国際法の一般原則とは、国際司法裁判所規程第38条第1項(c)にあるように「文明国が認めた法の一般原則」であり、主要法系に属する世界の国々の国内法に共通して認められる原則の中で、国際法秩序にも適用可能と判断できるものを指す。
19世紀には国際法の法源は条約と慣習国際法であるとされてきたが、これらに加えて1921年の常設国際司法裁判所規程は法の一般原則を裁判基準として認め、国際司法裁判所規程も上記国際司法裁判所規程38条1項(c)のようにこの立場を踏襲した。
さらに現代では二国間の仲裁裁判条約や、多数国間条約に定められた裁判条項においても裁判基準として挙げられていることから、法の一般原則は国際司法裁判所の裁判基準であることを超えて「法の一般原則」も国際法秩序における独立した法源であるとする考えが、今日では広く認められている。
条約そのものの規律を対象とする国際法については1969年に国連国際法委員会によって法典化された条約法に関するウィーン条約がある。
伝統的な「国際社会」(仏: la société internationale)は、主権国家の並列状態のみが想定されており、したがって国際法の主体となりうるものは国家のみであった。この基本的な構造のため従来的な国際法とは、国家間の合意もしくは不文律のことのみを意味していた。会社などの法人や個人は国際法の主体となりえず、せいぜい国家が国際法に関する権利を行使する過程で影響を受ける存在でしかなかった。これはそもそもかつての国際法で紛争を抑制するために定められた国内管轄権に関する事項を規定しない内政不干渉の原則がウェストファリア体制で確立されたことに起因している。
しかし現代では、国際人権法、国際人道法に見られるように、個人も国際法上の権利、義務の主体として位置づけられるようになった。また、国際環境法における「人類の共通の関心事」(common concern of humankind)あるいは「人類の共通利益」(common interests of humankind)概念のように、「人類」(仏: l'humanité)概念も登場するに至った。このように、今日では、従来の「国際社会」とは異なる、諸国家の相互依存性から自然発生的に形成された「国際共同体」(英: the international community、仏: la communauté internationale)という概念が、学説においてもまた実定法においても、徐々に浸透してきている。
慣習国際法は、不文ではあるが、条約と同等の効力を有する法源である。もっとも、不文であるため、それぞれの慣習国際法がいつ成立したのかを一般的にいうことは難しいが、もはや慣習国際法として成立したとされれば、国際法として国家を拘束する。
19世紀には国際法の法源は条約と慣習国際法であるとされてきたが、これらに加えて1921年の常設国際司法裁判所規程は法の一般原則を裁判基準として認め、国際司法裁判所規程も上記国際司法裁判所規程38条1項(c)のようにこの立場を踏襲した
1922年に設立された国際連盟における国際司法機関で、国際社会に初めて登場した本格的な常設の司法裁判所である。オランダのハーグにある平和宮に本部を置いていた。1922年から1940年までの期間に裁判を行ったが、処理した事件の件数については38の判決と27の勧告的意見とする説や、21の判決と26の勧告的意見とする説がある。1940年、ナチス・ドイツがオランダに侵攻したのを機に活動を停止し、1946年4月に国際連盟とともに消滅した。国際連合のもとに設立された国際司法裁判所がこれを継承した。
オランダのハーグに本部を置く。国家間の法律的紛争について裁判をしたり(国連憲章第36条第3項、ICJ規程第36条)、国連総会や国連安保理などの要請に応じて勧告的意見を与える(国連憲章第96条、ICJ規程第4章)。判決や勧告的意見による国際司法裁判所の意見は、国際法の発展に多大な影響を与える。世界法廷(World Court)とも呼ばれる。
国際法の実現は、二国間の条約に於いて古来存在していた(トルデシリャス条約など)
フーゴー・グロティウス(1583-1645)の論が大きい影響を与えている。この論理は1603年のオランダによるポルトガル船の拿捕事件に端を発して、オランダの東インド会社の権益を巡って海洋の領有権が争われた。彼の「自由海論」に英国は激しく反発し、海事法が初めて論じられるに至った。英国は海港の自由な入港も制限し、この確執はやがて第一次英蘭戦争1652-1654を招く。
(グロティウスは1620年代から神学について論じることが多くなったが、それはオランダが新教派としての国家論に関わってきたからであった<これが曲者>)
この時期、オランダはスペインとの間で休戦協定を結び、外圧を逃れることができた。
しかし、多国間法規の必要が高まる19世紀に国際法は、ほぼ形を成していたと言える。<従って、日本が国際法を学び、遵守しようとした幕末時代は、二国間条約を超える国際法が整いつつある時期であったと言える。この法に組みするということは、国家に品格が備わり対等的に振る舞って植民地化されない利点があったろう。薩長の新政府も幕府処置について国際法からの所見を求めている。それは新政府が日本の代表となるためにもおろそかにできないことであった。そしてそれは江戸から東京への繁栄を担保することにもなっている。従って国際法の影響は日本の政体のシームレスな移行に寄与しており、明治維新を導く原理でもあったといえよう>
・英国には条文憲法というものがない。
「イギリスにおける立憲政治の発展は徐々におこったため、多くは制定法や判決という形で明確に定められることなく、慣習の蓄積として次第に権力の担い手によって守るべきルールとして意識されてきたのである。」(http://home.v02.itscom.net/honmushi/british1.html)
憲法習律は制定法や判例を通してではなく、歴史的な政治の流れの結果として生じたもの
その結果、時代の流れに沿いつつ柔軟に対応できる
イギリスでは、憲法的な重要性をもつ立法は、形式的には通常の立法であるから、改正が容易でありその意味では軟性憲法であるが、実際には重要な法律は改正されることがほとんどない 。
所見;英国の憲法はモーセの律法と好対照を成している。マグナ・カルタ以来その規約は下から上に求められてきたが、律法は全くその逆であり不動なものとして人間的判断基準を原則的に拒絶していた。Pr3:5
他方で英国では長い歴史の中で判事による判例の蓄積から経験則を導き出して来た。これは途中から立憲民主主義を取り入れようとした日本のような国には到底真似ることはできない。もとより立憲民主主義そのものが封建統治とは異質なものであった。
しかし、英国式の経験則から向かうべき方向を模索しつつ定めてゆく手法は、実践論を踏襲しており、アリストテレス的実証により、人間というものを決め付けずに摸索しつつ生き方の根幹を成す精神を探るものとなっている。それは柔軟に人間の型に対応するところで実用性に富み、支配者と被支配者との関係の本質を常に探って来た歴史の上に今日がある。
これに対して独裁的国家に見られるのは被支配者の人格や権利の未成熟であり、それは圧政的支配に急激に取って付けたように民主主義を実践することに最初から無理があり、絶えざる教育ばかりでなく、永い時代に実証された経験則の厚みを要するのであろう。それは一朝一夕に育まれるものでは有り得ない。(バナナ共和国)
現代でも国際法を軽視しがちなのは独裁的国家であり、往々にして「西側が押し付ける基準」に国際法も含まれるかのような単純化されたレッテル貼りの論理が用いられるが、それは個人を擁護せず支配者のための国家となる傾向の強い政府にとって、人権の擁護が難しいや最初から軽視しているために、国家間の公平性でも国際法の順守が難しいかそもそも意識の外にあるため、個人でも国家でも他者との関係で公平であることを「西側の規準」として履行しない口実にしているだけのことである。
西欧諸国間では、流血を伴う争いの果てに国際法を培ってきたのであるが、それ以外の地域ではこの点での見るべき進歩がなかったのであり、却ってマルクス主義などの自己正当化による暴力を原資とする理論を受け入れてしまった結果として、公平性を育てる機会も放棄してきた。
従って、その影響下では対人的にも対国家でも公平性が育たず、当然の帰結として人権意識も停滞し、支配者のための支配という古い構造から抜け出せず、その支配下にある人々の間にも人権の自覚が育ちにくい環境が醸造され続けてきた。
しかし、相互尊重という倫理性は簡単に育つものではないので、それが西側のものであろうとなかろうと、人々の間での習熟を要するものである。しかもそれは支配者層には権力を制限するものであるから、野放図な権力欲にとっては都合が悪く、厄介なものとされる。
従って、国家間の不公正はその国民の倫理性からのものとなる危険性が高い。
実際、西欧が抗争に明け暮れた果てに国際法を築き上げていた間に東欧をはじめ他の地域は公平性を培うような努力を怠ってきたのであり、この21世紀になってまで、自分たちが理解し難く、理解する気も無い公平性を「西側の規準」と呼んで蔑視している。
翻って、キリスト教界が律法主義的に振舞うのにも似たところがある。即ち、政治と宗教がなぜ存在するのかという土台から思考を開始させることなく、ただ「神は人間を支配するに違いない」という固定観念から離れられずに、キリスト教の主題である『罪』がまったく視野に入って来ないので、キリスト教はおろか聖書の教えの意味の基礎にも達してはいないし、圧政的支配の思考から出られず、永らく独裁が続いた国家の民のような隷属精神を植え付けることが神の意向でさえあると思い違いをしているであろう。
そのため、堕罪前のアダムとエヴァの得ていた自由、支配も崇拝も無い「真の自由」を目指す気概に欠け、隷属こそ神の意向と思い込んでいるのであろう。
使徒時代のエクレシアでは、圧政的な指導者層が存在せず、使徒ペテロは自らを「年長者」とはしても「使徒筆頭」などとはしていない。聖霊の奇跡が圧倒的であったパウロさえもその権威はコリントスの聖徒らに軽んじられ、侮蔑する者までいたことが記録されている。
使徒らが示したものは、今日的キリスト教界での指導者の優越的権威とは異なっているところが見られる。この点でパウロは自分の後に圧制者がエクレシアに入り込むことを警告していたが、これは特に新興キリスト教の宗派の指導者に顕著に見られるが、伝統的教会でもその傾向は拭えない。
それは個人での信教の自由を、世俗の規準として退けることで、『神に似た様である』人を尊重していないのであり、同様に他の宗派への蔑視や敵意にその独善性と利己性が現れている。
ここが新十四日派としての存在意義ともなっている。
但し、ここで云うのは「民主制が正しい」という意味ではない。
互いを尊重するか否かについて国際法を引き合いに出したのであり、問題の本質は「倫理」にあり、宗教を信奉することを通して、信者はこの点でどのように影響を受けるかについてまでほとんどの宗教人が考えないことを論題としている。