Notae ad Quartodecimani

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血の禁令について

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スッコート
テシュレイ15日から21日まで七日間スカに住む、八日目22日に聖会
レビ記23章、民数記29章、申命記16章

初日はシャバトン。
(神の)家の水汲みの歓喜「スィムハット ベト ハ ショエヴァー」 ⇒「血の禁令」「スッコート
[שמחת בית השואבה]
「ベート・ハショエヴァーでの歓喜を見たことのない者は、生涯の内で歓喜というものを知らない者である」(スカー:5ミシュナー:1)
全住民、寄留外国人も
別名「収穫の祭」[חַג הָאָסִיף]ハグ ハ アスィフ
一年の終わりの意があり「年に冠を与える」とも
(この間)
祭壇から南西に向かって溝が掘られていたが、エゼキエルでは東に、ゼカリヤは東西に向かって溝がある。
ミシュナは液体が直ぐに流れ出てしまわないようにと栓(コルク?)がされていたと伝える
おそらく、異邦人の中庭に達する前に床石材の下に潜り込んでいた(発見されたか?)どこまで達していたかは不明らしい
黙示録に関連があることは読めば分かる PS1:3


・「もし、スッコートが出エジプトに関連するのなら、ペサハこそがスカに住むに相応しい。しかも、放浪期の住まいはヤギ皮の天幕住まいであったではないか」
逆に、この質問自体がこの祭りの意義を際立たせるものとなる。つまり、これが対型として指し示す出埃とは、モーセのときのものではなく、更に大規模なものなのであろう。それをヨム・キプルの存在が明かしている。この祭りの意味する対型は未だ到来していないと観るべきであろう。

モーセはスッコートについては明瞭に八日目を述べるが、無酵母パンの八日目については語らなかった)


?『人間は血を食べてはならぬと神が言われたとき、神は、血によって体を養うことを特に禁じたのです。』?

血の禁忌
・Memo1
律法中の血の禁忌は、深く聖餐と結びついている。ユダヤの強いタブーであり続けたことにより、キリストの血を飲み、肉を食べることが非常に際立つものとなる。
それは、魂を取り入れその命に預かることを通して罪の赦しを得、また永遠の食物により、永生を得ることになる。
この血については、幾つかの意味がある。
まず、キリストの犠牲がその血を飲む者に適用され、罪が赦されること。
キリストの血統に入り、ダヴィデの王統に含まれる事。
それを飲む者同士がキリストと共なる兄弟となること。
これらは、それに預からない者との間に厳密な区別が為されなければならない。
そうしなければ、『女の裔』を人類は見分けることができないし、終末に於いて、人々がその『裔』を見分け『親切』を示して救いに入ることも無くなってしまう。その区別を為すのは聖霊の有無となった。
そこで、血の禁忌が長い間に律法中で命じられてきた事に意味を持つ。聖書は、「血を食す」ことを戒めたとはいえ、それを食物とするか否かではなく、『全ての魂はわたしのもの』と言われる創造者への畏敬と、創ったものへの権利への尊重を、『血を地に注ぎ出す』ことによって求めていたのである。
飲血がタブーとされたのは、『救い』という正に命に関わる重大事であった背景が新約に至って了解されることである。つまり、神は御子を犠牲となるべく地に遣わすに当たり、その価値の重さ、尊さについて蔑まれることの無いよう取り計らって来られたに違いなく、そのキリストの血の犠牲による救いは、ノアに与えた虹の契約と対を成すかのように、人類社会への滅ぼしへの悔いと共に定められた禁令以来変わらぬものであった。
この延長線からヤコブが裁定した『血を避ける』を観ると、それは、ユダヤ教エス派と異邦人信徒が集まりを共にするための最低限度の異邦人の譲歩であり、元よりユダヤ教の会堂に参入する異邦人に求められていた条件であった。しかし、この裁定には異邦人社会に無かったこのタブーを教え、聖なるものの概念を理解させることが含意されていたと観ることもできる。即ち、永い時代に亘る、禁令による価値観の涵養といえよう。
ヤコブの晩年に至ってもユダヤのイエス派信徒が『律法に熱心』であったことが彼の発言からも明らかであり、未だキリスト教が確立されていないその段階ではユダヤパウロに従う異邦人のそれぞれのイエス派のそれぞれが良心の働きに違いがあった。ヤコブとしては双方の民の不和の調停という性質を帯びるエルサレム会議において、注意を払うべきは第一にユダヤ教エス派の躓きの原因を除くことであったろう。しかし、聖霊の示す意図は異邦人への割礼を強要しない方向にあった。(Act21:24)
その状況下で、聖餐に於いては葡萄酒に預かるが、それはタブーと表裏一体を成して初めて意義を持つものであった。即ち、飲血を避けていたからこそ、キリストの血に預かることに深い価値を見いだせるのである。
したがい、そのタブーは、聖なることと俗なることとの抽象的な異なりを具体物の血液を通して教える事を目的にしてきたのであり、医学上にも、血液が非常にナイーブな実体である事は確かであるものの、本来は、何が何でも血を避け、輸血をも受け入れないという、ユダヤ教徒さえしないところ迄も律法を追求させることを本旨とはしていない。キリストの血の犠牲が捧げられた以上、神が崇拝に血液を関係させる時代は終わっている。
宗教上の理由によって、輸血を拒絶することを断罪するわけではないが、しかし、そこにはひとつの陥穽もあろう。それはパリサイ派以上に徹底して字句を追うことにおいて近視眼的ではなかろうか。しかも現世のものとはいえ、やはり創造の神に属する命に関わる場面あってのことである。

他方、輸血に健康上の問題があることは事実であり、医療上で輸血可否の選択を容易にしたことに於いて、ものみの塔の功績は確かに大きい。採血に際してスクリーニングされるのは、現行では6種類だけであり、血液を介した感染の危険は、確かにより広く知られるべきであることは間違いないようだ。しかし、それは宗教上の禁忌とは意義を全く異にする、医療上の危険の回避としてのことである。
しかし、血の禁令の趣旨が「体を養う」か否かを問題にしていたとすれば、それは禁令の具体性の方が強調されてしまい、血の扱い方に拘泥し、どうしても宗教的象徴としての、キリストの血の犠牲の意義は念頭に置くことが難しくなってしまう。
しかし、この禁令は、「血が魂を含み」贖罪を為すというところに眼目が置かれていたことが律法の趣旨として明白であろう。それゆえ、スッコートの祭りでの祭壇との関連が深いのである。
それでも、ヤコブの裁定からすれば、飲血を避けることは全異邦人信徒に向けられたものと解して良いように思える。
律法墨守者からすれば、とにかく血を飲むべからずの一言に尽きるであろう。だが、そこには上述の目的があったとすれば、ユダヤ教を超えるキリスト教としてのヤコブの裁定の到達点があって然るべきである。
それは、即ち、異教の神殿に於ける淫行と飲食や、ミトラ祭などで血を飲む習慣を持つ異邦諸国民が、キリストに帰依しても、その習慣のままに、充分な聖書的認識を築かずに、聖餐の葡萄酒に預かる場合に起こり兼ねない、異教との混交や、聖俗の区別が等閑に付される事が考えられるであろうからである。

そうしなければ、ユダヤ教徒を躓かせるばかりか、キリストの血の犠牲に対する認識を誤り、異邦人キリスト教徒は『裁きを飲む』事にさえなり兼ねなかったに違いない。
したがい、既にユダヤ教徒のイエス派が、血の禁忌を習慣にしていたところで、ヤコブの裁定は異邦人に向けられたものであり、ペテロが『我々も父祖も負うことのでき無かった軛』と語っていた律法の、血の禁令の一部でも延長されたと見る理由はない。そのような「律法の延長」を主張をすれば、「律法は終わった」とパウロの書くところと矛盾せずには済まない。
むしろ、その律法の禁令が成し遂げていたのは、『罪の贖い』となるべき、この上なく貴重なキリストの血への認識を促し、『聖徒』として聖餐に相応しく預からせ、象徴とはいえ、その血のエレメントの葡萄酒を飲む事が、永く存在した神のタブーを超える極めて異例の事態であると認識させ、パスカを行う異邦人聖徒らに感謝と重責を知らせるものである。

そこで、「血の禁忌」の趣旨が「血で体を養う」ことにあったと見做し、単に血を飲む、或いは、体内に取り入れることの一切、即ち「輸血」までを何が何でも禁忌するということであれば、上述の精神にどれほど注意が向くだろうか。むしろ、その人の注意は医療方法の問題に専らに向かうことにはならないものだろうか。

エホバの証人の輸血謝絶は、今日までのユダヤ教徒安息日に仕事をしないことを徹底する姿に重なるものがあり、キリスト教が律法条項の成就としての意義の高みに上ったことを無視することになっているように見える。むしろ、エホバの証人の輸血謝絶は、自己義認を目的としている。即ち、自分が神の規定に従い是認を受けて永遠の命を受けるために輸血を拒むのであり、問題が大きくなるほどに目立つことで自己肯定感が増し、永生のご利益を実感することになる。

また、ものみの塔の教団側は、信者とこの世との軋轢を高めることができ、そこで信者の囲い込みと名声とを同時に得ることになる。
そこで「血の禁忌」の趣旨が「血で体を養う」ことにあったと見做すという律法の文字通りを墨守しようとする非キリスト教的解釈の破綻には、当のものみの塔の指導層も気付いているように思われる。
その解釈は、信者を一つの宗教団体に強くつなぎ留めるための口実に過ぎず、命を懸けてまで神の是認を得ようとしたと認識する信者とその周辺は、もはや滅多なことではその信条から離れられず、ヒステリックに自派の義に凝り固まるほかないからである。

だが、如何に永生が得難いものとはいえ、今の命もまた人が1キュビトもどうこうできるものではない賜物であり、それを永生と天秤にかけるとすれば神の如き命の価値の断定をしているところで大いに間違っている。
まさに、ものみの塔エホバの証人に教えてきたことは、「永遠の命ほど大切なものはない」ではないのだろうか?その目的意識から生活を縛り、伝道を義務化し、子らの自由な発育も奪って来なかったか。
これが「ものみの塔」の教えの『実』であり、戦争不参加も含めて、その行動の動機を形成している。伝道は「命を救う業」との誇大妄想に陥り、真に命を救うキリストの犠牲を信者の義行に置き換えてしまい、千年王国の贖罪を前倒ししてしまっている。これは輸血拒否の中に端的に露見しており、キリスト教パリサイ派ともいうべき自己救済の教理であることに反論は不可能と思われる。

もちろん、医療上の理由から輸血を個人として拒む事も、あるいは宗教上の理由、律法の条項、また、神の意図に反することを避けたいとの思いから、無輸血治療法を選ぶ事も大いに尊重されるべきであるとは思う。自分の身体に何が為されるかを決めるのは当の本人に違いないからである。

だが、その決定が聖書に由来すると判断する場合、その本人が聖書に記された神の側の意図を読み違えていたと後になって気付くなら、例え、そのときには、その人に働いた良心に沿って決定していたとしても、神の意図がそこにはなかったと知るときに、無念さを味わう怖れは付いて回る事になるだろう。この世での誰かの生き死に関わった場合には特にそのように言える。
したがって、塔の主張するように、血に関する律法が延長された、また、ノアの時からの禁令であり全人類に適用されると見做すなどは、その律法の具体的禁令が意味した精紳を理解して、キリスト教へと昇華することを阻むものとなろう。
殊に、全血の成分中の何を以って輸血とするか、血流を透析装置に流すことは体外に出ていないと見做せるかどうかなどと論じ始めた段階で、それは子羊の肉をその母羊の乳で煮ることのないようにと、台所までも分けているユダヤ教のタルムード以下に教理を『肉的』に後退させ始めているように見える。つまり、「塔」信者の場合、盲目的従順の暗闇の中でひたすら輸血されまいとの一念で、神の観点を欠いているのである。
まして、それが神の是認を保つ方策、あるいは更に下って「楽園」へのパスポートのように見做されているとすれば、そこに犠牲を捧げたキリストはますます不在化されてしまう。つまりは、戒律を守ることで救われようとする御利益信仰、またパリサイ的「業の崇拝」であることを白日の下に晒すことにならないものか。
そこではキリストの血の犠牲によって救われるというキリスト教の最重要な理解を離れ、いつの間にか、律法の墨守が救いの条件に置き換えられている。
キリストの血の犠牲の極めて高い価値の異例さを認識する事を通り越し、救われるために神からの善意を引き出す目的で血の禁令を守ろうとしているからである。
しかし、血の禁令を課した神の意図は何であったろうか。それは聖餐によってその到達すべき目的が明示されている。それは「魂」の所有権の在処と「贖罪」の達し難いまでの貴重さであり、大切にされるべきは忌避そのものではなくこちらであろう。


・Memo2
血の禁令は具象的なものではなく、抽象的意味合いのものと見做すべきではないか。
異邦人には元来「血のタブー」が無かった。
キュベレー・アッティスやミトラスの祭りでは牡牛の血が大量に用いられ、それを浴び、飲むことを常とした。これは結果的に、生命を在らしめた創造者への軽蔑の推奨となった。
そこでAct15章の血の禁令が意味を持つ
ユダヤ人は律法由来のカシュルートで飲血が堅く禁じられていた。ユダヤ教徒にとっては、血は人間のものも動物のものも神に返すべきものであった。
そこで彼らはイエスの血を飲み肉を食すという話に躓き、十二使徒を除いて群衆は解散してしまった。ペテロはその話の後でも、イエスが永遠の命を持っているとの信仰を証している。しかし、そこで話された事柄は聖餐に関わるものとなって一度予型的に成就する。
聖餐はキリストの血の贖いに預かることを象徴するものであった。そこで律法の血の禁忌がその価値を雄弁に語ることになる。それはキリストの血の犠牲が掛替えのないものであり、他の何者も提出できない価値を有する。即ち、人類への贖罪の代価である。
つまり、飲血というタブーが、キリストの血の超絶的価値によって、象徴的にせよ初めて冒されることになる。そこに御子の血による「罪」からの解放が際立たされるためである。
しかし、血の禁令を有しない異邦人の場合には、タブーが存在していなかった為に、キリストの血に預かることの異例さの理解が困難となり、それは貴重な神の犠牲を誤解、また軽視し兼ねない。
そこでヤコブの裁定が、異邦人にこのタブーを持たせることによってキリストの血の犠牲の価値を高める作用を持つ。
但し、ヤコブ自身はこのことよりは、各地で律法が読まれているゆえに、ユダヤ人という本来の神の民が異邦人のゆえに躓かぬように配慮したであろう。というのも、偶像礼拝、淫行姦淫、飲血を避けるというこれらの事は、当時のユダヤ教の会衆に無割礼の者の入場を許す条件であったからであり、ヤコブが新たな規則を確立したのではなく、ユダヤ教徒が躓かぬための最低要件を再確認しているからである。
したがって、キリストの血の犠牲と律法の血の禁忌は表裏一体を成していると観ることができる。血のタブーが、はっきりと血の持つ贖罪の働きを指し示した。そうして飲血を避けることは、キリストの血に預かることにユダヤ人の価値観を整えたのである。もし、飲血が日常のことであれば、キリストの血に預かることの意義は間違いなく薄れる。
YHWHの祭祀において、捧げられた多くの動物の血が『魂には魂』に則り、模式的に多くの人々の魂を贖う様は、キリストの血による贖いを予示したものではあったが、それは「水汲みの歓喜」の中に示され、Ezc,Zecそして黙示録に至る。最終的にはキリストの血はあらゆる人が与るものとなる。そこで「血の禁忌」の意義はあまねく明らかなものとなるに違いない。
しかしそこでは、ユダヤ人がキリストを信仰する場合、彼らは象徴的にせよ、血のタブーを年に一度冒すことになる。これはそれまでのユダヤ教からすれば意義深い変更と言える。
殊に西暦七十年以降のユダヤ教エス派は、こうしてキリストの血を儀式として飲むことで、律法体制をまったく後にしたことを自ら示してゆく。それがユダヤ教と決別したキリスト教アイデンティティとして定着し、聖餐を通してユダヤ人イエス派信徒もキリスト教徒としてユダヤ教を後にすることになった。象徴的であれ血を飲むからである。そこにおいて、イエス自らの血を飲み、その肉を食すように語ったキリスト教の精紳と、その話に耐えられなかったユダヤ教徒の違いが明瞭にみて取れる。
こうして、聖餐での飲血がユダヤ人の良識を超克するよう求めたところに、血の禁令の目的が指し示されており、メシアの血による「贖罪」という、その終点を教えるものとなっている。
西暦七十年以降のユダヤ教エス派信徒は、ウェスパシアヌスによるユダヤ税について、自己の立場を鮮明にする必要が生じていた。そこでは、引き続きユダヤ教を選んだユダヤ人らが血の禁忌を続ける中で、新たな道を選んだユダヤ人は、その禁忌そのものが指し示した『魂には魂』の原則による贖罪がキリストの血を飲むところにあったことを聖餐を通して示した。
したがって、律法はこの点でも『養育係』の役割を果たしたと言える。
そこでは当然ながら、単に血を避けることが目的なのではない。
すべての魂の所有権を神に認め、その血を地面に帰してきた行為を超えて、キリストの血を自らに取り入れることが、真の『贖罪』というキリスト教ユダヤ教に対する超越性の所以なのである。

我々カシュルートを守らず、血の禁令も特に命じられない異邦人の場合でも、飲血を避けることはキリストの血の犠牲の価値の高さを認識する助けになるに違いない。これはヤコブの裁定をキリスト教徒への掟と見做すのではなく、キリストの血の犠牲の価値を認識することへの良心の働きのゆえに、今後も多くのキリスト教徒は飲血を避けることを選ぶであろう。それはまさしく高度な宗教的判断である。

しかし、血の禁忌が目的化してしまっては、頑迷固陋にして、その精神を学ぶことのなかったユダヤ教に逆戻りすることになってしまう。
そこで、ユダヤ教徒さえ問題とはしていない輸血までをも忌避するか否かの問題は、以上の観点からすれば、まったくキリスト教の意義を離れることになる。それは、何が何でも血を取り入れないことに固執することに於いてユダヤ的、分けてもパリサイ的であり、自然界には血を食物とする生物が存在することも度外視した完全法規を造り上げてしまうことになり、そこでは律法に記された血の禁令の精紳をさえ無にするのである。
輸血の可否は、本来的に医療上の問題であり、宗教上の要求ではないところで、個人の選択に委ねられるべきものとなるだろう。
例え、以前からの習慣また良心の働きのゆえに、誰かが、それを宗教上の問題とし続ける場合もあろうが、輸血は常にその本人の良心に基づいて決定されれば宜しいであろう。
パウロが述べた肉食の問題のように、ヤコブの裁定も互いの良心を躓かせぬように配慮されるべきものであり、それを判断する動機は神と人への忠節な愛であろう。輸血の決定に於いて重要な要素は、『疑いながらすることのないよう』にということになるだろう。つまり、それは宗教上の決定か、あるいは医療上の判断かは、いずれにせよ本人の中で明らかでなくてはならない。
しかしそれにしても、キリスト教に従うゆえに輸血を拒絶する場合には、それが真にキリスト教の求めるところであるか否かは、問題の重要度からしても個人で熟考される必要性は非常に高い。いや、必要不可欠というべきであろう。
個々のエホバの証人が、教えられるままで聖書を個人として再考せずに、或いは全体がそうするからというだけで、「肉的」なこと、ユダヤ教以下に『血を避ける』を字句のままに輸血にまで当てはめるのは如何なものであろう。だが、ものみの塔はこの禁令を変更することは、ほぼ不可能と思われる。なぜなら既に輸血拒否で多くの犠牲を出してしまっているからであり、1914年の教理以上にものみの塔エホバの証人アイデンティティに関わる土台となってしまった。これを廃止するなら、ものみの塔の倒壊とエホバの証人の信仰の破船以外にないであろう。


⇒ 「血の禁令を超える主の晩餐

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この件でサウル王の件を持ち出しすと、論議は難しいものになる。
戦時下の飢えを覚えた戦闘員が、忍耐できずに血のままで肉を食し始めたという状況(それを緊急というか否か)にくわえ、サウルの祭壇を築いたという判断が適切であったかも分からず、また、サウルの誓い方が神の前に重視されたかのように読める。
ここを以って、律法を越えて飲血が許されるか否かを判断し尽くすことは出来そうにない。
しかし、分かったつもりで何か言う前に検証されるべきことがあるものだ。それは若者でも年寄りでも変わらない。いや、自戒なのだ。

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東方では、聖餐のエレメントを聖別するのが聖霊の役割であるという
聖霊の降下を願う祈り「エピク レーシス」があるという。
⇒PDF資料:属霊に保存済
しかし、エレメントがいつ聖別されるのかを議論するというところに、もはや聖霊を持つ者が居なかったことを証ししているかのようである。この著者によれば、ユスティノスが既にその概念に触れているというが・・






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