば、終末の信徒の予型と言える。

バラムはその預言の中でケニ人を見て『「お前のすみかは堅固だ、/岩に、お前は巣*をつくっている。しかし、カイン*は荒廃に委ねられるであろう。アシュル*はいつまでお前を捕虜とするであろうか」』と言っているが、これは見掛け上の実生活とは異なりながらも、「荒野」というイスラエルの原点に住まう点での賛辞と見ることができる。また、この預言全体にはアッシリアに悪影響を受けるという点でも、終末への深い啓示を感じさせる。(民数24:21-22)<『荒廃に委ねられる』は岩波委員訳、他に「カインは滅ぼされる」もあり、この両者で意義は相当に異なってくる>

カナン入植時にケニ族はネゲブのアラバ方面に移住したことをヨシュア記は示す(1:16)、しかし以後にはカナン北部にも分布している(同4:11)、サムエルの時代もその功績は認められている(1Sam15:6)

ダヴィドの時代に、ヤベツに住んでいた書記の種族ティルア、シムアト、スカトの諸族はレカブの家の父ハムマトから出たケニ人であった。(歴代第一2:55)

このレカブについての以前の聖書記述はない。ただレカブの子エホナダブとすることで、エフーの兵車に同乗した人物がエレミヤ書35章に登場するレカブ人の祖と同一人物であることは分かる。

 

そして、歴史の上ではイスラエルにも分布して生活していたらしく、エフー王はバアル崇拝の根絶を目撃させるためにその一人エホナダブを陪席させている。これは、終末での聖徒が信徒に大娼婦の裁きを目撃させるかのような展開を見せている。(Rev19:6)

カレブの子エホナダブは他のケニ族が定住することがあっても(1Sam30:29)、自分の子孫にはイヴリーとしての生活を守らせ、古来のイスラエルへの帯同と関わらせており、エレミヤの時代にヘブライよりもヘブライであったところは、聖徒を生み出して後に「荒野」に住まう女シオンを彷彿とさせる。Jer35:1- /Rev12:14

 *(「巣」ハ キーニー[הַקֵּינִ֔י]はケニ人との掛詞)*([קָ֑יִן]ケーニーは「カインの人」)

創世記にケニ人の由来がないのは、ノアの家族の女系の流れのどれかを指しているのかも知れない。カインの血は女系によってノアの一族に流れている可能性はある。カインは都市建設の始祖であり、ケニ人はその対極にあるとも言える。⇒ 「バラムへの託宣の驚異的な言葉」

 *(アシュルとは綴りからしてイスラエルの部族を指さない。LXXからしてもアッシリアであることはまず間違いないが、アッシリア侵攻は前8世紀であるから、2Sam2:9の「アシュル」人かも知れないともされる。識者はアッシリア侵攻以前にケニ人は消えたと判断している⟺Jer35:19/Neh3:14 ”The Illustrated Bible Dictionary”はイエメンや死海近傍のベトウィンにヨナダブの子孫を主張するグループがあることを知らせる。使徒時代のセフォリスのラビ・ハラフタHalafta(ヨシ・ベン・ハラフタは息子)はレカブの子孫とされる(バビロニア由来とも)。

!  Num24:24はDan11:30に関わっており大変な秘儀がある

?捕囚後のケニ人の記述を探す 

 

 トフェト [Ταφέθ ]

バアル崇拝に付帯して見つかる小児の集団埋葬所

聖書では「トフェトの高き処」として異教崇拝の場とされながら、「埋葬」も含意した用例もある。イザヤは薪を積み重ねることについて、エレミヤはエルサレムの罪はトフェトに葬るどころではなくなるほど多くなると預言(Isa30:33/Jer7:31-)

総合して観ると、エルサレムの南の城外の谷でバアル=モレク崇拝が行われ、嬰児が火にくべられていた。その遺骨はトフェトに納められた。(この時代、神殿にすら偶像や聖柱の幕屋が存在していた)

それらの跡が見つからないのは、ヨシア王がトフェトを使用不能に汚し、骨を焼いて粉砕したという記述が列王にあるためかも知れない。

しかし、塵芥の堆積もないのはローマ軍の占領によるものか?ヨセフスの戦記には、無数の遺骸が放置されていた谷の記述がある。これはエレミヤと時代も違うが、確かにトフェトどころではなくなった。

ラシとダヴィド・キルヒはトフェト[תוֹפֶת]は、子供の叫びを掻き消すために叩かれたドラム[トフ]に由来するとは言っている。「トフェト」のニクダーを変えると「トフ」となるとマソリームは言うらしい。

最近は「暖炉やオーブン」を意味するアラム語由来との主張あり。真偽はなお不明

前814年にカルタゴが建設された頃から両親によって小児がトフェトへ骨壺に納められて埋葬される習慣があった。(Richard Miles ”. Carthage Must Be Destroyed: The Rise and Fall of an Ancient Civilization

カルタゴで発見されたトフェトでは、およそ300年に二万の骨壺が置かれたと見られ、2歳くらいまでの嬰児の骨で中には焦げているもの、また新生児も含まれていたと

それらのすべてが崇拝行為の中で命を落としたものかは不明とのこと

(おそらくは乱交からの子の処置としての執行圧力があったろう)

しかし、列王記の記述では、トフェトはやはりモレクへの生きたままでの焼燔祭のための埋葬所であったことが言い回しで分かる。聖書中で「トフェト」の語が現れるのはヨシア王第18年以降の宗教的清めの中で、『ヒンノムの谷にあるトフェトを使えないようにした』とあり、崇拝する場であった。

律法には幼児を焼燔にすることを明確に禁じており、早い時期からこの宗教風習への対立が見られる。これはイサク献供の試みに遭ったときのアブラハムも当然ながら嫌気していたに違いない。<サレムの王なる祭司の神はエル・エルヨーンであったが、エブス人からの観点としてはどうだったか?>

 

?アシェラの崇拝者が、YHWHとの対決に出て来ないのだが、アシェラ崇拝はどのようなものであったか?

アハブという人物には、一貫した強面な悪者という風情がなく、改心する場面でのYHWHの喜びようには、イゼベルへの訴求を強めるかのようなところがあるのではないか。

エリヤはどうしてホレブまで行く必要があったか。また、なぜホレブであったのか。⇒エルサレムでのバアル神殿の存在のためにYHWHの崇拝が軽んじられていたか、或いは、イスラエルの原点が荒野にあることを知らしめるためか。この時代ユダは何をしていたか?神殿はまったく見捨てられ、祭司まで異教に走っていたという記述が本当であれば、また、祭司職の問題もあり、聖所に行く意義も小さかったかも知れない。おそらくアタリヤが権勢を持つエルサレムでは身の安全が保てなかったのだろう。イスラエルだけでなくユダまでがバアル崇拝に冒された状態では、彼の行くべき場所はモーセの原点になるホレブ以外に残されていなかったと思われる。

ベエルシェバに辿り着いたときには、彼はそこで死ぬ気でいたのであり、ホレブへ導いたのは食事を与えた天使であった。彼はカルメルの奇跡を示しながらも、イスラエルにもユダにも失望していたと読める。エリヤをバアル崇拝の権勢から守り、匿う者さえ居なかった。彼は華々しい奇跡を見せたことで、却って同朋12部族とレヴィの口先だけの実質的無反応に落胆を感じつつネゲブに逃げたと思われる。

 

 

エズレエル人ナボテ

アハブの王宮の傍に相続地を持つイッサカル族の者

アハブの要求は代価を差し出す鄭重なものであったが、彼はトーラーに従うゆえにそれを拒否した。Rv25:23-

これにアハブは落胆していたが、イゼベルは邪悪にも偽証者を雇いナボトを告発させトーラーによって処刑させている。これにはアハブは関わっていない。

ここから黙示録のテュアティラの女イゼベルが類推できる。エクレシアの者らはその女を容認してしまっていたが、それはアハブがナボテの死に加担していないにも関わらず同罪とされ、エズレエルの畑地でアハブの血を犬がなめることがエリヤによって宣告されている。つまり、テュアティラの女預言者を放置してはならないということの教訓として「イゼベル」の名が用いられている。

アハブ自身は時折に意志薄弱なところを見せているので、毅然とした対処が求められていることも知らせている。

サマリアのアハブとイゼベルについて言えば、彼らの最大の罪はバアル崇拝そのものではなく、ナボテの血の罪であった。この件はトーラーに照らすと幾分か意外性もある。しかし、これを終末の観点から見ると聖徒への血の罪として捉えることができ、まさしく娼婦『大いなるバビロン』の罪そのものとなる。

イゼベルの死にざまとバビロンの滅びとには明らかな整合性があり、共に重大な罪は血に関するものであった。従ってトーラーを遵守したナボテは聖徒の前表と言える。

預言者エリヤは常にアハブへの宣告者であり、イゼベルに直接に話した記録はない。責任は契約にあるべきアハブに在ったからであろう。

 

 

イスラエル王エホラム 前851ca-842ca

アハブの子、兄であるアハジアの後を継ぎイスラエル第九代の王となる。支配期間が12年と聖書にあるのは、病床にあった兄との二年の共同統治を含んでいる。アハジアは即位とほぼ同時に落下事故に遭ったらしい。

ユダの王エホラムの子アハジヤとはアタリヤを通して伯父と甥。

列王第二3章ではモアブの反抗に対してユダとその配下のエドムと同盟し、エドム方面からモアブを攻め、これはエリシャの預言の通りに勝利する。

エリシャの預言によりしばらくはシリアからの攻撃を免れたが、ベンハダドに代って後、サマリアを包囲されている。

シリアの王がハザエルに変わったのはその死のしばらく前で、ラモト・ギレアドでの戦いの直後にエフーが油注がれている。

ハザエルが王権を簒奪すると、エホラムはその混乱を利用して、ベンハダドⅠ世の頃からアラムに奪われていたゴランとバシャンとを取り返す作戦を決行したがラモト・ギレアドで敗れた。

エホラムはその時の戦いで負った傷をエズレエルで癒していたが、そこに従兄弟のアハジアが見舞いに来ていた。エフーの受膏はそのタイミングを狙っている。それでエリシャの従者は走って行って走って帰っている。エズラはこのタイミングが「YHWHから出たこと」としており、そこにYHWHのエリヤへのハザエルへの『バアル崇拝を罰する三人』の意味が見える。但し、シリア王ハザエルはその後もイスラエルへの攻撃を止めず、重荷を加え続ける者となった。

歴代誌下と列王記下とのアハジヤの死の場所と死に方が異なっている。読む限りではエレミヤに信憑性が高いように感じるが

 

 

 

所見;

エリヤを通して、バアルとYHWHの対立が描かれる

これはYHWHの崇拝を抑制し迫害するものとしての俗権的に優勢なバアルと、荒野的抽象的無偶像のYHWH崇拝との対立という観点を要請している。

その代表がYHWH預言者らとバアルの祭司(アシュラも)であり、政権側にアハブとイゼベルが居る。

アハブ側の悪行はナボテへの謀殺があり、これが血の復讐を招いた。預言者についてはどうか?(アハブはナボテ殺害までは謀っていないし、エリヤに殺意は持ち捜索したが殺害を命じてはいない。彼の心中ははっきりしないところがある。GBに対する王への予型か?)

崇拝の対立という点では、カルメルで決着はついているが、それを政権が延命させている。その後、シリアが強勢となりイスラエルには鞭となるにせよ、あまり深い意義はなく終わる。だが、そこでアハブは落命している。

その後十年イスラエルの趨勢は変わらず、エリシャによるエフーの任命を迎え、オムリの家の断絶が起り、イゼベルも墜落死して後、バアルの祭司が絶やされている。

その後のイスラエルは、もはやアッシリアの脅威から逃れられず、遂に前722年の亡国を迎えている。

ヒゼキヤ(前727即位)はアッシリアに服属する姿勢を見せつつ、イスラエルYHWH崇拝への復帰を促してペサハに誘い、北王国を重視して息子をマナセとまで名付けている。

しかし、イスラエルはシャルマネセルVの前に滅び(聖書ではサルゴン)ユダはその以前にエジプトのクシュ王朝と提携し、後にはサルゴンⅡ世没後に朝貢を見合わせていたことが災いし、前711年セナケリブ王の恫喝に遭うことになる。

長いスパンで見ると、律法契約の結果をまず叙述している。そこでバアル崇拝はエピソードではあるが、それだけでも非常に劇的で何かを雄弁に語ろうとしているかの観がある。特にイゼベルのエリヤへの殺意には、聖徒に対する大いなるバビロンの姦計に通じるものがある。最終的にエリヤが地を去る象徴を示す理由がここになるとも言える。しかもその後でユダのエホラムに書状を書いている辺りには、聖徒が地に残す信徒への指導を見るようなところもある。

 

それから、後のヨシヤ王がベテルからサマリアに至るまで偶像を毀し高い場所や祭壇を汚すことができたのはアッシリアの急激な弱体化と時期が重なっている。ユダの最後の輝きであり、これも示唆的ではある。(エサル・ハドンとの時代関係?)

⇒「アッシリア新帝国」 

 

悪魔としては、アブラハムの嫡男献供をずっと以前から察知していたということか?しかも、後のメシアとなる神の初子にして独り子を屠る予型として、カナンの崇拝に長男供儀を取り入れさせ、エシュアを殺すことを心待ちにしていたという構図さえ見える。

こうして観ると、「主」(バアル)崇拝というものは、メシアを誹謗して創造の神に早くから対抗して興されていたことになり、キリスト教にも入り込んで「主」を奉らせ、終末には三一や地上再臨の教えを以って真実のメシアに対抗し続ける執拗な抵抗であることが見えて来る。

しかし、神は悪魔を含めた邪悪な企みをさえ用いて経綸を成し遂げることになる。特に神名の証しが立てられるときには、キリスト教会がたいへんなことになりそうだ。多分狂気の余り聖徒に逆らうだろう。論点はやはり三一と地上再臨になるのが見えている。それでアンチクリストを召還してしまうか?

その過程に於いて、エリヤやエフーの働きは、終末の聖徒と信徒の働きをも前表するものとなっている。ケニ人についてもう少し何かあるのでは・・

副次的にバラクの預言についてダニエルとの関わりをつめていなかったので、これも今後の注目点になる。

・・しかし、まだまだ出て来るものだ・・なんというか・・

 

全般的に、YHWHは王たちについて善悪の白黒をはっきり付けてはいない。

悪行の著しい王であっても、支配民のためにか助力するところが度々に見られる。また、幾らかでも改心する時にこれを喜んでさえいる。しかし、行った事柄への酬いは刈り取らせる。エズラ文書でのユダ王の評価ははっきりと描かれているが、列王記は両国の歴代の王の事績を語るところに傾注しており、人格を規定し切っているところまでは進んでいない。

 

 

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 エリヤからエフー迄でも相当量になるので、出発点をよく考え、出来る限り省略してゆかないと肝心な部分が等閑になる。

描くべき場にたっぷりと叙述を集中させないと、本題そのものが広範なので大味になってしまう。

どこに重きを置くのか?

前段としてイブリーと城市生活者との対比が無いといけない。

イスラエル王国が堕落したのは異教崇拝だけでなく、イブリーを忘れフェニキア商人の王国と結託したところにあった。

オムリの家はアッシリアからさえ一目置かれる存在となったが、それはイブリーであることから遠ざかったからであることをレカブ人の登場が物語っている。そしてエリヤがエルサレム神殿に向かわず、ベエルシェバに逃れ、天使によってホレブに向かうよう促された。即ち荒野というイスラエルの原点である。人里離れた場所に神は住むかのようであり、モーセと神が出会ったのもエジプトではなく、ホレブ山麓の荒野であった。遊牧民アブラハムが天幕暮らしの中から神を見出したところは聖書にないのだが、テラハは間違いなく遊牧民であった。族長時代にアブラハムの子孫は定住せず、家も畑も持たなかったが、それはパウロの言う『神のイスラエル』に敷衍されるべきことを使徒ペテロがはっきりと認識していた。即ち『聖徒』は『この世』に対してイブリーなのである。だが、アハブは逆の道を歩んで『この世』で傑出した王とはなったが、そこで失ったものは大きかった。彼は優柔不断な側面を何度か見せている。その一方でその妻はそうではなく、徹頭徹尾バアル崇拝者であり、また邪悪であった。

もし、エフー王の事跡が関係あるなら、アハブは「七つの頭を持つ野獣」であり、エフーはそこから出て来た「十本の角」に相当することになる。

まず大娼婦が「肉を食い尽くされ」滅びるとしても、残ったバアル崇拝者も一網打尽とされることになる。それは騙し討ちであり、徹底したものになる。しかもYHWH崇拝者は注意深く分けられるともとれる。大娼婦とはキリスト教界で、バアル崇拝者らは旧来の諸宗教なのだろうか?それとも両方ともがそれぞれを表すのだろうか?

注目すべきは、この段階で聖徒が世を去っていることであり、その舞台は人類連合軍の召集の後らしいことである。

未だ謎であることは、バアル崇拝が指すものがキリスト教界であるのか、より広く旧来の宗教界全体を指すのかが分からないことである。

「三分の一」への理解を極めないといけない

 

 

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後日談:

その後アッシリアアナトリア方面に注力することになり、その間にハザエルの子ベンハダドⅢ世はギレアド、モアブ、エドムまでをも勢力下に収める。さらにユダを通過してフィリスティアを攻め、おそらく支配下に置いた。これはエフー王の最後の年に起った。

その間、ギレアド方面のユダ人はアラム人とアンモン人から圧迫、また虐待を受けた。だが、アッシリアが再びパレスチナ方面に注意を向ける796年にダマスコスは打撃を受ける。この点、アダド・ニラリの石碑によればアラム王への勝利とサマリアのエホラム?の朝貢について言及されている。

但し、アッシリアは未だ世界覇権には至っておらず、その後イスラエルはヤロベアムⅡ世によってシリアを退けギレアド・バシャン以南への覇権を再確立することができた。