Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

待たれるべきは

多くのキリスト教徒にとって待たれるべきものは、キリストのパルーシアということができる。
だが、パルーシアが既に起こったとしてしまうと、待たれるべきものは、パルーシアのエピファネイアとなってしまうが、そこでは重要な事柄が省略されてしまうことになる。即ち、聖霊の再降下であり、キリスト教の回復だが、これは起こってしまったことにされる。それも自分たちの宗派の中においてのことである。
しかし、「預言者たち」はシオンとそこへのシオンの子らの帰参について、また神YHWHのシオンへの再来を予告し、そこにキリスト教の回復が喜ばしく対型されているのであるから、これらを実現させるキリストの臨御を既往のこととしてしまえば、そのキリスト教は矮小なものにならざるを得ず、しかも、その待ち望むものは、「ハルマゲドン」や「大いなるバビロンの滅び」などのネガティヴなものになってしまう。そこに建設的なものは弱く、自分たちが既に何かを成し遂げたかのような慢心がある。そこに神からの是認の証したる御力は無い。
加えて、その信者は、自分の救いを当然と観るので、裁きに対する相応しい心構えはできないし、神の前に傲慢不遜に自派の義を示すことにもなってしまう。
一方で、キリストのパルーシアを待ち望むとは、親しみ易い肉のイエスを待つ訳でも無い。既にキリストは近寄りがたい光の中に住み、人は誰も見ることが出来ず、使徒や聖徒らが天に復活してはじめて霊により目にすることができると言われる。
二度目の到来は、犠牲となることを離れてであり、人々の救いに関して到来するのであるから、肉の弱さの内にではなく、神殿への復讐に燃えた御厳の大王としての霊者としての到来である。それゆえ「彼は雲と共に来る」。そうで無ければ、世は目に見える御厳の大王にすくみ上ってしまい、刑の執行者の前に裁きが妨げられる。しかし、この世は裁きを前に自由に自らがどんなものかを示す必要がある。
その後に、この世に裁きが下され、聖霊を信じる者に救いがもたらされるのであり、神はキリストを通して紅海での奇跡を遥かに超えるシャファトをもたらす。
その前に、パルーシアは聖霊の再降下を以って地上のシオンとされる象徴的な民に知らされ、救いの要諦となる神の名を知らせ、更に聖霊は聖徒を介して為政者の世と対峙する。これらが起こる時代が終末であり、それは聖霊の再降下によって始められるものであり、始まれば十年に満たない期間で終わるように聖書は読める。
キリストの戴冠は、世界連合のシオン攻撃への対処として切迫した事態の内に惹き起こされるものであり、それがハルマゲドンの戦いへと進むものである。それは裁きの結果、神が救いを望んだ人々の救出に関わるもので、聖霊の再降下に先んじることはない。なぜなら、聖徒はこの戦いにキリストと共に加わり、脱穀橇となって諸国をもみ殻のように打ち砕くからである。したがって、その時点ではこれら神殿に相当する人々は諸国民に蹂躙された後で、七つの頭ある野獣によって死に渡され、常供の犠牲も絶え、むしろ、天界への全体召集に与っている。
結論として、やはりキリスト教徒の待つべきは聖霊の再降下であり、これが神YHWHの合図であって、シオンの子らであるイスラエルの残りの者たちがシオンに現れることによって終末は始まり、キリストのパルーシアも印付けられる。
見張りの塔の上の者らが歓喜して叫ぶのはこのためであり、最初に福音を伝える者が神からシオンに与えられる。
目覚めの花であるアーモンドは実もつけてアロンの祭司権を証明したように、最初にこれが示されるとき、それは奇跡を起こす聖霊の降下無くして起こり得ない。
そこではシオンという、いち早く目覚めた者を必要とし、聖霊降下の意義を知る民、終末のキリストのパルーシアに対して整えられた民を要する。この民は聖霊を待つ、そこで自己の義を去って神の義を待つゆえに傲慢ではない。
この人々こそが、聖霊というキリスト教徒としての待つべきものを弁えていると言える。あのペンテコステの日と同様に、聖霊こそがキリストの再来の動かぬ証拠だからである。

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『だれも働くことのできない夜が来る。わたしが世にいる間わたしは世の光である』jh9:4-5

『あなたがたはみな光の子で、昼の子、われわれは夜にも闇にも属さない』1Th5:5
『世は更け昼が近付いた』Rm13:12
『世が明けて明けの明星が上がるまで』1Pe1:19

『地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。』Isa8:22『見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである。』同18

『しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
9:2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。』Isa9:1-2

『天を創造してこれをのべ、地とそれに生ずるものをひらき、その上の民に息を与え、その中を歩む者に霊を与えられる/主なる神はこう言われる、
42:6 「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、
42:7 盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる。』Isa42:5-<「選んだ僕メシア」>

『あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだ/イスラエルの神であることをあなたに知らせよう。
45:4 わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。
45:5 わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。
45:6 これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを/知るようになるためである。わたしは主である、わたしのほかに神はない。
45:7 わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である。』Isa45:3-<キュロスについて>

『47:5 カルデヤびとの娘よ、黙してすわれ、また暗い所にはいれ。あなたはもはや、もろもろの国の女王と/となえられることはない。
47:6 わたしはわが民を憤り、わが嗣業を汚して、これをあなたの手に渡した。あなたはこれに、あわれみを施さず、年老いた者の上に、はなはだ重いくびきを負わせた。』

『 49:8 主はこう言われる、「わたしは恵みの時に、あなたに答え、救の日にあなたを助けた。わたしはあなたを守り、あなたを与えて民の契約とし、国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。
49:9 わたしは捕えられた人に『出よ』と言い、暗きにおる者に『あらわれよ』と言う。彼らは道すがら食べることができ、すべての裸の山にも牧草を得る。
49:10 彼らは飢えることがなく、かわくこともない。また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、泉のほとりに彼らを導かれるからだ。』

翻訳難所Isa50:11
『 見よ、火を燃やし、たいまつをともす者よ、皆その火の炎の中を歩め、またその燃やした、たいまつの中を歩め。あなたがたは、これをわたしの手から受けて、苦しみのうちに伏し倒れる。』<口語>
『見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。』<新共同>


『58:6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
58:7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
58:8 そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。
58:9 また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、
58:10 飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。
58:11 主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。
58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と/呼ぶようになる。
58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、
58:14 その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。

『59:9 それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、正義はわれわれに追いつかない。われわれは光を望んでも、暗きを見、輝きを望んでも、やみを行く。
59:10 われわれは盲人のように、かきを手さぐりゆき、目のない者のように手さぐりゆき、真昼でも、たそがれのようにつまずき、強壮な者の中にあっても死人のようだ。
59:11 われわれは皆くまのようにほえ、はとのようにいたくうめき、公平を望んでも、きたらず、救を望んでも、遠くわれわれを離れ去る。
59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。』

『60:1 起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。
60:2 見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。
60:3 もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。
60:4 あなたの目をあげて見まわせ、彼らはみな集まってあなたに来る。あなたの子らは遠くから来、あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。
60:5 その時あなたは見て、喜びに輝き、あなたの心はどよめき、かつ喜ぶ。海の富が移ってあなたに来、もろもろの国の宝が、あなたに来るからである。』





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