Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

エホバの証人の「忌避」の効用

エホバの証人が行う「忌避」
まず、聖書の根拠とされるところについては
パウロはコリント人への書簡等でエクレシア内部の聖霊を受けた仲間、つまり兄弟と呼ばれる者で「聖なる行状」を表さない者についての処置として『異邦人のように』、つまり律法契約での契約外にある者と見做すかのように処置するよう書いている。しかし、これは個々の仲間がその人物を個人的で親しい交友をしないという意味以上にはならない。これを『挨拶の言葉もかけてはならない』というヨハネの言葉と同様に見做すとすれば、それは聖書への見識の薄さを示すか、或いは、新興宗教団体の自己義認や都合に合わせて、無理な関連付けをしているのであり、元々書かれた意図からは離れ落ちている。

このようにものみの塔は、パウロの第一コリント書簡とヨハネ第二書簡のそれぞれ別の背景を持つ言葉をひとつに結びつけているが、『兄弟と呼ばれる者で』の悪行者と、『この教えを携えないで来る者』とは、内部者と外部者に対するものとして異なっている点を判別していない。
パウロは『交友を止め』『本人が恥じ入るよう』に仕向けることをエクレシアの各員に命じてはいるが、そこにヨハネの求めた『挨拶の言葉さえかけてはならず』『そうするならそのその邪悪な業』を共にすることになるという命令を継ぎ足して、恐ろしいほどに人権を踏み躙ることを神エホバの命令としてものみの塔は課している。

だが、この『挨拶の言葉も』と述べたヨハネの言葉は当時のキリストはイエスの肉体を借りただけだと唱えるグノーシス派への牽制であり、彼らはキリスト教徒を名乗りつつ聖徒たちの集まりに参加してきたのであるから、悪霊的分派が不明瞭な時代の使徒ヨハネは強い危機感を以ってこれを阻止するよう訴えていたのであり、内部の悪行者の処罰のためのものではない。
また、パウロも『交友を止め』とは、個人的に親密な交友をしばし慎むという以上にはならない、それも『新しい契約』に属する『聖なる者ら』に対する、『汚点やしわのない』状態でキリストと共になるべき天に召されることを目指した指令であった。
この規準を聖徒以外に当てはめることは余分な重荷であり、守れたからと思えても、自己満足以外に意味は無い。


-では、なぜものみの塔は忌避を全体に課しているか?
その第一の原因は、自己義認、即ち、自分たちだけが神の是認を受けており、必ず楽園に長らえるとするときに、その根拠が求められる。
そこで、新約聖書中の『聖なる者』に対する道徳規準を、信者の全体に求められたものにしようとする誘因が生じる。
その規準を『聖なる者』でなくとも、見掛けのうえで守っている状態を、永遠の命に適う「義」とすることで、必ず楽園に長らえる根拠を実感することができる。
しかし、これはキリストの払った犠牲について、大きな矛盾を抱えることになる。なぜなら、人間は皆がアダムの子孫であるにも関わらず、行状という「業」によって、自ら「義」の状態を持ち、また維持することができることになってしまう。これはキリスト教の『信仰による義』の原則から反対方向に逸脱し、ユダヤ教に戻ってしまっており、恰もパリサイ派のような自己義認と周囲への蔑視が避けられない。
したがって、エホバの証人の行う「忌避」は、この『業による義』を確立するのに必須であり、その特有の行動基準によって永遠の命を得るものとする根拠ともなっている。それが「エホバの証人」という信仰の要諦である。
自分たちの特別さ、周囲との異なりこそが、彼らの義であり、その差別化が無ければ、「永遠の命を約束された」との根拠も実感も失われ、ものみの塔の信仰を保ってエホバの証人でいる理由は消滅してしまう。

そこで愛すべき身近な者をさえ選ばず、組織の言うなりになって良識も良心も捨て去るところで、「忌避」を行う動機は利己心に他ならず、他者を愛顧することの拒絶によって自己の虚栄心と保身の願望を実体なく満足させるだけのものとなっている。
これに加えて、近年では、ものみの塔の組織ぐるみの醜聞が絶えず、それらの問題に正面から向き合わず、ものみの塔エホバの証人への情報の遮断を徹底するという、悪辣な独裁国家並みの下策をもって対応してきたために、内部には徐々にものみの塔の他の宗教と大差ない真相が知られつつあるので、もはや「忌避」によって信者数を保全する以外に方途がなくなっている、
欧米や日本などの先進国においては、ものみの塔の発表する数字であっても増加はほぼ見られず、減少傾向が明らかになりつつある。もし「忌避」制度が無ければ、減少傾向は著しく進んでいたであろうことはもはや隠しようもない。つまり、今後のものみの塔は、「忌避」によって存続してゆくだけの宗派に凋落することは、現指導部に革新的教理が生み出せず、また、いまさら不信の理由にさえなっている古い教理を変更しても手遅れの観が否めず、趨勢は決しているという以外ない。
ものみの塔を信じるエホバの証人の信仰は、永遠の命という誘因にあり、その根拠を形成してきた「業」が無意味であることに気付くなら、その「業」に多大の犠牲を払ってきたために、喪失感は甚大であり、ほぼ「人格の否定」に近い絶望感を予期しなければならず、倫理性の薄い信者にとって、また、老年に達しエホバの証人のコミュニティを必要とする信者にとっても、受け入れることは非常に難しいものとなる。また、そこをものみの塔は突いてくるものと思われる。というのも、既にものみの塔は「忌避」を用いて家族を含む「親しい交友」を人質として取るという「上辺の信仰」を専らに強要しているからである。

即ち、ものみの塔の指導部は、もはや信者に純粋な信仰を求めてはおらず、形だけでも信者数に入っている状態を保つことに腐心しているのであり、それは昨今の教えの内容の支離滅裂さ、聖句の適用の誤謬に著しく表れている。このように「忌避」なくしてものみの塔はごく小さい宗派となっているであろうから、今や「業」と「忌避」は中心的教理となりつつある。
今や「忌避」は、強権独裁国家の国境警備の鉄条網と監視塔の役割を果たしており、それも侵入者よりは支配民の脱出を食い止めるためのものであり、それ無くしては権威の維持もできないし、体制も保てるものか疑問さえある。それを理解しているのは指導層であり、追随する信者ではない。
それでも、ものみの塔という宗教組織は既得権益者らによって消滅することなく、減衰しながらも存続はすることであろうが、急激な縮小は時間の問題であろう。一般社会からの要請として捉えても、「忌避」のもたらす家庭環境を含む人間関係の多様な破壊の犠牲が少なく済むために、出来得る限り早いエホバの証人ものみの塔に対する賢明な自覚が求められている。今後、ものみの塔がどれほど「忌避」を強化するかによって、その程度が宗教的劣化の指標となることは間違いない。


忌避発動の仕方については、長老三人に対して被疑者が向き合うという高圧的な密室での審理が行われる。
そこで長老らの認識が問われることはまず無いので、長老が先入観に支配されていたり、個人的好き嫌いに影響されることを促す外的機能は無く、ただ、他の長老たちによる再審請求ができるばかりになっている。

更に、審理の基準としてものみの塔から発行されている長老への書籍の条文と各種の指示があるのだが、長老の判断そのものを牽制する働きはほとんど持っていない。
しかも、近年では各国でこの団体の忌避を含めた人権に関わる訴訟がなされるようになり、法からの追求をかわすために、この団体内では忌避を「排斥」と「断絶」の双方の理由に用いられる点を巧妙に使い分けるように変化している。これはこの団体に特徴的な「輸血」を行った信者に対して、世俗法からの影響により「排斥」から自動的な「断絶」へと変更されている事にも見られる。

したがって、この団体内での「審理」というものは、人権の観点からして世俗法に勝るものではなく、団体指導部は訴訟を避けることの方を優先しているのであり、宗教団体内部だけで通用する不合理な仮想審判でしかない。その証拠に、被疑者が弁護士の同席を要求すると、その審理自体が無期延期か立ち消えるかするという曖昧な対処を行うのであり、そこに人権を気遣うのがこの宗教団体なのかそれとも公権力なのかが示されている。

この団体の都合で結果が大きく変化するというこの忌避制度を運用する審理自体に、一貫性も正当性もなく、ただ弱者への高位にある者らによる精神的虐待と特権意識の発揚が混じり込んでいる危険性は極めて高い。喜々として審理に参与する長老、また、正義感に溢れて告発する者らには、外部者から見て異様な攻撃性が観察されることは充分に有り得ることであり、そこに人間性の暗部が露呈することになる危険に対して、この組織の指導部はほとんど警戒しているようではない。そこで人権蹂躙の悲劇が多々起ってきたのであろう。忌避制度と共にこの審理制度を考案し、運営してきた責任はとても軽いもので済みそうにない。だが、多くの場合にこの不当性は告発されることなく、被害者は忍従を強いられ、一方で審理や告発を行った者らは、より一層の自己肯定感を得て団体内で闊達に生活を続けている。


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エホバの証人が言う「神が善悪を定める権利を持っている」というのは、無意味だ。なぜなら、律法を通して、アダムの罪のゆえに人が神の規準を守り切ることができないことが明らかなのであれば、それを今知らされたからと言って何ができるのか?山上の垂訓の通りに行動できる人がいれば、その人はキリストであり贖いの必要もない。詰る所、自分たちの宗派が神に是認されていることを主張したいがための差別化を新約聖書からピックアップして、無理な頸木を信者に課して救いの実感を得させているだけではないか?キリストが見えればパリサイを批難したように「負い切れない荷を人に負わせ、自分では指一本貸さず」出来なかった人を忌避しているだけだと強烈な批判を受けるに違いない。偽りの証人とはこのような者を言う以外ない。

ものみの塔の忌避の検証を含む

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