Notae ad Quartodecimani

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ゼカリヤ書 解説

ゼカリヤ書

この預言書は、前半のテーマである捕囚後の第二神殿の建立に事寄せて、終末に建つ天界の神殿、メシアを礎石とする選ばれた聖なる者らによって構成される新たな神殿の建立に至る過程で生じる恐るべき事態に、その構成員として選ばれる聖徒らを試練に備えさせる警告と教訓に満ちている。第九章以降は黙示文となっており、誰にでもその内容を理解させる意図を持っていない。

聖徒らの受ける試練の悲惨さ、混乱の酷さは普通の人間には耐え難いものとなるが、その犠牲によって、彼らは『諸国民の光』となるのであり、自らの磔刑の木を荷いキリストに付き従って全き義に達し、共同相続人としての立場に上ることにより大祭司キリストと共なる従属の祭司の立場を展開で得る。これがキリストの仲介する『新しい契約』が成し遂げる目的である。

これらの奥義は、ユダヤ教徒に対して隠されてきた。彼らはこの奥義を理解するのに有利な民族でありながら、ナザレ人イエスを退けた以上、彼らにとってこれらの謎は謎のままであり、ナザレのイエスとは別のメシアを今日までも待ち続けている。

 

そしてキリスト教徒らにも、そのご利益信仰のゆえに本書の理解は閉ざされて来た。

したがって、この書は簡単に解説できるようなものでもなく、少し解説を聞いて把握できるような書でもない。また、市井にこの理解を広めるべき理由なく、むしろ、聖徒らが自らの行く末を覚悟するために、また、わずかに彼らの身近に在って、真に支援する少数者らだけが知るべきものといえる。その外に留まる者らは聖都らの現れと彼らが語る聖霊の言葉を理解しないか、或いは激しく反発し、聖なる者らの処遇を危険なものとするであろう。即ちメシア初臨に於いてユダヤ体制派がイエスを退けたようにである。

それらの者は、黙示の言葉によって無理解や混乱を受け続けるか、分かったつもりの誤謬の中から出ない方が良い。神の秘儀を知らない方が良い事は『罪』ある人間には付き物であろう。知識は人を高慢にならせ、より重い裁きを受けるだろうからである。求め続けるのは良いにしても、そもそも探求の動機はどこにあるのだろうか。知恵を求める人の動機なぞ千差万別であり、邪悪な者はその影の如き日々を長くすることはない。

 

確かにゼカリヤの預言はその終盤に於いて、聖徒らの試練の大きさを詳細に描いており、また、その後に地上に訪れる人類全般の裁きと祝福についても語る。

『この世』の各個人も聖徒らに次いで裁かれなくてはならないからである。

聖書教理の探求者であっても、心の整えられていない者らにこの奥義の理解は必要もなく、また聴いたからといっても無駄に終わることになろう。パリサイ人のタナハ熟知のゆえに、却ってメシアを退けた如くにしかならないだろうからである。その知識は空しくなり、持っているものまでもが取り去られることになる。

 

さて

この預言書は旧約聖書にある十二の小預言書の中で最も分量の多い書である。

しかしその内容には謎が多く、記述の量からして無視できない一書であるにも関わらず、全体の理解は秘められていると言って過言ではない。特に後ろの三分の一には黙示的内容が込められており、まず人の理解を許すようなものではない。

終末黙示の点では、同じく第二神殿再建を促したハガイ書にも、実際の第二神殿を予型として用い、更なる将来への暗示を示しているところがあるが、ゼカリヤ書に至っては神殿に関わる事柄を越えて、ユダとエフライムを象徴的に語り、将来のイスラエルの遭遇する栄光と苦難とが語られ、イスラエルとの関わりを持つ諸国民の救いにまで予告が及んでいる。

そこで、この内容を悟るには、どうしても聖徒と信徒との異なりの理解を要する。それが「アブラハムからの遺産」に与る『キリストと共なる相続人』として『新しい契約』に与り、聖霊の言葉を語る『聖なる者ら』と、他方でその益に与る『諸国民』の異なりであり、それが全体を知るために「必要欠くべからざる鍵」となっている。(ヨハネ17:20-21)

 

預言者ゼカリヤ

新バビロニア帝国がペルシアのキュロスⅡ世の前に倒れた後に、その勅令によってYHWHの神殿崇拝を復興すべくユダとイスラエルの帰還民が『約束の地』に戻ったものの、周辺諸国民の反対運動のために、帰還以来17年ほど年月が経過していたにも関わらず、常供の犠牲など「外の祭壇」だけの祭祀を行うばかりで、神殿の造営に手を付けずにいた間に、ペルシアに新しい家系が興りその王朝を継いだ王ダレイオスⅠ世の治世に入って実質三年目(治世の第二年)に、興された預言者ハッガイに二か月遅れて聖霊注がれ預言を始めたイドの孫にしてベレクヤの子である若きゼカリヤに臨んだ預言を記した書がその名を冠したこの預言書である。


当時、帰還民団がキュロスの勅令の本旨を忘れたかのように、再建すべき神殿の造営に無頓着であったところを譴責し、ユダ王家の血筋の総督ぜルバベルとレヴィ族もコハト・ザドク系の大祭司エシュアを奮い立たせるために送られた二人の預言者の一人がゼカリヤであった。
その内容は再興されるべき第二の神殿の祭祀の意義をエレミヤの七十年を含めて語り、当時の民の正すべき悪しき習慣をも告発している。しかし、全編を通して描かれるのは、それ以前の故事にも触れつつ、当時再建される神殿とその祭祀を超えて終末への黙示、即ち、終末の聖なる民の経るべき苦しみと復讐、天界の神殿での栄光の祭祀をも暗示していることにある。

 

この預言書は小預言書に分類されるが、ホセア書と共にエティエンヌの章分けで14の章を持つ比較的に大きめの預言書であり、その内容は第二神殿造営に関するばかりか終末黙示を含み、秘儀が多く込められ、分量も少なくない預言書となっているので、この書は聖書全体の理解に大きな影響を与えるものである。しかし、その黙示性から理解することはけっして易しくはない。

 


預言者ゼカリヤ個人についての情報では祭司の家系であったことが聖書中から分かる。
ネヘミヤ12:4-の名簿では16に祭司イドの子ゼカリヤが現れている。このゼルバベル時代の帰還民団に遡る名簿によればこのゼカリヤはイドの子ベレクヤの子としてバビロンで生まれたにせよ、父と共に第一次帰還民団に属していたかは分からないが、おそらくは祖父のイドと共にパレスチナ帰還への旅に出たかもし知れず、その場合の出発時の年齢は数歳の幼児であったと思われる。

 

父ベレクヤが省略されるところが多い理由は不明ではあるが、上記のネヘミヤの記載からすると、ベレクヤがゼカリヤを男児として得た後に亡くなり、祖父の祭司イドがその遺児を引取り後見した可能性がある。

やはり、このネヘミヤの情報では、イドの後継者にベレクヤの名が無く、唯一人ゼカリヤだけであるところがそれを裏付けているように見える。
イスラエルにはゼカリヤの名の人物が多く、エズラ5:1・6:4に現れるゼカリヤについての関連は不明

またゼカリヤ1:1と7:1とにあるように前520年秋から518年初冬まで啓示を受けたが、前516年の神殿再建を見ずに逝去したとする情報もある。しかし、それでは随分と若死であり、その預言書には日付のない宣告の部分が続いていることを根拠に異論がある。

だが、いずれにしても若い時期に主な活躍した預言者ゼカリヤをミケランジジェロのように白髪白髭の老人に描くには裏付けが乏しい。

 

時代背景

年代については、アケメネス朝ペルシアがキュロスⅡ世の息子カンビュセスⅡ世がエジプト遠征の旅程にあってシリアで崩御(BC522)した後、ダレイオスⅠ世が王権を得て後、その治世の第二年(520)に、ユダヤの帰国民団の中に二人の預言者が興された。
一人はハガイであり、二か月遅れた第八の月から若いゼカリヤも預言をはじめている。(Zec4:6-7)
ゼカリヤ書では、ほぼ同時に現れた預言者ハガイの書との連携が見られ、その預言を引き継ぐようにゼカリヤ書は始まる。。
それら預言者の目的は、当時まで放置されていた神殿再建の工事に取り掛かるよう、ゼルバベルと民を奮い起こすところにあった。それがゼカリヤに於いては初めからの八つの章に含まれる。

しかし、ゼカリヤ書はそれを超えて、新築される神殿の象徴的意義について語り続け、終末黙示にまで発展している。十二ある小預言書に在って、この比較的長い預言書を難解なものとしているのが、当時の事情に直接関係しないところのそれら黙示的内容である。彼は預言を受け続けてダレイオスの第四年の九月四日に言及しているところから、これらの八つの章に収められた預言については三年越しであったことが分かる。

第九章以降の「宣言」と称される黙示部分の書かれた年代への言及は当書中には存在していないが、おそらくは上記の最後の年代以降のものと捉えるのが自然と思われる。

 

内容解説
まず、当時の民を激励するための前半部分には、八つの幻を見た預言者がそれらを知らせる。前半は第五章までが一続きの幻視の記録となっており、第六章からはその二年後に臨んだ預言となっている。

なお「第二ゼカリヤ」とも呼ばれる後半部分は、9章から始まるが、文体の変化があり押韻詩文となっているので、他の預言書同様に筆者の変更が主張される原因を作ってもいる。これについては、初めには幻視とその説明を聞いていたゼカリヤは、次いで預言者としての言葉を賜り、最後の部分では霊感された歌い手として詠唱し出したものと思われる。預言者の詠唱はエリシャについて竪琴の伴奏があった事例が記されており、預言的詩篇も全体がそのようである。

 

律法中で、二人の証人が真実さの証であるように、すっかりキュロスの勅令の趣旨を忘れたかに見える帰還民団に対して、まず預言者ハガイが起こされたのに二か月遅れて前520年の10月頃から『若者』とされるこのゼカリヤにも預言が望み、ハガイと共にゼルバベルとエシュアに神殿再建の業を促すことになった。

その時、宗主国となっていたペルシアは、キュロスの後を継いだカンビュセスⅡ世の落命があって、王統の争いを経て一人のサトラップの息子ダレイオスが王座に就いて二年目となっていた。

この新王朝はキュロスの政策を踏襲することによってその正統性を唱えるところあり、そのためユダの帰還民団にとっては十年以上も続いた無活動から脱する好機が到来してはいたが、民は依然として神殿再建の機運を感じ取っていなかった。

 

 

第一章
時はペルシア王ダレイオスⅠ世の第二年(BC520)第八の月*
*(ezr6:19からすれば教歴であり第八の月はヘシュワンで秋の雨の始まる頃)

第一章から第六章まではゼカリヤが一連の幻を次々に見てゆくが、それらは第二神殿建設に関わる内容となっている。但し、その再建される神殿は、実際の第二神殿を超えて不定の将来の不定の神殿について敷衍、また暗示的に語られるところも散見される。

ゼカリヤは神からの幻を見ると、四人の騎手がそれぞれの色の馬に跨り地を行く巡ると、何の騒乱もないことを見出す。だが、シオン山上は荒れ果てたまま、再建作業は打ち切られたまま放置されている。それを天使は嘆き『もう七十年にもなります』と言ってエレミヤの七十年を暗示している。(それは第七章で無頓着なベテルの住民の言葉にも繰り返されることになる)

次いでゼカリヤはイスラエルとユダ、エルサレムを追い散らした四本の角を見る。
だがそれら四本の角を除き去るためにそこに四人の職工が現れる幻を見る。
これら四本の角は、祭壇の隅の四つの角状の飾りを表していると見れば、エルサレムを『炉床』と呼んで、ひどく焼かれて灰の堆積となるよう処罰される場として糾弾したイザヤの言葉に沿うものと見ることが出来、地の四方にユダの民を追い散らした裁きの執行者を暗示していることになり、それを職工らが除くことで、捕囚の癒しが含意されていると読める。


第二章
第一章に続く場面で、ゼカリヤは次いで『測り綱を持ったひとりの人』を幻視する。その人はエルサレムを測りに行くという。するとゼカリヤに話しかけていた天使ともう一人の天使が現れて測り綱を持った人物に近付く、するとその人物は、ゼカリヤのことを『あそこに居る若者』と呼び、ここでゼカリヤが若いことが分かるが、『エルサレムは(城壁のない)開けた土地となり人が住むようになる・・わたしは彼女(エルサレム)の周りに火の城壁となる・・その中でわたしが栄光となる』と語った。これは当時には城壁なく、住居も閑散としていたエルサレムの再興が神の意志であることを示しつつ、この都市への神の善意が表されている。ここで一度文章が切れている。

それからバビロンの娘と共に住んでいるシオンにYHWHが呼びかけ、逃げて来るように、彼女から奪略をしていた諸国民は逆に奴隷となるという逆転が起ることを告げる。これを語るのはゼカリヤ自身らしく、『あなたがたはYHWHがわたしを遣わしたことを知るであろう』と言っている。そのゼカリヤの語りは更に続き、次いで『シオンの娘』に向かって神自身が彼女の中に住み、諸国民が神の民となることを予告する。神はエルサレムを再び選び取ると言われる。

また、神がシオンの内に住む時、『多くの国民がYHWHに連なって、わたしの民となる』とあり、第八章やイザヤとミカの良く知られた句に関連付けられる。

 

 

第三章
章は変わるが場面はそのままで、おそらく測り綱を持った人がゼカリヤに大祭司ヨシュアを幻視させる。ヨシュアは神の御前に天使と共に立っていたが、ヨシュアに反対する目的を持ったサタンが傍に居た。そこには第二神殿による祭祀復興を阻みたい悪魔の姿勢が明らかである。(それは終末に於いても繰り返されることが予型されているであろう)

ここで神は『火中から引き出された丸太』にも過ぎないヨシュアに清いターバンを巻かせ、彼が神の定めを守る限り『(神の)家を裁き、中庭を守る』権限を与えると言われる。天使らも彼に仕えるという。彼と仲間の者らは『異兆となる者ら』であり、神は『新芽』と称する自らの僕をもたらすが、それは七つの目のある(神殿の)礎石となる。

この第三章での『七つの目』を彫り込んだ定礎をゼルバベルが据えるとき『麗しいかな』の賛美が上がるとあるが、ゼルバベルによる第二神殿の定礎は既に十年以上前に行われたことであるので、これは明らかに後のメシアによる天の神殿定礎を指している。加えて、その定礎の日にはイスラエルの罪は瞬く間に取り去られるとあり、後のメシアによる聖徒の贖罪が語られている。(その罪の行先は第五章の邪悪な女の住いの移動に暗示されているものと思われる)

 

第四章
一連の場面は継続しており、彼と話していた天使が戻ってきて眠っていた彼を目覚めさせる。そこで何が見えるか?と問われるので彼が見ると、二本のオリーヴの木から樹液を管で供給されている鉢を上に持つ七つのともしびを持つ燭台の幻を見る。天使はこれを説いて、ユダ王家の血筋にあるゼルバベルが神殿の礎石を据えたように、その建設を成し遂げると言う。『それは力によらず勢いによらず我が霊による』と神は言われる。ぜルバベルの前にある山のような障碍も平坦にされる。(これは実際にゼルバベルの王への問い合わせによってエクバタナからキュロス大王の勅書の写しが発見され反対が除かれている)

また、燭台に油を供給する二本のオリーヴの木は、二人の受膏者を表している。その意味は神殿祭祀の継続にぜルバベルとヨシュアが必須の働きを為すことを言う。(この二人は後に黙示録にも聖徒らの表象として姿を現す)

 

第五章
場面はなお前の章から続いている。

ゼカリヤは飛んでゆく巻物を幻視する。それは長さ20qbt幅が10qbtで長方形であり、表には盗みを行う者が、裏面には誓いを立てる者が不履行であるのに罰せられない実情を糾弾していた。この書かれた文字はインクを超えた働く力であり、盗人と不正な利益のために偽証する者との家々に入り込み、住民共々に破滅させる。これは帰還民団の中での悪行を指弾するものとなる。

また、彼は天使に促されて次のものを見る。

それは巨大なエファ升であり、本来これは穀物を計量するためのものであり、これも不正への戒めともいえる。その中に『邪悪』と呼ばれる女がひとり座っていた。この女はおそらく逃げ出すところを捕縛されたものと解釈されている(Karl Elliger)。しかし、それが確認されると、円形の鉛の蓋が再び閉められ、その女を乗せたまま中空に持ち上げられた。どこに持ってゆくかを尋ねると、シナルの地で、この女に相応しい家を建てるという。(この意味はおそらく第三章章で罪の取り去りに暗示されている)

 


第六章
『その後』と預言者は言葉を継いでいるので、幻視を与えられる場面は続いている。次にゼカリヤは二つの銅の山と、その間から出て来る四台の兵車を見る。赤、黒、白、まだら模様の馬が引いている。天使はこれらが出て行って持ち場の地を巡る。黒い馬が並ぶ兵車は北の方角を、白い馬たちのものは海の後ろ(地中海沿岸)を、ぶちの馬らは南(ネゲブ)の方面を、それぞれの兵車はそれぞれの持ち場を巡回する。天使はその(黒い馬)の兵車について『北の地にYHWHの霊を留まらせた』とその働きの一端を解説する。しかし、彼らの巡察によって何の変化も見出されない。


これらの兵車が現れる二つの銅の山とは、神殿が再建されないことを嘆く意味から捉えると、鉱山ではなく、立てられるべき銅の柱のヤハキンとボアズ*の材料がそこに山積に蓄えられているだけの状態を指していたのかも知れない。この件について列王記下25:13には、バビロニア軍が第一神殿を占拠した後、二つの柱や中庭に設置された貯水用の『海』などの相当量の銅が粉々にされたことが記されている。

但し、新設の第二神殿の玄関前に当初二本の銅柱が存在したかは不明ながら、神殿の中から天使らの兵車が登場してきたことを象徴する可能性がある。

*(「神によって力強く、堅く建てられる」を含意すると思われる18キュビトの高さがあったという第一神殿の玄関前の左右に建てられた柱)

 

ここで文章が一度途切れて、YHWHの言葉が臨みバビロンからの者らから幾らかの金銀を取って、威厳ある冠を作るようにと命じられる。それは大祭司の職分を担っていたエシュアに戴冠させ、ゼカリヤは『新芽』という何者かが現れ、神の神殿を建て、その威厳を帯びることを預言するように命じられる。その者は神殿の座に在って王なる大祭司の権能を帯び、その二つの間から平和の教えが出るという。

 

その冠は、再建される神殿に在って記念となり、ヘレム、トビヤ、エダヤ、ゼパニヤの子ヘンの所有となり、ペルシア総督でもあるゼルバベルの名は一度も出てこないところは現実に適う。それは一人の大祭司の所有にも帰せず、レヴィの家に継承されるものとして示されているのであろう。但し、この冠のその後の実在は不明。

この冠は、後に現れる『新芽』であるメシアの神殿再建と、その占める座の権能を予示するものであり、今日でもユダヤ教正統派が、神殿を再建できるのはこの『新芽』であるメシアのみとする後のタナイームらに論拠を与えている。但し、この冠の後の時代への継承はやはり聖書から確認できない。

また、巡回する霊については、『七つの目』というゼカリヤ書の第三章の部分と、黙示録で現れる七つの目を持つ子羊に関連を見せている。即ち、地を聖霊によりくまなく見張るメシアの働きを暗示する。これは王なる祭司らの検分を意味するものと思われる。

 

第七章
ここから二年後のダレイオスの第四年第九のキスレウの月に、ゼカリヤに再びYHWHの言葉が臨んだことを知らせる。
神殿の建設工事は再開されている。

その預言の霊の到来を聞いたベテルの住民らが使いを送って来てゼカリヤに問い問い尋ねた。そこで彼らは第五の月(アヴ)の神殿破壊を悼う断食を続けたものかを尋ねた。直ちに神の言葉がゼカリヤに臨み、彼らの第五の月と第七の月(ティシュレイ)の断食には真の悔いが伴っていなかったことが責められた。彼らがエレミヤの予告した『七十年』が終わりつつあることに気付いていたと思われるのは、その時のゼカリヤの預言の言葉の中に神殿の破壊を悲しむティシェベアヴの断食について『それを続けて七十年になるが』とあるところにも示されている。

この時の預言を通して、神は以前の預言者らに従わなかった民を激しく糾弾し、捕囚に処さざるを得なかった事態の責任を咎めている。

 

第八章
ゼカリヤに与えられた神の言葉が続いてゆくが、ここでその内容は民への糾弾からイスラエルの回復へと変化してゆく。識者はここから第三部と見做し「神の約定」を論題としている。

神は牧者が口笛を吹くようにしてイスラエルを集め、善意を施す。
YHWHはシオンに帰り、エルサレムに住むことを宣言している。これは神殿の再建を前提としており、『その名を置くところ』としての神殿の再建を促している。同時にそれは未達成であることが明らかで、広場に老人が座り子供らが走り回る闊達としてエルサレムの姿はネヘミヤの時代に至っても実現しなかったことからも後のネヘミヤ記から明らかである。

そのためにはただ再建を進めれば良いわけでないことをしめして『汝らは互いに真実を語り・・心に悪を謀るな』と訓戒される。

18節から、また新たな啓示があったことを示して後、それまでのユダの滅びを悼む第四(タンムズ)、第五(アヴ)、第十の月(テヴェト)の断食*が代わって祝祭となることを神は語られる。
*(本来第七章に現れた第五と(第七の月の)ほかにここでは第四(城壁の破壊)と第十(エルサレム攻囲の開始)が追加されている)

エルサレムの栄えによって諸国民が集うところとなり、ユダの町々の者らも相携えて聖都に上る。諸国民は一人のユダヤ人の衣の裾を捕えて、「我もまた共に行く」と言う、それはユダと共に神は居ると聞いたからである。

 

 

以後の第九章以降は終末黙示の傾向が極めて強くなり読解は困難となる。

但し、アブラハムの相続者としてのメシアに連なる聖徒らを基礎に据えて解釈する場合には必ずしも理解不能とはならない。聖なる民への深い教訓は、市井の方々に与るべき理由がない。それゆえにも以降の部分の黙示性が猛烈に高くなっているのであろう。

もちろん、当方の解釈が正当とも限らないのではあるが

その意味するところは神の経綸への反対者が熟知するべき内容ではないと思える。

そこで第九章から先は、まったく公表してしまうには幾分の躊躇あり、理解する価値を肯んじない方々への障碍として少額ながら有料記事とさせて頂く。この僅かな障碍が実に有効であるため、悪しからず。

(互いに信頼を築いた同士諸氏はこの限りに非ず)

 

 

以下は別のブログ(note)の有料記事に記載

(残り約六千字¥250)

この然したる金額でもない障碍でさえ、ふるい分けとして強力に機能している。

「どうせ、碌な内容でもあるまい」と思われるなら、実際その通りかも知れないので

まず読むことはお勧めしない。

特に教会員にとっては無駄に読むことになる。なぜなら、ご自分を「聖徒」と思い込んでいる方々があまりに多く、それと言って迫害の死を覚悟するよりは、天国の至福を目的としているだろうからである。

そのため、終末に聖霊で語る「聖なる者ら」を肯んじず退けるであろう。それもまた各個人の倫理上の決定である以上、ある意味で尊重されねばならない。神の前に自由な決定者として人は『神の象り』に創られている。言うまでもなく、その決定の責はその人自身に属する。その良し悪しは神が判断されることであろう。

 

 

 

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