Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ユダとエルサレムの七十年の荒廃の意味

  • LF-


第二神殿の完成 ダレイオスの第七年(515) (エズラ記では完成が第六年(516)のアダル3日、翌月ニサンに奉献。ヨセフスによると第九年)
(奉献、前515年はバビロン陥落から24年、神殿破壊から71年目)


ジョン・アクラ・ブラウンの始めたダニエル第四章での『七つの時』が2520年であるとの主張は、その期間の起点に相当するユダ王権の終了年については、オリエント学の進歩と共に年代が推移してきた。(但し、『七つの時』がエルサレムの王権喪失から数えるべきであるという証拠はなく、七つの覇権国家の変遷と捉えるなど、別の解釈の余地は常に存在してきたといえる)
英米での18世紀という比較的早い時代から、BC537年のキュロスの勅令をエレミヤの70年の終点と見る主張はエレミヤの言葉の字面を追うだけであり、エズラ文書との関連から総合的に考慮されていないうえ、ユダヤ人の認識とずれていて、巷の物知りの推論の域を出るものとなっていない。
(ブラウン以来『一日に一年とする』のレヴィ記とエゼキエルの記述を例に取り、それが神の習慣であるかのように『七つの時』を七年としたうえで、2520日を年に換算するべき価値ある理由は見当たらない)
ブラウンの解釈は米国に伝播し、むしろそちらで活発となっている。それは第二次覚醒運動でのウイリアム・ミラーによって決定的に信仰運動となり、その信者は年代に信仰を抱くようになった。ミラー派が失敗すると、年代信仰を拭えない人々が新たな派を興し、ミラーの唱えた1844年の後の様々な年代を予告するようになり、その中からアドヴェンティスト系とものみの塔が現れている。⇒「ミラー派の系譜」
ラッセルは再びネブカドネッツァルの狂気の『七つの時』に関するブラウン説を自らの論拠に据えて、1914年再臨説を組み上げた。

☆この点で、ユダの70年の安息が537年の第一次帰還を以って終わったとするだけでは現状の考古学とも一致しないばかりか、意義が薄く、年代計算を合わせる都合ばかりが優先されてしまう。<その関心は神にではなく、自分たちが救われることや、預言者のように振舞う事に向いていたのであろう。覚醒運動そのものが「時が近い」との興奮状態を誘い、それが信仰に熱心である証のように捉えられてきたが、つまるところ、信者中心のご利益信仰というほかない。神の意志を探るのではなく、自分の願望を優先させたとした言いようがない。そのご利益信仰の傾向はたいていの教会と変わらないがキリストの再臨と自分たちの携挙が近いという度を越した熱狂が真の信仰の熱心さと取り違えた>

やはり聖書記述を確認すると「ユダが七十年間、人の棲まないところとなる」という概念は聖書中に直接の記述は無い。「ユダの地が荒れ廃れた状態で経過する歳月」というのは、エレミヤの『そして,この地はみな必ず荒れ廃れた所,驚きの的となり,これらの諸国の民は七十年の間バビロンの王に仕えなければならない』との文章の中での『七十年の間』を『この地はみな必ず荒れ廃れた所』に適用してしまったところで誤って思い込みをした怖れがある。むしろ、歴代第二 36:20-21またレヴィ26:34にその主張の裏付けを置いている」ようだが、歴代第二では『残りの者たちをとりこにしてバビロンに連れ去り・・荒廃していた期間中』が七十年、レヴィ記では『荒廃しているその期間中・・あなた方が敵の地にいる間』とあり、どちらもパレスティナの地よりは民の状態を『七十年』と関連付けている。
またエレミヤは『あなたがたがわたしを捨てて、自分の地で異なる神々に仕えたように、あなたがたは自分のものでない地で異邦の人に仕えるようになる』と神の声を代弁しており、その間イスラエル民族はその神に膝を屈めることも 叶わなかった。(エレミヤ5:19)

しかもダニエルは『エルサレム(ユダではなく)の荒廃』に言及しているうえ、『神の聖なる山に関して請願を捧げた』とあり、それは紛れもなくシオンを指している。『御名のためにも遅れないようになさってください』とは、その文脈でエレミヤの70年を知ったとあるのだから、これをほかに事だと主張するのは難しい。
また、帰還民はユダヤパレスティナ帰還と繁栄を述べるにしては帰国者が少なすぎて土地の回復には程遠いのと、第一次帰還と共に祭祀が一部だけ復活しているので、70年間の『エルサレムの荒廃』とは、神殿祭祀に関しているのではないか?
それは第一神殿の破壊をBC586(紀元前586年7月11日[ユダヤ暦3175年アヴ9日])とし、第二神殿の再建のBC516年2月13日(ユダヤ暦3245年アダル3日)までの70年とする。つまり『荒廃』とは、無人で無耕作の状況以上に、律法契約の履行者である崇拝者の居ない『荒廃』を指していた可能性が無くはない。つまり「地面」のための70年か、「崇拝者」のための70年か? 「地面」なら70年もの安息の必要性はまず無いのではないか。それは『安息年』の不履行の補填とは言え、実際上の地面では「安息」というよりは、草茫々の荒れ地にしかならない。

エレミヤの言うような『バビロンの王に仕える』70年ということなら、第二次捕囚(597)から数えると第一次帰還(537)までが60年とは言える。(第一神殿破壊から49年『ネブカドネザルの統治十八年目[587]に我々の神殿は荒廃させられ、五十年の間、忘れ去られた状態に置かれた』アピオーン反駁1:21 エレミヤではネブカドネザルの統治の19年[586] )⇒「捕囚期年表
第一次捕囚民であったダニエルは(75歳程にはなっており)、メディア人ダレイオスの第一年(前539)にエレミヤの書から『エルサレムの荒廃が満了するまでの年の数』を知って悔悟の祈りを捧げたが、その年が目前に迫っているという(希望に燃える)ようなことは述べていない。むしろ、民の罪の赦しを強く願い出ているが、「荒廃」については、『エルサレムと聖なる山から怒りが去るように』また、『荒廃しているあなたの聖所』『御名によって呼ばれた都市』について祈り求めている。そこで「七十週」の知らせをガブリエルから受けている。つまり、荒廃の70年に対して、七十週は聖所の油注がれる回復のための期間とされている。これはメシアがいつ現れるかを超えて、聖所の回復を遠く終末に予告するものとなっている。(9:24)

エレミヤは『バビロンで七十年が満ちるにつれて,わたしはあなた方に注意を向けるであろう。わたしはあなた方をこの場所に連れ戻して,わたしの良い言葉をあなた方に対して立証する』とも述べており、70年間の途中で行動を起こすことを示唆している。その場合、キュロスのバビロン征服は道半ばであっても妥当と言えるが、第二神殿の再建(奉献ではなく)まで、ダニエルの祈りから23年あったことになる。(その間にキュロスは死去、おそらくダニエルも死去、以前の神殿を知っていて第二神殿の定礎で泣いた老人らは第二次以降の捕囚民であれば、ダニエルよりも10歳ほど若かったことが考えられる[定礎当時65歳くらい])*<第二神殿の基礎を見た老人たちが、神殿倒壊から70年もの時を経過していたのであれば、どれほど若くても八十歳代以上で砂漠を1500kmの旅をしていたことになるし、いったい何人がそれまで生存していたろうか?しかし、アピオーンへの反論が述べるように、神殿倒壊から50年であれば若ければ60歳代であり第一神殿を知る『老人たち』が居たこともそこまで無理はない>

そして第一神殿の荒廃が破壊によって始まった前586年から、その「70年」目の年(516)のアダルに第二神殿が再建され、翌年「70年」が満ちて終了し(515)正月のニサンの月に奉献されるや直ちに過ぎ越しと無酵母パンの祭りを祝ったことになる。(エズラと現代オリエント学に従えば)
つまり、崇拝者と神の帰還(イザヤ10:20-21)と言える。
これに比べて、パレスティナに居住者が戻った事とどちらが重要なのか。第一次帰還でも充分に耕作されず、かなりの土地が依然荒れていたのであり、ゼカリヤの預言したような復興には至っていない。
しかし、考古学も人間の科学に過ぎず、これに頼ることは不安定な基礎の上に建てることになってしまうので、その意味において断言はもちろんのこと「蓋然性有り」の域を出るものとはならない。

聖書だけを見る限りに於いても、第二神殿建立からネヘミヤの派遣まで60年経過しても、エルサレムの城壁は壊されたままで、市内に住む人々もまばらで、レヴィ人をエルサレムに住めるよう十一を確実に再開させ、平民にも籤で10人に1人をエルサレムに招致する必要があった。キュロス大王の勅命は果たされ、神殿は再建され祭祀も復興してはいたが、民の帰還が果たされたとは言い難い。アルタクセルクセスⅠ世の勅令を以って城壁が再建されてなお、ゼカリヤの予告したようなイスラエルが戻ってきたというには不十分であった。
そのことからも、「エレミヤの七十年はイスラエル民族の約束の地への帰還までを指している」とするなら、それは聖書の表面の言葉だけで判断を急いだことになる。
そのうえ、次第に明らかになっていったオリエント考古学の年代と乖離が生じるようになると、以前のデータに固執せざるを得なくなり、遂に前607年説は「信仰によるもの」と主張し始めるほかなくなった。それ以前にジョン・アクラ・ブラウンの「七つの時は2520年」という解釈が、ほとんど他の聖句の支持を得ておらず、『一日を一年』との民数記エゼキエル書にある神への抗いへの処置の期間を「7年」の日数2520を年に変換している。これは神の民の抗いに対する『約束の地』からの排除という点から見ると整合しているように見えるが、聖書中の根拠が薄く、ブラウンやラッセルら個人の見方に拠らなくてはこれを認めることは難しい。ダニエルは特に『一日を一年』について記しておらず、ネブカドネッツァルが執務から離れた期間も述べられているわけでもなく、ダニエル書はその件に重きを置いていない。
ダニエルが語った事柄の意義は『これは,至高者が人間の王国の支配者であり,ご自分の望む者にそれを与え,人のうち最も立場の低い者をさえその上に立てるということを,生ける者が知るため』としており、『その要請は聖なる者たちのことば[による]』ともあり、これはキリスト一人の王権拝受を指してはおらず、『聖徒ら』即ち『アブラハムの裔』全体が神からの王権を受けることについて知らせる目的が明記されている。

『聖なる者ら』が王権を受けるのも、キリスト自身が王としてシオンで擁立されるのも、再臨そのものの始まりの時を指すことはなく、詩篇第110にあるように、それは敵が明確に戦いを挑んでいる最中に戴冠するものであり、その権力行使には『すべての聖なる者ら』を伴うものであるので、王権獲得の時点では『新しい契約』がその務めを果たし終え、天界に14万4千の聖徒らが揃っていなければならない。彼らもまたキリストの道を歩み、殉教に至るほどの迫害を受け『練り浄め』られているのであるから、終末にキリストの再臨が起こり、聖霊を注ぎ出して奇跡の言葉を為政者らの前に語った後でなくてはならない道理がある。これらこそ『人のうち最も立場の低い者』とされた人々に違いなく、世の迫害によりこの世を去らねばならない。そうであれば、1914年にそこまでの進展が起こっていなければならず、「天でキリストが王になった」というのはいみが無く、まして1914年が前世紀のものとなりはや百年以上を経過した以上、どれほど「信仰だ」というにしても、聖書記述からも考古学からも遊離してしまっている。

従って、それを信じたい人々、即ち、「楽園での永遠の命」というご利益を何としても得たいという動機を持つ方々だけの「信仰」ということはできても、それはキリスト教の本筋からも、旧約聖書の意向にも反しているとしか言いようがない。


                                          • -

以下の文章は到底承服できない

「これら聖霊で油そそがれ,また従属の祭司としてキリストと共に仕える人たちは,なお対型的な聖所にいる間,燭台から照らされるかのように霊的な啓発を受け,供えのパンの食卓から頂くかのように霊的な食物を食べ,また黄金の香の祭壇で芳しい香をささげるかのように祈りと賛美を神にささげたり,神に奉仕したりすることができます。予型的な神殿の聖所は外部の人々からは見えないように仕切り幕で隠されていました。同様に,自分が霊によって生み出された神の子であることを人はどのようにして知るのかということやそのような者として経験する事柄も,そうでない人々には十分認識することができません。―啓 14:3。」

上記文章は言い訳じみており、「ものみの塔」の後付け教理の積み重なった結果を正当化するための政治的意図と神聖な物事への歪曲と聖句の誤用が酷く、書いた本人もそれは承知の上ではなかったか?この教団の趣旨は「統治体」を頂点とする指導体制の存続と「協会」の利潤の確保にあるのであって、教理の探求を主目的とはしていないうえ、信者の趣旨も生き残りと永遠の命の確保にあり、もとより純粋に神探求をする姿勢にはない。
上記の論理の誤謬については、祭司は血統に属し、式服を着用し、その働きのゆえに誰が祭司であるかを民も異邦人も知っていたのであるから。
ただ、聖所という奉仕の現場の中枢だけが衆目の外にあったのみであり、祭壇は中庭に属しイスラエルの会衆の眼前で犠牲が捧げられていた。まして、聖霊を受ける『聖なる者』について、ここでは地上に在る状況を語っているのではないか?ならば、そこは中庭ではないか。
また、彼らの合唱については民の聴くところであった。黙示録の歌は、聖霊によって教えられる教理を示してはいないか。 ならば、それも聴かせるためのものではないか? 聖徒だけが学ぶことができたのは、その教理が聖霊由来であることを指しているのであろう。


⇒ 「エレミヤの70年



他にティルスへの七十年があることからするとIsa23:15-
ユダヤ宛てに、ふたつの『七十年』があるかもしれない。
・ユダの荒廃の七十年(神殿の無い期間)Zec
これはエレミヤが預言していない成り行き上のものになるように表面は読めるが、ベテルの住民が断食をどうしたものか問いに尋ねているところからすると
両者は関係していることになる。彼らは『もう七十年になります』との天使の言葉に同意していたと前後関係から捉えられる。

バビロニアに与えられた時の七十年
<その王に仕える>初期捕囚からバビロンの拘束力の終りまでJer
新バビロニアの存続期間は86年程?ナボポラッサルの15-16年に何があったか?
しかし、これは開始時期が『土地の安息』とは言い難い
では、どうしてエズラは安息を語ったか?彼はアケメネス朝の始まりを関連付けている。2Chr36:21 <これに影響されたか?エズラは両方を同じものとして語っているのか>

バビロニア帝国が『責を問われる』jer事態とは、「権力の結果としての捕囚の継続の不能」を言うとすれば、城市の陥落の時期に厳密に拘る必要もなくなるのでは・・そうするなら、譴責と解放のどちらが先かに神経質にならずに済む。
実際、バビロン陥落は新バビロニア帝国の終りではなかったし、ダレイオスという考古学上に現れないメディア・ペルシア王の統治期間も存在する厄介がある。


七十年(安息年の補填)<七週(メシアについて)<七つの時(終末まで)
目的は何か?

⇒ 「エレミヤの七十年の終点から起点を探る」
blog.livedoor.jp

                                                • -

『異邦人の時』について
 ⇒「ルカ21:24」

「異邦人の時」がエルサレム神殿の存在していない事態から始まるのであれば、聖徒が召される時に及ぶことになる。
だがそうなると幾分か時が合わない。この期間の特徴は何か?
おそらく「異邦人の時」は、ヘロデ神殿エルサレムの破壊から天界の聖徒の召集に及ぶのなら、神殿から神殿ということになる。
異邦人が聖都と神殿を蹂躙するのが終わるまで『異邦人の時』は続くとされるが
黙示録では、聖徒の関わるシオン山上を蹂躙するがこれは明らかに象徴である。
しかも、異邦人の中庭は、その蹂躙していた異邦人に無制限に与えられている。

従って、これは聖徒迫害に関わった人々であっても、神の崇拝者となり得ることを教えるものと言える。
「救うために来るキリスト」

Amazonから刊行中


LF

















.