Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

「エホバの証人」という矛盾した在り得ない名称

エホバの証人」とは、広範な戸別伝道や街路での宣伝を通してその雑誌「ものみの塔」と共に見聞きされるキリスト教一派の信者を指す名称である。

この「エホバの証人」の由来はイザヤ43:10-12に記された言葉によるものとされている。

その句はこのようになっている。
『10「あなた方はわたしの証人である」と,エホバはお告げになる,「すなわち,わたしが選んだわたしの僕である。それはあなた方が知って,わたしに信仰を抱くためであり,わたしが同じ者であることを理解するためである。わたしの前に形造られた神はなく,わたしの後にもやはりいなかった。11 わたしが―わたしがエホバであり,わたしのほかに救う者はいない」。
12 「あなた方のうちにほかの[神]がいなかったときに,わたし自ら告げ知らせ,救いを施し,[それを]聞かせた。それで,あなた方はわたしの証人である」と,エホバはお告げになる,「そして,わたしは神である。』
(以降、新世界訳)

上記の言葉はイザヤの時代に契約の民イスラエル民族に向けて語られている。
しかし、イスラエル民族はモーセの律法を守ることなく、バビロン捕囚の憂き目に遭うことになる。
それは同じイザヤも、『22 「しかし,ヤコブよ,あなたはこのわたしを呼ばなかった。イスラエルよ,あなたはわたしにうみ疲れたからである。23 あなたはわたしにあなたの全焼燔の捧げ物の羊を携えて来なかったし,あなたの犠牲をもってわたしの栄光をたたえることもしなかった。』と同じ章にある通りである。

だが、イスラエルの神YHWHは、彼らをバビロンに囚われた状態から救い出し、再びエルサレムでの崇拝を再興を許すことも予告し、このイザヤの預言を通してもそれを知らせている。
あなた方を買い戻す方,イスラエルの聖なる方,エホバはこのように言われた。「わたしはあなた方のためにバビロンに人を遣わして,獄のかんぬきを下ろさせる。そして,船の中のカルデア人はすすり泣く。』(43:14-)

この崇拝の再興を通してイスラエルは自分たちが神YHWHに選ばれた民であることを自覚することになるという。
これが所謂「回復の預言」であり、それはイザヤばかりでなくエレミヤやエゼキエルにも存在する、同様の事柄が多面的に語られ,、預言者は違えども一連の共通する内容を知らせる予告を構成している。

しかし、それはバビロンからの僅かな残りの者たちの帰還の時期に実際に起こったところだけに含まれない事柄も含んでいるのであり、それはなお将来への展望を期待させるものとなっている。
なぜなら、「イスラエル」は神の民であり、その格別な目的は未だに充分に果たされた姿を誰も見ていないからである。
イザヤにはこうある。『それは,わたしの賛美を詳しく話すよう,わたしが自分のために形造った民なのである。』(43:21)

つまり、この「イスラエル」と呼ばれる民は『「イスラエルよ,あなたはわたしの僕である。わたしはあなたのうちにわたしの美を示す」』と呼びかけられた民であり、それはアブラハムの後裔として『諸国民の光』となるべき民であり、古代のアブラハムに予告されたそして,あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう。あなたがわたしの声に聴き従ったからである』との言葉を諸国民に対して実現する務めを負う者たちとなるのである。(創世記22:18)

それこそは、シナイの荒野でモーセを通して『わたしとの契約をほんとうに守るなら,あなた方はあらゆる民の中にあって必ずわたしの特別な所有物となる。全地はわたしのものだからである。6 そしてあなた方は,わたしに対して祭司の王国,聖なる国民となる』と律法契約によって進むべき目標となったところであった。(出埃19:5-)

しかし、イスラエルはこれに従うことが出来ず、遂にバビロン捕囚を経て契約の証しであった「契約の箱」を失い、律法契約は不確かなものとなって、エレミヤの予告した「新しい契約」とメシアの出現を待つ不安定な時代を過ごさねばならなくなった。
この民は神からイスラエルの神の名を真実によらず義によらずに語り告げる者たち』とさえ呼ばれざるを得なかった。即ち、名を唱えることがそのまま善ではなかったのである。(イザヤ48:1)

最後の預言者マラキの後四百年を経ると、ヨルダンの荒野にバプテストが現れて『悔い改めのバプテスマ』を民にほどこし始め、そこにメシアが現れる。
バプテストの告げたようにメシアは信仰をもった民に『聖霊バプテスマ』を施す一方で、信じなかった民には西暦七十年の『火のバプテスマ』をもたらした。
それはメシアを退けた「世代」への報いであって、メシアの刑死から四十年を経ずに起こったことであった。それは遅滞なく生じけっして「ふたつの世代が重なる」ようなことはなかった。

こうして見ると、神YHWHから自らの証人であると呼ばれたのは、この『新しい契約』に入った『聖なる者』を表していることが明らかになる。
パウロはこの民を『神のイスラエル』と呼んでいる。つまり、血統上にある『肉のイスラエル』と対照される民である。しかし「霊的イスラエル」または「霊のイスラエル」と呼ばれることはなかった。

彼らにはイエスから約束されていた『聖霊』が臨む。それは多くの奇跡を行わせるだけでなく、『真理の全体へと案内する』ものでもあり、その働きの結果として聖書も完成し、使徒や弟子らによってギリシア語による新約聖書が存在することになった。
それらは神の言葉であって、訂正も調整も必要もないものとなって今日まで存在している。

聖書は聖霊を注がれた弟子らを繰り返し『聖なる者』(ハギオス)と呼んでおり、けっして「油そそがれたクリスチャン」とは呼びかけられてはいない。
その身分は、既に肉体に在りながら『罪』を許された状態に入っていることをパウロは指摘している。
『こういうわけで,キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません。』また『神の選ばれた者たちに対してだれが訴えを提出するでしょうか。神が[彼らを]義と宣しておられるのです。とも書いている。(ローマ8:33)
これは天界の大祭司となったキリストが、従属する祭司団に含まれるべく信じた者から『選ばれた者』を召し出した結果であり、彼らはキリストの犠牲を最初に適用され『罪』を赦された『被造物の初穂』とされていた者らである。


それであるから、聖書中の『聖なる者』はエホバの証人の中の「油そそがれたクリスチャン」を遥かに超え、人類に先立って『養子縁組の霊』を受け、既に肉体に在ってさえ『神の子』とされるはずである。彼らはキリストの『兄弟』であり、同じく奇跡を行う業を聖霊によって託されていた。

彼らがこれほどの異例に高い立場を得た理由は何かと言えば、それこそが「新しい契約」による仮の「贖罪」であったことを彼はこうも指摘している。
『この[み子]によって,わたしたちは贖いによる釈放,すなわち罪の許しを得ています。』(コロサイ1:14)
またこうも言っている。
『わたしたちはこの方により,その血を通してなされた贖いによる釈放,そうです,[わたしたちの]罪過の許しを,その過分のご親切の富によって得ているのです。 8 [神]はそれを,あらゆる知恵と分別とにおいてわたしたちに満ちあふれさせてくださいました。9 そのご意志の神聖な奥義をわたしたちに知らせてくださったことにおいてです。』(エフェソス1:7-)

しかし、この「贖罪」はキリストと共なる『初穂』である人々、つまり『新しい契約』に与った人々だけが受けることのできたものであり、それ以外のすべての人にとっての贖罪は千年王国を待つべきであることには誰も変わりがない。それは現にエホバの証人であろうとなかろうとである。

他方、『新しい契約』に与った人々は、贖罪されているゆえに『神の子』であるとパウロは言うのである。
『14 神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです。』
この『神の霊』とは何であろうか、これについてはそれに続く言葉から疑問の余地がない。
『あなた方は,再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊を受けたのではなく,養子縁組の霊を受けたのであり,わたしたちはその霊によって,「アバ,父よ!」と叫ぶのです。16 霊そのものが,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証ししています。』

またエフェソス人ではこう語っている。
『しかしあなた方も,真理の言葉,すなわちあなた方の救いについての良いたよりを聞いた後,この方に望みを置きました。そして信じた後,やはりこの方により,約束の聖霊をもって証印を押されたのです。14 それはわたしたちの相続財産に関する事前の印であり,また,[神]ご自身の所有物を贖いによって釈放し,その栄光ある賛美とすることを目的としています。』

『栄光ある賛美とすることを目的』とあるように、与えられた聖霊は彼らがまさしく「イスラエル」あのイザヤ43章の示す『わたしの賛美を詳しく話すよう,わたしが自分のために形造った民』そのものであり、イエスが山上の垂訓で『あなたがたは世の光』と言ったそのユダヤ人の本来あるべき姿であったが、彼らの身の証しを立てるものは『聖霊』であったことをパウロは繰り返し語っている。

しかし、彼らは依然として肉体に住まう間は、アダムからの罪にまとわれていることは変わりない。そこで、彼らは『新しい契約』によって義が仮に与えられている状態にあるので、その生涯を通して忠節と道徳性を保たねばならない。それが彼らに与えられた務めであり、常に「契約」とは不確かな事柄について結ばれるものである。

そしてこの契約によって与えられた『聖霊』が、終末において大いなる業を行うことをイエスによって予告されている。
ルカ福音書のまさに21章は終末のキリストの預言を記した箇所であるが、そこでは彼らの発言が格別のものとなることが知らされている。
『12 「しかし,これらのすべての事の前に,人々はあなた方に手をかけて迫害し,あなた方を会堂や獄に引き渡し,あなた方はわたしの名のために王や総督たちの前に引き出されるでしょう。13 それはあなた方にとって証しの[機会]となるのです。14 それゆえ,どのように弁明するか前もってけいこなどしないことを心に定めなさい。15 わたしがあなた方に口と知恵を与えるからです。あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできないでしょう。』

エスがこのように弟子らに語らせる経路となるものが何であるかは、他の福音書も語るところである。
『人々に用心していなさい。人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,また自分たちの会堂でむち打つからです。18 いえ,あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民に対する証しのためです。19 しかし,人々があなた方を引き渡すとき,どのように,または何を話そうかと思い煩ってはなりません。話すべきことはその時あなた方に与えられるからです。20 話すのは単にあなた方ではなく,あなた方の父の霊が,あなた方によって話すのです。』(マタイ10)

このように為政者と敢然と対峙し、誰も論駁できない聖霊の言葉を語る者こそを「YHWHの証人」と呼ぶべきではないのだろうか。
これらの人々であれば、確かに「世のものではない」。しかし「エホバの証人」はそう言えるだろうか。この世に敵意は懐いても、それ以上のものでもなく、まして責任ある者らが神を証しして為政者に臆せず立ち向かっているだろうか。むしろ末端の信者らが世との軋轢に曝されてはいるだけではないのか。

終末を描くマタイ25章の羊と山羊の例えからすれば、エホバの証人の実情とは逆に、「キリストの兄弟ら」が世の矢面に立ち、その他の人々は彼らに親切を示すのであるが、エホバの証人ではその他の人々が世の矢面に立たされており、「キリストの兄弟」を自認する者はその背後で安楽に「指導」してはいないか?
これは、どこかで「教えのすり替え」が密かに為されている証拠であろう。

そして、『聖なる者』らには神からの聖霊が臨む以上、また神との契約の一方の当事者である以上、神の名を知らないということがあるだろうか。
キリスト自身も『そしてわたしはみ名を彼らに知らせました。また[これからも]知らせます。それは,わたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり,わたしが彼らと結びついているためです」。』と祈っているのであり、神やキリストと本当に結ばれた『聖なる者』であれば、どうして神の名の発音を知らないでいる理由があるだろうか?(詩篇22:22)

全能の神が自らの御名を保存できなかったのだろうか。ならば「エホバの証人」がそれを回復するべく奮闘努力する必要があるのだろうか。そして全能の神もその助けを待っているというのだろうか。
それとも、いと聖き御名は神自ら秘められることを許されたのだろうか。そうであれば、いったい何者がそれを公表することができるのだろう。神は終末に自ら名を清め『高く挙げる』と言われる。(イザヤ33:10)神が御自らその名を高く挙げるときに、人間の介助が要るのだろうか。

これらを考慮しても「エホバの証人」というこの名前は、「エホバ」と「証人」が相矛盾しているのである。
さらに「エホバ」とは子音字[יהוה]YHWHユダヤ人が「主」(アードナーイ)と読ませるためにユダヤ人学者ら(マソリーム)が振ったルビ(ニクード)を子音四文字にそのまま当てはめて読んだ欧州人の仮の呼び名であり、それは当のエホバの証人も知っていることである。キリスト教界はこれを「誤読」としているが、確かに、「エホバ」はいまさら「証人」を必要とするものでもなく、八百年も以前からカトリックに存在していた読めない神名を呼称する便法であった。

むしろ、それを「ヤハ」と残された省略形で読むこともできるだろうし、その方が古来ユダヤに伝わるものである。もちろん、それでも御名を人類は未だ知らないということに変わりはなく、その後に「証人」と続けることはやはり相応しいことにはならない。それこそは、神からの啓示を持つ者だけが為し得ることではないか。即ち真実の「神のイスラエル」である。

つまりは、この世に神の御名を正しく知る者は絶えていないのであり、却ってそのことが真実に「YHWHの証人」がいったい誰であるかを証しするものとなるはずではないのか。神名は人々の救いに関わるものであり、終末に重要でないわけもない。そこで「יהוהの証人」とは真実に聖霊を持つ者だけが発音して名乗れるものだからである。この世にそのような『聖なる者』は初期以来絶えて居ないではないか。(ヘブライ2:12)

この点で、「エホバの証人」は19世紀の蒙昧のままに「エホバ」と発音することを通して、むしろ自分たちも神名は分からないと言っているのであり、そこで「エホバ」と「証人」のふたつの言葉はまったく撞着しているのである。これほどお粗末な名称も宗教界に見当たらないのではないだろうか。実にこの組織の代表者が一晩で思い付いたというが、自分たちを「エホバの証人」と呼んだその日以来、彼らに神の導きは無かったことが名称そのものに明白に出ていたのである。つまりはアメリカ人の傲慢な妄想である。

しかも、この名称が僭称にも至らない嘘名そのものであり、これを公言して憚らないのである。その嘘名とは聖霊に対する偽りを含み兼ねず、そうなれば悪気はないとしても軽い咎で済むとは思えない。
もちろん、神の名は誰も知らないのであるからには「エホバ」である可能性もゼロにはならない。しかし、だからといって神名はやはり「エホバ」だと言っても、それは「証し」していることになるわけもない。その名が「エホバ」である微少な確率に懸けるとしても、それは普通「予想」と呼ばれるものであっても「証し」と言えるだろうか、その「予想」こそは、この組織が「年代」に於いて長年行って何度も外して来たものである。

では、そのような他の誰とも変わらない聖霊のない人々が神の「証人」の身分を語ってよいだろうか?名をさえ知らぬ者が「証人」たり得るだろうか。

ますます良いはずもない。
これは詐称に中でも神の聖霊と御名に対するものであるからには、極めて罪の重い騙りというべきであろう。
彼らが日毎に口にするその「エホバ」は聖書の神の名ではないばかりか、用いる程に自分たちはそれを知らないと繰り返しているのであり、それが頻繁であればあるほど実際には「自分は神名を知らない」と言い張っているのである。そこでは聖霊はもちろん、何ら「神からの経路」を得てはいないと、その「エホバ」と発音される都度に自ら反証しているのである。(詩篇102:21)

少し考えて頂きたい。
エホバの証人」に聖霊が注がれているというのであれば、どうして教理の訂正を避けられないのだろうか?
「家から家」が求められた宣教の主要な業であれば、なぜ終末に聖霊の言葉が為政者らと諸国民への証しとなるのだろうか?
どうして性的幼児虐待の廉で法廷に呼び出されても出廷せず責任逃れをするような代表的「エホバ証人」が終末預言にあるように敢然と為政者と対峙できるのだろうか?

エホバの証人」とは何と厚顔無恥な名称であることか。
「エホバ」と言うなら「証人」とは言えず、「証人」なら「エホバ」とは言わないのは明白だからである。
上記の事柄を理解したうえで恥を知るならば、この名称はとても名乗れない。
不遜を重ねて「初代キリスト教徒もエホバの証人であった」というなら、今日イエス・キリストが世界で最も知られた人物とはならず、神の御名は保存されていたであろうし、神名はエホバとは呼ばれていないに違いない。

この名称を良いつもりで用いる人々は、聖書の根本的な教理をすら知らないというべきであろう。
「楽園」以外に関心も無いのかも知れない。いと聖なる神の御名よりもご利益を大事にするからだろうか。
この人々が「エホバ」と声高に叫ぶ動機は、自分たちの「楽園」と「永遠の命」が、また仲間内の交友や権威をふるう願望が掛かっているからではないのか。
そこで神への純粋な関心は利己心へと歪められてはいないのだろうか。

彼らが誇る「行状の義」も、『あなたの義は地の人の子に対するもので』『たとえあなたが実際に正しくても,[神]に何を与えられよう』。という言葉を超えることができるのだろうか。(ヨブ35:8.7)
ヨブでさえこのようであれば、「エホバの証人」はいったいどんな証しを神の御前に提出できるというのだろう。
宇宙論争」なる妄想はキリストの一度限りの忠節の立証の前に霧散するべきものではないか。(ヘブライ2:14)

この宗派の信者も、普通に見られるただの人であり、神の裁きの前に有利である事はとりたてて何もない。
むしろ、自派の正義を押し立て不遜であることに固執しているので、真に聖霊の降るときにそれが頑なにさせる恐れが強いであろう。 だが、いまからでも「人間の義」を捨て、心を柔らかにする機会はまだ残されている。



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