Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ヒュームの社会契約論批判から

◆「原始契約について」

歴史的な記録を見ても、我々は社会契約による国家設立の実例を知らない。皆で集まって対等な立場で約束して、クラブとかソサイアティとかを作ったように国家を作った、などというエピソードは聞いたことがない。むしろ歴史を振り返る限りでは、たいていの国家は戦争と征服の結果出来ている。つまり、対等な契約ではなく、勝利者、征服者による一方的な押し付けの結果として国家が存立したのである。

この論点は
仮に我々の国家が社会契約によって出来上がったとしても、その拘束力がなぜ我々に及ぶのか?
また、世代を越して行く契約の効力は何によるものなのか?誰も社会契約について、それを相続するか否かが問われることはない。だからといって我々が国家権力に従わなくてよいわけもない。そうであれば、法律を守るべき義務とは、契約を守る義務とは異質のものである「何か」であることになる。

契約によって国家に参加するか否かを決められるのであれば、ある国家の支配に服する気がなければ、契約を拒否でき、領域から逃げることが許されなければならないはずである。しかし、実際にそれは難しく、無産者階級であればまず逃げられないにも関わらず、「お前が国家法に拘束されているのは社会契約に参加しているからだ」と言われてもまったく納得できない。
であるから、庶民らが法を守り、国家に服従する義務を与えるのは社会契約ではないことになる。



◆ヒュームの法秩序のモデル
"Convention"「慣習」
社会的に共有された振る舞い方の「約束」
約束といっても無自覚的であり、強制力もない。
ヒュームによれば、社会秩序は契約でも約束でもなく、自然発生的な「不都合を避けるために」従うものであると
誰かが意図的に作ったものでもない
そこはアダム=スミスの経済論に似る。つまり、人は個人の利益を追求して経済活動に参加してくるが、それが全体としての利益を生み出してゆくと



所見
もうひといき
人は権力の及ばない狭間では必ずしも強制されない。強制は主に権力という外面からくるが、内面から強制が起ることもある。これは「良心」や「愛」のようなものが原因であり、国家の法とも言えない。
人間にとって法秩序は社会契約とは言えず、自らの必要から来た仮のものではないか。しかも、参加しているのではなく、縛られているという以外にない。不自然であったり不公平な害をなす法も避けられないのであるから。
国家の本質は「征服」であり「強制」であって、ニムロデの性格を必ず持っている。
また、道徳の成立が利にあるとして、人の必要からのものであることを説いているが、これは『善悪の知識の木』に通じるところあり。しかし、道徳が利から来るというのは、人間側からの発想では避けられない。なぜなら、道徳を行うべき理由を追及してゆくと、人間には互いの利益以外に普遍的に説得させるものが存在しない。「愛」と言えば社会での動機にならないし、実際できないからである。(Co2取引などが端的な例)

市民から大衆へ

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ホッブスとロックの基本的な社会モデルは

「創造者がいて何かしてくれるとしても、自然状態の成立までである。自然状態から出発して人間たちがどのように他人と付き合い、社会秩序を維持して行くかについて神は答えを与えてくれない。そこで人間たちは、どのような秩序を作ってゆくべきかを手探りで見つけてゆかねばならず、現に成り立っている法と秩序はそのような思考錯誤の成果である」

とされる


『神のようになって善悪を知る』という句を根拠に推論するべきではないのかもしれない。ここで蛇は誘惑しているのであり、正確な陳述を心がけているわけもない。

神は『それから食べる日にあなたは死ぬ』と言うが、蛇は『死なない』と言っている。

善悪を知る木=[וּמֵעֵ֗ץ הַדַּ֨עַת֙ טֹ֣וב וָרָ֔ע]

『我々の一人のように善悪を知る者となった』
[וַיֹּ֣אמֶר׀ יְהוָ֣ה אֱלֹהִ֗ים הֵ֤ן הָֽאָדָם֙ הָיָה֙ כְּאַחַ֣ד מִמֶּ֔נּוּ לָדַ֖עַת טֹ֣וב וָרָ֑ע]
これは純然の無垢の喪失ではないか?それは善悪いずれを選択しても越すことになる倫理の発生を指すと観れば得心できる。
しかし、人はその状態で生まれてくるゆえに『罪』ありとされるといえるかどうかは難しい。倫理性がどう遺伝するのかは皆目わからない。むしろ何かの欠損が生じて遺伝しているのではないか?それは意識の問題のように思える。人はいちいち個別に創造されていないということだろう。

人間の社会も権力による支配も極めて自然発生的であり、契約によってスタートしたとは言い難い。それは精々が雇用関係のある企業くらいであろう。権力は人間の不倫理性によるカオスを防止するための必要に迫られたものであり、全人類に共通する『罪』の存在を証ししている。そこでは契約など取り結んでいる余裕も無く、冷徹な暴力と手段を択ばぬ勝利によってのみ国家権力は即座に築かれていたとしか言いようがない。国家権力による支配の由来は、人間自身の邪悪を調停し、とりあえずの秩序を得なければ皆が揃って滅び去るほどに危険だからである。人間が如何に危険な生物であるかを人は知っているようでいてそうでもない。だから暢気な「社会契約論」が出て来る素地もあったろう。社会支配の要件は支配の確立の後に整えられたものであり、絶えざる努力と犠牲の賜物であったというべきであろう。そこでより温和な会議が支配の条件を設定することも進められたが、それが恰も契約由来のように見えるのだろう。しかし、実は議会での討論も欲と欲の衝突であり、武器を持たずに数において暴力を回避して戦っているのである。つまるところ、支配とは争いである本質を変えることは出来ないのである。







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