Notae ad Quartodecimani

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エレミヤの70年

エレミヤに託された言葉によれば、第一次捕囚から70年間の捕囚を指しているかのように読めるが、ゼカリヤなどの預言書とエズラなどの諸書を見渡すと単なる捕囚期間を指すわけでないことが明らかになる。


25:8 それゆえ万軍の主はこう仰せられる、あなたがたがわたしの言葉に聞き従わないゆえ、
25:9 見よ、わたしは北の方のすべての種族と、わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この地とその民と、そのまわりの国々を攻め滅ぼさせ、これを忌みきらわれるものとし、人の笑いものとし、永遠のはずかしめとすると、主は言われる。
25:10 またわたしは喜びの声、楽しみの声、花婿の声、花嫁の声、ひきうすの音、ともしびの光を彼らの中に絶えさせる。
25:11 この地はみな滅ぼされて荒れ地となる。そしてその国々は七十年の間バビロンの王に仕える。
25:12 主は言われる、七十年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデヤびとの地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする。
25:13 わたしはあの地について、わたしが語ったすべての言葉をその上に臨ませる。これはエレミヤが、万国のことについて預言したものであって、みなこの書にしるされている。
25:14 多くの国々と偉大な王たちとは、彼らをさえ奴隷として仕えさせる。わたしは彼らの行いと、その手のわざに従って報いる」。



直接には近隣諸国と共にバビロンの王に仕える期間を述べている。
加えて、バビロンに荒廃をもたらすことを預言している。
しかし、バビロンが永遠の荒れ地となったかといえば、その時に成就していない。
これはこの預言が年代を予告するという範疇を超え、終末への象徴を含むことを教える。それをつなぐのがダニエルへの70週の啓示であり、それは裁かれるべき人類に半ばの真相を証し、半分を時間の不定性へと導いており、70週は中間が欠落していると捉える理解者を恰も厳選しているかのようである。
エレミヤの70年については、エズラエルサレムの荒廃とキュロスの勅令による神殿再建を関連付けている。
近代オリエント学は、エレミヤの70年に驚くべき光を当てているが、なぜこれを言う人は少ないか?
なぜなら、それは多くも少なくもない正確に70年となっている。即ち神殿破壊の前586年から再建の終わった前516年の70年間である。
ユダとエルサレムの七十年の荒廃

36:18 彼は神の宮のもろもろの大小の器物、主の宮の貨財、王とそのつかさたちの貨財など、すべてこれをバビロンに携えて行き、
36:19 神の宮を焼き、エルサレムの城壁をくずし、そのうちの宮殿をことごとく火で焼き、そのうちの尊い器物をことごとくこわした。
36:20 彼はまたつるぎをのがれた者どもを、バビロンに捕えて行って、彼とその子らの家来となし、ペルシャの国の興るまで、そうして置いた。
36:21 これはエレミヤの口によって伝えられた主の言葉の成就するためであった。こうして国はついにその安息をうけた。すなわちこれはその荒れている間、安息して、ついに七十年が満ちた。
36:22 ペルシャ王クロスの元年に当り、主はエレミヤの口によって伝えた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの霊を感動されたので、王はあまねく国中にふれ示し、またそれを書き示して言った、
36:23 「ペルシャの王クロスはこう言う、『天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに賜わって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたのうち、その民である者は皆、その神、主の助けを得て上って行きなさい』」。


年数もバビロンの荒廃についても別のことを指していないか?

70年をエレミヤの字句通りに追うと、単に民族がバビロンで仕えたが、それは70年間であった。というようになる。
しかし、その後のゼカリヤやエズラからすると、そう簡単ではなく、メディアペルシアの支配年代での考古学の成果とも合致していない。
加えて、当時にバビロンが字句通りに荒れ果てたわけではなかった。
荒れ果てるのはエルサレムに七十年及ぶが、バビロンは永久にそうなるとされる。この荒廃も単に土地が荒れ果てることを言うとは思えない。現実のバビロンではない何かを指している。
なぜ、そのバビロンが罰せられるかといえば、『神殿への復讐』なのであろう。Jer50:28 つまり聖徒攻撃の代償、それがバビロンへの咎の追求であり、永遠に及ぶものとなり得る。終末に聖霊で語る聖なる者らを滅ぼすからには『聖霊への冒涜』の罪を負う。

エルサレムの荒廃については、単なる城市の状態を言うとすれば70年の安息という宗教的意味合いは薄いものになる。聖書を多面的に読むとどうもそれだけではない何かを指しているようだ。
だが、エレミヤ自身をはじめ当時のユダヤ人の観点は、預言の言葉の表面とは裏腹にキュロス勅令の文言と一致しており、民の帰還について述べてはいない。
ダニエル、ゼルバベル、ハガイ、ゼカリヤ、そしてエズラもその観点を述べている。

エレミヤの七十年を知って、シオンについて熱烈に祈ったダニエルには七十週の預言が下賜されている。それによれば、七十年は七十週の予型を成していることが分かる。共に聖所に油注がれるという最終目標を持っている。異なりはエレミヤが地のものを述べ、ダニエルが天のものを指している点にある。
従って、対型的な神殿破壊があり、前516年の神殿再建に相当する天の奉献があることになる。このダニエルの七十週の目的は終末を要請する以上は未達成である。
また、七十週の場合にはメシアが断たれ、犠牲が終わらされところまでは追えるが、第七十週の最後の三年半について謎が残る。というのは、契約を固く保つとは、メシアが取り結び操作するのは「新しい契約」に違いなく、西暦の33年春にメシアが断たれたとすると、36年秋に第七十週が終了したことになる。では、その時点で『新しい契約』の効力は終わったとするなら、終末には契約に与る者はいないことになり、聖霊注がれる者はどの契約に基いているのか分からなくなる。それでは偽預言者とされても契約の印がない以上仕方がない。

そこで七十週については、最後の半週が終末に分与されるとすれば、終末の聖徒に契約の裏付けが与えられることになり、それはダニエルと黙示録に繰り返される三時半や1260日との関連を窺わせるものとなる。それが遠く離される理由と云えば、キリストが言うように『その時は誰も知らない』という再臨の時の不明性とすれば、様々な事柄に合理的関連が見えて来る。
聖書はそれを明言しないのだが、すべてを明言するのが聖書だとすれば、ユダヤの宗教家らはナザレから来ると明記されたイエスをメシアとしたであろう。だが、そうならなかったのは神が信仰を求め全てを告げなかったからであり、信仰とは明言されるところからは生じない。イエスが多くの人々に自らの立場を明かさずに居たのもそのためであろう。メシア信仰についてその人の価値観が試されたし、また次には聖霊信仰が試されるのであろう。

バビロンについては、古来神に逆らった異教の地として象徴的であり、今日までキリスト教が異教に囚われていて、そのうえ、聖徒を迫害させ除き去るのであれば、教理の異なる互いへの敵意の溢れたその姿にその悪辣さは既に表層に表れてもいる。その狂暴さがいずれ自らに不善を為すのであろう。

しかし、バビロンよりも強大な存在があり、それは不法の人という生ける偶像への崇拝、荒らす憎むべきものの宗教なのだろう。毒麦のように聖徒誕生の際に共に芽吹く混じりものであろう。⇒そういうことなら「誕生」とは Isaと一致する では今の用法は正しくない。「聖徒の王国の完成の時に出る灰汁の泡」となる
 

◆エレミヤの七十年についてのユダの民の理解
・ゼカリヤの70年はエレミヤの70年を含意している
・ユダ民族のバビロン捕囚の終りは『七十年』の終りを意味していない
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聖書は論文でもなく権利証書でもなく、人間という裁かれるべき罪人に概要を述べ信仰を誘う書である
善意の内にすべてを明かしてはおらず、裁きのための罠が仕組まれている
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自分は是認されていると思う者を焙り出し、その傲慢のゆえに自らを悪と証しするために






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エホバの証人の年代信仰について

エレミヤの七十年の検証を含む書
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黙示録との関連

残された半週1260日が何時到来するかはおそらく秘儀ではないか
メシアの昇天から臨在までは不定で、その時は戴冠でもない
契約の効力が保たれるのはそれ以後で、終了と共に神殿再建され至聖所に油注がれる
それによって対型的「贖罪の日」が初めて可能となる
そのためには神殿となる聖徒が揃い整わねばならない
これが成し遂げられるときに契約は終了し、その効力を保つ必要もなくなる
それを成し遂げるのが新しい契約の目的でありメシアの使命である
ユフラテの河畔に捕われた使いを解放するのが大いなるキュロスであれば、その使いらはまず神殿の定礎を行う、そこでは七つの目を持つかしら石が据えられ、感嘆の声が上がる
それから神殿の完成に至るまでの期間、祭司はいても民の贖罪は行われない 至聖所がいまだ存在せず油注がれてもいないからである
それまでは神殿の石も試みを受けなければならない
苦難がありゼルバベルのときのように反対や困難に遭い脱落する者もいる
それにしても、ハコデーシュハコダーシムが無いということはモーセ以来無かった事態であり、それはアアロンハブリートが存在しないことを前提とする。であれば、それをエレミヤがどこかに隠すなどということは到底考えられない。それは記した書は疑典に違いなくまやかしである。ということは『天の神殿に』ヨハネがそれを見たとするのは・・そこで[聖所]と補足するのは間違っている。本文では「神殿」[ναος]というだけであり、開かれたのは聖所ではない。そして、その意味は天界の崇拝体制が確立したことを含意していることになる。単なる勝利でもない。それでその以前に七千人が消えなければならないことになる。しかもそれは第七のラッパの吹奏の時、つまり奥義の終了の時である。ここで様々な論理の多くが合致する。ゼルバベルのときにはどうしてもアアロンハブリートが戻らなかったが、これは神に関わることであり、真の贖罪は律法祭祀には無いことが例証されていたということになる。
エレミヤに語られたとき、バビロンの王に仕える、ユダが荒れ地となり人が住まない、ことまでで説明を終える。
ゼカリヤは、それが定住だけを意味しないとユダヤ人が解していたことを伝える。つまり、帰還後の祭祀が不安定であった、また律法契約が脆弱になったということだけを示すものではない。より本質的で前向きなテーマが提示されていた。だが、ユダヤ人はそれに気付いてはいなかったろう。むしろ気付かず、律法からの呪いを感じ取る方が彼らの為になったように思う。
聖徒の試みが終了するときには、諸国民は聖徒を征服したことを喜ぶが、三日半の後に、彼らが居なくなる(オノマの消滅)に気付くのであろう
死せる聖徒は天に復活し、生ける聖徒は不可視の雲の内に天にゆく
しかし、1260日が終わるとき、70週が終了し神殿が再建され至聖所も油注ぎを受ける
そこで対型的「贖罪の日」の用意が整うことになる
だが、地上では究極の偶像崇拝が興されている
残された脱落聖徒による野獣崇拝は人類をシオン攻撃に駆り立て、遂にハルマゲドンの戦いに至る
「クリスチャン」はいつまでも携挙を期待して終わるのであろう。ということは、脱落聖徒はオノマの消滅をごまかすことができることになる。野獣崇拝を行うのはどうやら教会のクリスチャンということが見えてくる。大いなるバビロンが去った後に、逸脱したキリスト教は依然として勢力を持つようだ。それを助けるのが二本の角の羊のような野獣であろう。
以上をいったいどこからどう説明するべきか・・・・





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