Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

神の道徳規準?


キリスト教であるにも関わらず、道徳規準を守ることが神の是認を左右するのか?
律法がキリストによって取り除かれたのなら、人は業によって義を得ることはけっして無い。
いまだに律法や何かの規準を守ろうとし、その「業」で聖なる民になろうとするのはユダヤ教徒であって、キリスト教徒ではない。キリストは、『人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される』と言われる。キリストの犠牲とはそれほどに人類に普遍的で大きなものではないか。(マタイ12:31)
そこで狭い基準を持ち出す宗教家はキリストの犠牲に勝手な条件付けをして、信者を自分の意のままにしたいという強欲が透けて見える。
一方で、確かに律法では、イスラエルに律法条項を守るように告げるに際して「あなたがたは聖なる者であらねばならない」と言い添えられている。
つまり、律法の条項を遵守することで身を清く保つよう促しているのではあるが、パウロが言うように、動物の犠牲は罪を贖うことはなかったし、ペテロも律法を指して、父祖も自分たちも負いきれなかった頸木と呼んでいる。
律法でイスラエルに求められた「聖さ」とは、キリスト後の聖霊注がれた「聖徒」のように、既に仮贖罪され、「罪」の無いと見做された状態に入るようと命じられたものではけっしてなく、「聖徒」の予型としての諸国民に優る一定の清い生活様式が律法を通して命じられた以上のものではなかった。
しかもその「聖さ」を保つべきキリスト教における対型は一般信徒ではなく、「神のイスラエル」である「聖徒ら」であって、けっして「王国」の贖罪の対象となるべき諸国民でもないのである。
もし、これを混同すれば、ユダヤ的律法主義に舞い戻るばかりか、行状による優越感というパリサイ的誤謬にキリスト教徒を誤導することは避けられない。そこには部外者への蔑視と高慢さが伴うであろう。
では、どうしてキリスト教徒が「神の道徳規準」とされるものを守ることで聖く居られるのだろうか?律法を与えられ動物の犠牲によって模式的に義認されたに過ぎないでいたユダヤ人と同列にキリスト教徒が自らの道徳規準を守ることで「聖い者」と自ら見做すべきどんな理由が神の前にあるのだろう。
それは「業」による義認を目指すということにおいて、ユダヤ教の原理であって、キリスト教のものとはなり得ない。
なぜなら、キリスト教の義認は「信仰」によるのであり、しかも、人類のほとんどは神の王国での贖罪を以って初めて義を得るのである。

そこで、現在のキリスト教徒が神の道徳律を持ち出すことも、それによって聖い状態を保とうとすることもユダヤ教への後退であるばかりか、キリストの血の犠牲の適用について自分から信仰ではなく業の方を持ち出していることになる。しかもその贖罪は既に効力を発していると主張することにもなるのである。だが、それは「六千万デナリも自分で払える」と言っているのに等しいキリストの犠牲に対する価値の無感覚である。(マタイ18:24)
確かに新約には道徳に関する多くの勧めが存在し、それはある程度の行状の聖さを求めてはいるのだが、それが「新しい契約」に関わる要求であることは無視されている。初代のエクレシアでは幼児や新参者を除く大半の人々が聖なる者であったのと、現在の聖霊の無い集まりとでは同じ条件で語ることは到底できない。


コリント第一6:9-10については続く11節はこうなっている
『あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。』[口語]
ここに見るように、この清さの規準は「聖霊」を受けた聖徒に関する要求『キリストの律法』であって、それは「神のイスラエル」に数えられ、諸国民を祝福する器にして祭司の民となるためであり。それこそが「新しい契約」の成し遂げる「初穂」となる人々を召し出すものである。


またエフェソス5:3以下の道徳律も誰に向けられたものだろうか
これらの道徳律を冒す者は『神の王国に何の財産も相続しない』(5:5)といい、彼らは『主との関係で光となって』(5:8)おり、『霊に満たされ』(5:18)『霊の歌を歌う』(5:19)のである。これが単なる信者を指すだろうか?


フィリピ2:15の言うような『あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となる』のが一般の信徒だろうか?
それは無理である。「罪」ある者は神の是認の下に無い。当時の『神の子』とは、『すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。』(ローマ8:14)のように、キリストの贖いの適用によって、「聖霊」を有する者を言うのである。今日、誰がそれを持っていると正しく言えようか? 聖霊の無いものは皆が「罪人」であって、御子の血の赦しを持たない者は誰も「神の子」とはなり得ない


ペテロ第一1:15では、明らかにこの手紙の受け手が「聖なる者」であり、『選ばれた種族、祭司の王国、聖なる国民』(2:9)と呼ばれているのであり、『異邦人の間に在っていつも立派に行動する』ように求められているのは、『あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。』という、イザヤに指摘された神が『買戻し』特別な所有に帰する民についての要求なのである。いったい聖徒ではない異邦人がいつ買い戻されたというのだろうか?それも聖さによって。

こうした言葉に何の疑問があろうか?


加えて、人類の全体が贖罪を受けるのは『神の王国』に他ならず、それも終末に生きる人類に対するものであり、一方で、死者は一度死んで『罪の酬い』を受けている以上、罪の無い状態で復活するに相違ない。神の業は完全だからである。(ローマ6:23/申命記32:4)


では
何ゆえ、今日『神の王国』の到来していない状態(ヘブライ2:8)で、人が清い行状を保ったからとて神の前に是認を受けられるだろうか?それとも対型的「贖罪の日」は始まったと唱えるつもりだろうか?
また、神の是認とは、人の努力の及ぶ事柄なのだろうか? ⇒ ヨブ記の結論

むしろ、善人であることで神に是認を迫ってはいないか?
それではユダヤ教徒が律法を遵守する動機とどう異なるのか?

キリストの犠牲は、信仰によって救いをもたらすのであって、業によるものでないことは使徒たちの述べるところからまったく明らかではないだろうか?

それでもなお、自らの行状によって、単なる人が神の好意を得られるとでも言うのだろうか。それなら、その人は、誰でも自分で努力するなら神に是認されると言っているのである。これはキリスト教からの脱線ではないか? ならば、キリストの犠牲は信仰による無償のものではなく、従順による業によって受けるというのか?
新約聖書に書いてあるからと言って「神の道徳規準」を守ることをキリスト教の信徒の皆に強要するとしたら、その教え手はキリスト教が如何にユダヤ教に優るかを知らないと言っていることになりはしないか?
また、その信者らがその矛盾に気付かないで居られるのはどういうことか?


しかし、キリスト教徒のすべてが道徳的に箍が外れた状態にあるわけではけっしてない。むしろ、そこには「愛の掟」が存在し、それは「この世」とは正反対の精紳にして、キリストに従う者すべてに求められる原理である。(ローマ13:10)
それ「アガーペー」は「罪」の対極に在り、何時の日にか人々をあらゆる「法」という名の善悪の規準から解放するものとなるであろう。
今日も、悪行を避けることに意義があるのではなく、そこに愛がなければ何の意味もないのである。まさしく、キリストの血の犠牲が可能ならしめた教えが「アガーペー」と言えるのである。それは「罪」を相殺し、超克し、あらゆる善悪の規準を無効とするものであり、それこそが人をエデンへと回帰させる精神的基礎である。
http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51750209.html



ものみの塔ユダヤ教への退行
http://irenaeus.blog.fc2.com/blog-entry-114.html


これはものみの塔ばかりのことではない。多くのキリスト教派に見られる退行現象となっているのである。
その原因といえば、教え手と信者らの利己心ではないのか?即ち「ご利益の等価交換システム」であろう。ならば、何と嘆かわしいことか。そこでキリストの犠牲は極めて安価に値踏みされ、卑しめられてはいないか?

http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51935990.html






『今日,全地の諸会衆に交わる兄弟姉妹の大多数は,神のみ前での是認された立場を個人的に維持することにより,会衆の霊的な清さを保つよう懸命に努めています。』など彼らの出版物にある文言は、到底同意することができない。
この背景には、「業による義認」がはっきりと顕れており、それは決定的に「信仰による義認」を教えるキリスト教と対立している。これは律法主義への後退であり、パリサイ人を再来させるばかりの教えに過ぎない。どうしてこんな簡単な罠に掛ってしまう信者が多いのか?教理教育の過程で徐々に捻じ曲げられてゆくのであろう。責任感ある人ほど「真面目に」信じ込むさまが目に浮かぶようだ。
そこで、ヨブ記の解釈が浅薄な誤謬に終始しているのもここに理由がある。つまり、「神とサタンとの間に人にの生き方について論争がある」とする奇妙な教えであり、これが道徳遵守、また宣教生活の「業」を行わせる論理を形成してしまっているが、ヨブ記をまるで読んでいないかのような誤りに落ち込んでしまっているのである。
ヨブ記の主論からすれば、この神とサタンの論争ではなく、ヨブの業と義の問題が扱われているのであり、それは正反対の解釈に成り下がってしまっているにも関わらず、ものみの塔信徒からの反論は無いようであり、これはこの派の把握力の低さを物語っているというべきであろう。もはや、こうした誤謬に関わるのは無駄でしかない。
どうして、こうまでも実質的にキリスト教を振り払いユダヤ教に舞い戻ったのだろうか?
ものみの塔はそこで取って付けたような論旨を繰り出しているが、それが「主権に関する論争と関連している」ということであるが、神は創造界に主権を求めているというのである。その「主権」を創造物の各自が支持することで神はその主権を論争の上で得ることになるというのだが、この論争点は逸脱という以外無い。なぜならエデンの二本の木が意味する事柄を理解できていないからである。そこで求められたのは「従順」ではなく自発心、即ち「愛」ハーシッドであったのだ。





加えて、もうひとつ挙げるなら
教理の「知識」がその人を聖なる者にすることも、救いを近づけることも無いということである。バプテスマも同様である。
この点、むしろ知らない者にこそ救いが近いということが起こり得る。なぜなら、その内面の性向なり倫理性なり価値観なりが神の御前に問われるからである。そこでは悪意の有無もさえ関係が無い。無意識の邪悪というものが許されるか否かはどうにも分からない。それを留めるものがあるとすれば本人の良心だけのように思えるが、それも機能しない場合にはどうなるのだろう。(ローマ2:14/テモテ第一4:2)
この点で、教理に進むばかりで、自らを省みるところがなければ、「知るゆえに」却って裁きへと歩を進めるばかりになり兼ねないであろう。この分かれ目は、どのようにも定式化も規準化も出来ず、人間が判断することはまずできない。ただ、自らを欺くところから始まるであろう。
これは「聖なる者」であろうとなかろうと同じことである。聖なる者の中からも脱落者の出ることはイエス使徒らも揃って警告するところである。そこで信仰とは教理を受け容れることではけっして無いのである。(ヨハネ17:3の[ギノースコー]には「味わい知る」「見分ける」が含意されており、単に「(見)知る」だけを意味しない[エイダ])

聖徒の脱落の危険
http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51940099.html



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