Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

宗教上の差別化

企業が、自社の商品やサーヴィスを競合他社と異ならせ、顧客を獲得しようとするように、宗派は自派を異ならせようとする。
このような差別化を行わないと、特に小さい、または後発の宗派は埋没してしまい、より大きな宗派に呑み込まれる危険がある。

そこで、宗教上で差別化し易いのが、まず教理であり、そこからその宗派独特の生活習慣さえ築ければ、信者の囲い込みはたいてい成功するようである。そこでは「〜だからこの宗派は正しい」という単純な比較で、絶対なものを見出したと錯覚する。⇒ヨブ記の結論

しかし、そこではどうしても信者の生活や行動様式を縛ることになり、宗派の利己心のために信じて集まってくる人々を犠牲としなければならなくなる。しかし、実は信者もその差別化に価値を見出して集まってくるので、この律法主義的な人権の抑圧はとりあえず問題にならない。そこで両者は結託してしまい、宗派が築き上げられてしまう。

信者の方も、世間一般よりも行動様式が厳格であるほどに、自らの正しさを実感してしまうのであり、それは指導部に「自信」が無いほどにエスカレートすることであろう。そこでは社会通念に反することの方がより説得力を持ってしまう。なぜなら、「自分は普通以上だから」である。そこで良識を自ら涵養することは忘れられ、ただ指導者に従うのである。

この縛りが強いものが、一般社会の通念から外れて「カルト」と呼ばれている。しかし、その縛りが強いものには、それだけの教理を納得させる教育やプロパガンダが備わっており、これを解くことは容易なことにならない。

しかし、その教理体系も不完全な人間に由来するものであるから、完全ではないし、それを恰も神からのものと称するところで必ず矛盾を呈する。そこから良識ある人々の注意を喚起することはできる。

ひとたび、その教理に見られる差別化が、宗派の存立と信者獲得の方便であったことに気付くなら、熱心な信者と雖も、その宗派にもはや一顧だにする理由もなくなる。

だが、差別化が実はそのようなものであったとは、指導層さえ本能的にはそうしていても、意識はしていないこともあるように思う。まして信者に至っては、他の宗派と異なるところこそが「正義」の由来となってしまっている。それは相対価値であって、絶対価値をもたらしてはいないことにほとんどすべての信者は気付いていない。

しかし、人はどんな宗派に属そうと、相変わらず「罪人」であることには幾らも違いが無い。そこで差別化は無意味であって、キリスト時代のパリサイ派の轍を踏んでいる。自分たちが「清く取分けられた」と妄想し、それが宗教となっているからである。

人間は正義を望むものではあるが、こうした宗教上の差別化によって、自分自身の倫理的実際の姿を忘れ、高慢に振る舞う素地を持つ。それはキリストに反対した精神であり、実に多くのキリスト教の宗派はこれを繰り返している。

カルトもそうであり、また伝統的宗派もカルトを攻撃する過程で、自派の「伝統的」という差別化を行っている。

詰るところ、どれも人間の正義に過ぎず、神にもキリストにも関わりの無いことであろう。

教理を利用するなどして作られた正義は人間の正義であり、人間の正義の上限は、神に正義を求める姿勢にある。
人は誰も、宗教上の差別化によって罠に囚われるようではいけない。

しかし、その選択も、その人の倫理規準を表すものであり、そこでその人の内面が如何なるものかを反映しているのであれば、それは動かせないものかも知れない。

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某教会が「同じ聖書に基づいていながら、なぜいろいろな教派があるのですか?」というQ&Aを掲示している。

その答えの要旨は「それぞれの教派が生まれてきた国、時代、創立者など、歴史的背景の相違から別個の教派を形成してきました。また聖書の解釈の違いから新しい教派が生じることもあります。」と回答しているが、これを上記の趣旨から答えるなら
「宗派を立ち上げようと欲した創唱者が信徒集めのために、宗派の差別化を行うからです」ということになろう。
詰る所、「人は勘違いを免れないのであり、そこで聖書の概要は同じでも、リテラシーや読解力の差、また情報の多寡によって、同じ聖書を用いて異なる教理が登場するのが実際のところであり、その背景は、すべて人間の不完全さに由来しているのです」という答えになるだろう。この点、どんな教祖も只の人であり、地上に正しい宗教などは無い。人はただ、それを待つのみである。
聖書に書かれている通りにしたからといって、正しいキリスト教が登場するわけもない。そこには決定的に欠けたものがあるのであり、それは神からの是認と啓示であって、それはどんなに聖書主義を貫いても達することのできない領域である。つまり、人に由来するか、神に由来するかの違いである。この点で、聖書主義はすぐに人間の不完全さの袋小路に迷い込んで、誤謬を決して逃れられないのである。そこでは生ける神の啓示の重さを軽視し、静的な聖書記述に神を閉じ込めて、自ら誤謬に染まっている愚を犯しているだけのことである。聖書、聖書と言い張る前に、己は何者かを知るべきであろう。不完全で間違いを犯しやすい只の人ではないか。どうして正しいキリスト教を体現できようか?



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