Notae ad Quartodecimani

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預言者エリヤが昇天していない理由

 

預言者エリヤが昇天していない理由

・エリシャの預言者としての活動はエリヤの取り去りの後である

列王記第二2:11-14

・エリシャはエホシャファト王にモアブとの戦いについて預言している

列王記第二3:14

・ユダのエホラムの統治はエホシャファトの崩御の後である

歴代誌第二21:1

・エリヤはエホシャファトの後継王としてのエホラムに諫言の手紙を書いている

歴代誌第二21:12

・キリストイエスは『人の子のほかには、だれも天に上ったことがない』と言われる

ヨハネ3:13

 

エリヤの取り去りによってエリコの預言者らが五十人を遣わして三日の捜索を行ったが発見できなかった。これにエリシャは反対していたが、それはエリヤの取り去りに神の意志を認識しており、自らがエリヤの霊を二倍も受けていたことの意味からしても無益であることを悟っていたためと思われる。

神がエリヤを中空に挙げて人に知られない場所に移動させた理由は、エリヤとエリシャの関係に預言的意味を与えるためであったと思われる。

オムリ王朝アハブの家からの迫害に曝されてホレブの峰まで逃避行を行い、そこでエリシャ、ハザエル、エフーの任命を託されている。エリヤ自身はエリシャを後継としただけであったが、エリシャによりハザエルとエフーが任命される結果となった。これらの者らはオムリ王朝を終わらせ、ユダにも影響をもたらしバアルの神殿が両国の首都で破壊されるに至っている。

バアル崇拝との対峙に於けるエリヤは、その受けた迫害によって終末の聖徒らの活動を予示するものと見れば、ヨエルの延長線上にある黙示録の蝗害と五か月後の終息、やはりヨエルに暗示されるように、その後を二億もの騎兵隊が引き継ぐこと、また騎兵隊には蝗害に無い致死性があるところに整合性がある。

これはあのペンテコステの日から始まったユダヤ体制へのナザレ派の聖霊の活動を伴った糾弾の痛撃にヨエルの第一の成就が見られるので、終末では聖徒の迫害と滅びに対する世の体制への信徒らの糾弾が類推される。

終末のバアル崇拝に相当するものは、聖霊で語る聖徒らを最も嫌悪し、世俗の権威を使嗾して亡き者とさせる宗教界の初子であると思われる。それはキリスト初臨でのユダヤの宗教領袖らに相当し、終末でも名称では同じ宗教であろう。黙示録では他にも許多の宗教が関わって『大いなるバビロン』を構成し、滅ぼされ、蝗害のように地を去った『聖徒らの血に酔う』が、それを糾弾する人々がエリシャに相当する騎兵であり、聖徒の血の罪を負った世界を赦すことなく、ゲヘナの滅びに相当する火と硫黄と煙の象徴としての赤と黄と紫の害をもたらすが、騎兵自身はその防具を胸当てとして付けている。

ここにエリヤとエリシャの対型が見られ、終末に於いてはそれが人類の裁きの分かれ目となることを聖書は黙示している。

 

一方で、キリスト教界はエノクやエリヤが天に上った先例として、自分たちのご利益の予兆とするところ有り、それが如何に神の意志を探ることよりも、利己的に聖書を読み込もうとしているかを示している。

ここに神の意向との正反対の動機があり、キリスト初臨でのユダヤ宗教体制が自己満足的であったように、終末でも本来なら同じ宗教を奉じているはずが、その精神に於いて正反対であるところから、エリヤに相当する聖徒らに強く反発して聖霊に逆らい、これを迫害して致命傷を負わせ、その活動共々拭い去ることで自らをバアル崇拝者、またメシアを除き去ったユダヤ体制の対型であることを示すことになろう。

そこでエリシャに相当する活躍を為すのは、終末の聖徒殺害の糾弾者たる騎兵隊であり、彼らこそゲヘナの裁きを免れ救いに至る者と言える。

 

エノクの取り去りの背景にある巨人族の横暴

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