Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

人種と文化

異人種が隣り合わせに永続的に住む場合

様々な難民が国境を越える

今後は、少子高齢化のために先進国が移民を受け入れることが増える場合

その土地の文化の担い手としての人種を維持するのか
または、文化は人種固有のもので、その人種の居るところにその文化があるのか


それとも、土地の文化を多人種に委ねるのか
その場合、多人種に拒否権はないのか

例えれば、ロッテルダムの現市長はモロッコ生まれのイスラム教徒であるが、見事に西欧文明を背負っているように見える。
彼は15歳までをモロッコで過ごし、裸足で、食事は一日一回であったという。彼は貧困が過激派を作るわけではないと言う。

今日の彼に伝統的モスリムの姿はまるで見えないし、オランダの法治とシヴィリゼーションを説き、イスラム過激派とは対極にある。それでも彼はまさしくイスラム教徒である。

ロッテルダムには教会はもちろん、シュナゴーグもモスクもある。
では、オランダのオランダらしさはどうなるのか?

ゲットーや中華街は、区画を分けて双方の文化を保った。
最近、曽野綾子氏が唱えて、批判を受けた発言の真意はここにあったのではないか。

思うに、人種という血統の傾向は言語に後押しされたものでもあり、長年培われて、築かれたものでもあるから、そう容易に消えるものでも変えられるものでもなさそうである。
そこに価値を見出している人々にとっては、どんな人種にとってもある文化の消滅は損失である。

では、文化の担い手とは誰だろう。

今日の日本では、古武道などに深い関心を示す外国人が少なくないし、神社仏閣に日本文化を尊重するばかりか、日本で仏門に入る白人も居るらしい。古都金沢を見事な日本語で案内して回る外国人ガイドや、熊野古道を巡礼する外国人さえも居る。外見を除けば、彼らは平均的日本人以上に日本人化している。日本文化人というべきか。

今後、日本が移民を受け入れるのであれば、文化の担い手は誰かという問いに答え、また、その文化に自ら価値を見出し、高めるている必要がある。
文化が衝突するときに、脆弱なものは淘汰されるだろうからである。どんなものであれ、人が何らかの文化に参加するとき、そこに価値観が働いている。

商業の弱肉強食のような事柄が、文化で起こり得るのだろうか?

日本が今日の日本を形作ったのは、鎖国の間であったという。

ひとつの国や民族のアイデンティティは、過去の時代のように保護はされないだろう。その覚悟なくして移民を受け入れすれば、相応の争いになるのは見えている。

そこには、相当に広い心の大志が要るだろうし、また、移民からもそのような精神を育てる気構えでなければ、ただ受け入れるだけで、後になって差別や敵意を生むのだろう。

そこでは、移民と共に新たな文化を創ってゆくほどの決意が無くては、却って憎しみの連鎖をまねくばかりだろう。


しかし、人はカルチャーに生きるのか、生まれた人種に生きるのか?そこに宗教も絡む。
こうなると愛国心とは何なのか?この「国」という意味が問われてくる。欧州は一足早くこのカオスの中でその解答を模索している。だが、相当な難問なのだ。
世界を平均化するべきか、柵を設けるべきか?ニムロデの時代以来の状況に人類は遭遇しつつあるのだろうか。

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