Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

市民から大衆へ

"19世紀までの政治社会を構成するのは市民であった。
しかし、20世紀が進み、普通選挙が広く実施されるようになると、社会の趨勢は市民から大衆へと入れ替わった。
18世紀から19世紀にかけて、市民は西欧先進諸国に姿を現したが、彼らは財産と教養を備えた人々であった。そこに富みの偏在や労働問題が生じていたにせよ、市民は理性の持ち主としての趨勢を形成する要素であった。理性を備えた市民は自他の利益を正確に推し量ることができ、その実現にどれほどのことが関係するかも的確に把握でき得る者たちであった。
こうした市民によって構成される社会では人々は感情的ではなく合理的に行動することが期待され、政府の側が積極的に行動しなくても社会の秩序は容易に保たれ、政府は小さい方が的確に作用できた。"(阿部齋)

しかし、20世紀に入るに従い、普通選挙により権利を主張する社会規模が大きくなり、物事はより複雑化し始めた。そこでは自他の利益を算出することが難しくなっただけでなく、大衆にはそれに対処する素養が十分ではなかった。ここにおいて政治の理性の働きは著しく損なわれ始める。
この時代状況で、大衆は政治を理性的に処理する代わりに、願望や不安などを感情的要素として政治に投入し始めた。合理的政治判断よりは、切迫した自己の状況の改善を叫び求める示威的態度が主流となってゆく。本来、力による衝突の調停を目的とした「政治」もここにおいて、力によって解決しようとする退行現象を経験する。
そこでは「数」によって勢力を構成しようとするところから、どうしても個人の違いは無視されて、意見が集約され、紋切型の主張が思想化を装ってゆく。
こうして市民の合理的行動は社会を去り、そこは大衆の不合理な行動様式の示すところとなり、大衆社会は政府権力の積極的介入なしには安定した秩序を持てないという状況を呈することとなった。確かに、そうしなければ政府が当事者らのためには動かず、怠慢や腐敗が進むことも事実ではあるが、優れた政府であってもあらゆる方面に同等の益をもたらせることは出来ないし、あり得ない。即ち、政治とはどれを優先するかという倫理判断そのものだからである。

社会の大衆化は為政者の姿勢を変えるものともなってきた。今日見られるように、為政者は大衆の共感を得、その支持によって支えられなければ、その政権を保てないことがはっきりし、大衆に阿る必要に迫られることで、政治までもが大衆化し、感情的民意に縛られ、大胆な施策が難しくなってきた。

その一方で、人々は連帯して一定の勢力を構成することで、自分たちの欲求を社会に通す方法を専ら採用し始め、こうして個人は薄められた存在、微小な意味だけを持つものとなってゆく。

大衆の特徴は、画一化された行動や思考である。例えれば、現代人は他人との接触において他人の評価や期待に敏感で、そこで他人の規準を自分に当てはめてしまいがちである。こうして画一化した「ステレオ・タイプ」の人間像が形成される。それが人々の連帯の対価であろう。そこで個人の異なる主張をすることは単なる造反と見做され、真摯に耳を傾けることはされない。
"大衆は、社会問題でも自らの利害においても必ずしも独立した判断を下すことができない傾向をもつ、同時に、イメージやスローガン、指導者の人気などによって操作されやすい面を持っている"(久保文明)

実にこの問題提起は古く、民主主義の萌芽が見られたアテナイで既にソクラテースが「素人の船頭に船を任すのか」と指摘している。
フランス革命前後には、啓蒙専制君主説が唱えられ、西欧民主主義へのアンチテーゼとして発揚されていた。
実際に市民社会が訪れたときに、貴族の没落が始まり、資本家が台頭しつつあったので、民主主義は反貴族的に新興有力者に利用されてもいる。
しかし、その本質は全人政治参加を謳ったために、大衆社会化は予定されたものになってしまっていた。
もちろん、大衆の蒙昧が政治を賢く導けるはずもなく、次に現れたのは、大衆という名目上の主権者を利用する寡占政治家であった。

この「深く考えない人間」によって出来上がった社会状況は、独裁的為政者や、カリスマ的宗教教祖にとって非常に都合がよい。上手く宣伝を行い、有名になってしまえばそれだけで支持する人々は芋づる式に増えてゆく。ヒトラーやムソリーニがそうであった。
20世紀とは、まさに「イズム」の世紀であったが、そこでの「大衆化」の没個人的要素を見落としてはならない。ヒトラー突撃隊や毛沢東紅衛兵など、当事者たちはそれぞれ異なると主張しようが、個人の人格や判断力を奪われて集団の力を誇示する一部と化したことにどちらも変わりはなく、このように、ある程度の情報を与えられながらも非理性的に人々が同じような思考形態に陥って集団行動を行った例は、20世紀という時代の特に強い性格を表している。

今日、「カルト」と呼ばれる宗教が一時代に流行るところにも、やはり、この「大衆化」による理性やリテラシーの欠如が関係している。そこでは「宣伝が為されれば同意が広がる」という人の安易さに付け込む方法が専らにされ、強引な広報が繰り広げられてゆくが、人は本能的に孤立を恐れるためか、不思議なほどにこれが大衆に対しては効果を発揮してしまう。

即ち、大衆の一員は自己の理性を放棄してしまい、重要な倫理的判断を自分では下さず、強烈な自己主張者に任せて安心しきってしまうからである。その要求される言動の合理性は敢えて問わないので、相当な無理も圧制者の言う通りに行ってしまう。
そこでは、自分の中の僅かな良心の声も押し殺すことが正義であると言い聞かせ続けて、相互監視の中で自分のするべきでない事に関わり、容易ならぬ事態に踏み込んでやっとのことで反省に至るが、その犠牲は取り返しがつかない。

まさしく、「カルト」を育てたのも「ファシズム」を養ったのも、「マルクス主義」に人々を走らせたのも、人々が「大衆化」して、理性的な行動・思考様式持たず、個の尊厳を捨て、他人と共にいるところに安心感をもって安住した結果である。そして今、世界は「愛国主義」や「民族主義」、また「宗派主義」において同様の過ちを犯そうとしている。

その一方で、宗教や政治の集団暴走を留め得る理性的市民の存在は今も希薄であり、この危機も去っていない。
いや、むしろ社会は増々世俗化しており、大衆感情が社会を支配している形勢は一向に変わりそうにない。
信念ある人を育てることが期待される宗教の分野も「大衆化」という痴呆化現象を促進こそすれ、食い止めているようにも見えない。
むしろ、人々から教養や合理性が失われていた方が、政治にせよ宗教にせよ、教導者自らも弛緩した精神で済み、居心地が良いということは十分に考えられる。つまり、民は言う事を聞いていればそれでよいとしか考えていないし、自分たちも大衆の大まかな言い分を聞いていればそれで権力の座は安泰である。
共産主義体制の圧政下で、情報の統制や教育の偏りや抑制などが横行した歴然が、そのまま宗教組織にも類型を観るのは人類全体にとって二重に辛い現実であろう。

これは神が人を自らの「象り」として創られ、それを尊重されたことに抗うことであり、人が自ら大衆化を許すことも同様であろう。それは人間性への冒涜であり、延いては神を卑しめている。
⇒ http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51798374.html

しかし、「大衆化」から脱することは各個人にとって可能であるに違いない。情報統制の壁を乗り越え、自ら情報収集して判断を下し、自己啓蒙することを続けることがその人なりであってもできるはずである。その点で21世紀は全世紀より遥かに有利となっている。

「長い物には巻かれる」ことを止め、より正確な情報を集めて吟味し、自己判断の力を磨き続けることで、徐々に人間らしい理性や行動を取り戻せるであろう。

人の倫理性はあてにならないゆえにこそ、自分の良心の判断を捨ててはならず、自らの善性を伸ばす努力を続けるべき理由がある。


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自然は民族を形成せず、ただひとりの人間を生むのみ。Spinoza





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