Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

エフェソス3:14-15 訳語のメモ

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・訳語への議論が不毛になるとき
自説解釈への立証に血道を上げようとする
その僅かな語句を頼って聖書理解や教理が構成されている証拠でもある。人間の意見に固執しているので、全体に流れる精神を汲むというところには至っていない。それは聖書崇拝を通り越して、幾つかの語句を偶像に奉るようなところがないだろうか。数語の句の上で「〜だから〜だ」ということを神経質に言い募るのと、一歩引いて全体を眺めるのとでは、どちらが部分をあるべき姿に相応しく観ることができるだろうか。これは画家がよく知っていることでもある。そこには審美眼も必要になるが、聖書と観る目とは「倫理的価値観」である。それを差し置いて原典の存在していない古代の書を決め付けてかかるのは、自分の宗派からは賞賛もされようが、神の前には僭越なだけではないか。聖書を扱う理由は信仰にあるのではないだろうか?それは倫理的問題を扱うのであり、考古学や文献学に献身し尽しているのであれば、その人はどれほど宗教に関わる教理を云々しても、実は宗教は扱ってはいない。探求すべき関心を神にもっておらず、自説の証明という人間界の争いの中にいるだけのことであろう。

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"προσκυνεω"は、「崇拝する」と単純に意味を規定するべきでない。
新約の用法(60)の中でさえ、例え話の一万タラントを貸していた「主人」に対して借財人が「プロスキュネイ」して嘆願している。
黙示録の手紙では「ユダヤ人と言いながらそうでない者らが聖徒に「平伏」することになる」と記している。

確かに新約中では、これが動詞であるため、イエスに対して用いられている回数がほとんどではある。
しかし、それが「拝する」という動作を表しているからであり、それを以って崇拝の対象を教理上で限定するべきかどうかは、また別問題であろう。

したがって、この一語をあらゆる場合に「崇拝」と訳し、それが常に教理上の崇拝対象にだけ用いるとすることには無理がある。
ある場合に「敬意を捧げた」と訳したとしてもそれを間違いと断ずることは非常に狭量で独善的ではないか?

まして、これを以って三位一体を裏付けようとするのは如何なものか。何かこじつけてでも主張を押し通そうという強引さを感じずにはいられない。
つまるところ、教会員が浅学にこうした知識を振り回すのは、周囲が余りに聖書を知らないところを利用してのことであり、言った者勝ちなだけで、そうした事は相当多いと思われる。
相手を打ち負かし自説が通ればそれでよく、真相がどうかには関心もあるまい。決め付けの激しい宗教の世界で横行していることである。

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※翻訳難所 Eph3:15---
14Τούτου χάριν κάμπτω τὰ γόνατά μου πρὸς τὸν πατέρα, 15ἐξ οὗ πᾶσα πατριὰ ἐν οὐρανοῖς καὶ ἐπὶ γῆς
Byzantine MajorityとNAとでは14節の長さが異なり
ビザンティンではパテラの後に付け加えがあり
”του κυριου ημουν Ιεσου Χριστου”と続いている。
但しAやBはこれを省いている。ヒエロニュモスはこの追加の部分を残しウルガタで
"huius rei gratia flecto genua mea ad Patrem Domini nostri Iesu Christi"としたが
これをKJVも踏襲し" For this cause I bow my knees unto the Father of our Lord Jesus Christ,"としていた。(これはエティエンヌも同様[それで14と15のふたつの節に分けたか!])
15節についてはそれぞれ以下の通り
Latin Vulgate
3:15 ex quo omnis paternitas in caelis et in terra nominatur
King James Version
3:15 Of whom the whole family in heaven and earth is named,
なお、15節の傾向の異なる訳として
Darby's English Translation
3:15 of whom every family in the heavens and on earth is named,
Douay Rheims
3:15 Of whom all paternity in heaven and earth is named,

問題はこの15節中の'ονομάζωこのオノマゾーをどう訳すか
(8×を挙げなさいと、2×叫びます;10 1は名をつけて、名前1b:に言及するために、発して)1a:を名をつけて))名をつける 1b1)、名前を伝えてください、人、 1b2)、挙げられてください 1b2a)人またはもの1c:名前を運んで)人またはものの名前を発する)
この節は前の14節に従属しており、このふたつの節は共に訳される必要がある。主要な動詞は14節の"κάμπτοω"(直現能1単 曲げる、かがめる)
【口語訳】
Eph 3:14 こういうわけで、わたしはひざをかがめて、Eph 3:15 天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。
【新改訳改訂3】
Eph3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、Eph3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
【新共同訳】
Eph 3:14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。Eph 3:15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
【岩波委員会訳】
Eph 3:14 このような理由で、私は父に向かって私の両膝を折り、Eph 3:15-この父から天の、そして地上のすべての種族はその名を受けている- 
この訳の註として:「語源的言葉遊びと同時に、神が万物の創造主であり統率者だとの思想もある。旧約では神が天の万象を命名し(詩147:4/Isa40:26)アダムが地上の生物を命名した(Gen2:20)とされる。命名するのはいずれも支配する側の者。」とあるが、これはどうも説得力を感じない。

所見:それぞれパウロの真意を測りかねているようにさえ観え、口語訳には珍しく大胆な印象があるが、明解さで群を抜く。
パウロがここで何を言いたかったのかは、コイネの用法や慣用句、またはギリシア戯曲にヒントがあるのでは?
しかし、こうして俯瞰するとビザンティン系写本の追加の意味が生きてくるようにも見えるのだが・・
つまり、パウロはこの後の部分でエフェソス人も相続人であることを述べており、イエスの父である神はあらゆる「父」の「父」であるゆえに、彼らにも聖霊が注がれ、彼らの父となるようにと願い跪拝しようということではないのだろうか?それは異邦人である彼らを(ヤコブユダヤにしたように)ユダヤパウロが執成すための熱心な嘆願ではなかったか。

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聖餐 - 初期キリスト教における「聖餐 (エウカリスト、ευχαριστω)」の用語の最初期の使用例として、アンティオキアのイグナティオスがフィラデルフィアの共同体に充てて書いた手紙がある。
この町は紀元前189年にアッタロス朝ペルガモン王国の王、エウメネス2世 (en) が建設した。エウメネス2世はこの町を、彼の弟で後継者であったアッタロス2世への友愛のため、弟のあだ名である「ピラデルポス (Philadelphos)」と名づけた。ピラデルポスとは「兄弟を愛する者」という意味で、アッタロスは兄エウメネス2世への忠誠心の深さからこのあだ名が付けられていた。同様に「フィラデルフィア」と呼ばれていた都市は現在のアンマン(ヨルダン)などが大きく有名だが、このフィラデルフィアは『ヨハネの黙示録』の宛先となっている小アジアの七つの教会のひとつがある町として有名である。この都市は地震が頻発する地帯にあった。
跡継ぎを欠いたアッタロス3世 (en) は、紀元前133年に死去する際、彼の王国を(フィラデルフィアの町も含めて)同盟国ローマに遺贈した。ローマは紀元前129年にイオニア地方と旧ペルガモン王国地域を合わせ、属州・アシア(Asia)を発足させた。


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Gal4:9 ストイケイアに付随してアススェネー「病気の」⇒「弱弱しい」つまり「病弱な」が敷衍された意味らしい。
パウロがストイケイアを用いるときには必ず律法が関わっているように見える。「並んだ杭」が教条を指しているのでは?なお、この節は翻訳難所に加えておくこと!

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・アダムが神に対して「不従順」であったために「罪」を犯した、という説明文は同意することはできない。
単なる「命令に対する不従順」を超えた事柄に「罪」が起因している。もし、不従順が罪なら、神はロボットの神でしかない。
創造のままの完全さを持った人は、神をどう見做すかの自由を有していたし、それは現在でもそうであるが、いまは誤解や過ちの危険性が伴うようになっただけのことである。その過ちの中には宗教的圧制などにより、人の自由な意志や判断を捻じ曲げる要素もある。
エデンの中央の木が二本であったのはそれが「選択」であり、命令への「従順」ではなかったことを証ししてはいないか?この概念はエバルとゲリツィムでも繰り返されている。また律法の言い回しもこの理を補強する。つまり、エデンの禁令と律法に共通するものとなっている。
そして「善悪を知るの木」は「蛇」とセットされる理由があった。それを全知全能の神が許したのは、その選択を求めるためではなかったか?蛇はけっして「命の木」から食するようには言わなかったろう。なぜなら、そこに禁令が無いのでサタンの狙いはなく、専ら創造者への忠節を離れさせることに自己の利を見ていたからであろう。(⇒では生命の木から先に食したらどうなっていたか?)

この件は"ὅσιος"また[הסידך]と深く関係している
http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20140621/1403359616


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2Tim3:7
πάντοτε μανθάνοντα καὶ μηδέποτε εἰς ἐπίγνωσιν ἀληθείας ἐλθεῖν
[ἐπίγνωσιν]は「知識、認めること、承認、正確で正しい知識。倫理ものと神学についての知識で使われる」「英語での"acknowledgement"」「認識」も可
直訳「常時学んでいるが、しかし、いつになっても真実[ἀληθείας]※に来ることができない」
※キリストを通して与えられる真実
この主語は「さまざまの欲に心を奪われて、多くの罪を積み重ねている愚かな女ども」同3:6


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ヤコブの死.62年ヨセフス、ヒエロニュモス
      69年エウセビオスcaes、クレメンスArex

ユスティノス;ペルセウスの昇天をキリストに比し、ダナエーの懐胎をマリアに比し、前者は後者の歪曲とした。護教家が目指したのは、単なる寛容ではなく、キリスト教と哲学、教会と帝国の結合であった。p220 メリトンはキリスト教が帝国の偉大さに貢献したと力説し、ユスティノスもアテナゴラスも「ディオグネートス」の作者もヘレニズムを捨てたとは考えていない。(正面切ってこれを捨てたのはタティアノスだが、彼は他の大切なものも捨てていたかも知れない)

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πνευμα υἱοθεσιας 「養子縁組の霊」は
パウロだけが用いており、ローマ人に三か所あり、聖徒の身分を解説する8章に二回あり、ここでよく説明している。
ほかにはガラテアとエフェソスに各一ある。
Rm8:15.23Rm9:4/Ga4:5/Ep1:5
Rm9:4ではイスラエルに養子縁組が差し伸べられていたことを述べているので、これは諸国民が神の子とされることだけを述べてはいない。誰もが聖霊の降下によってはじめてその機会に預かったことをパウロの用法は示している。
しかし、日本語の主要な翻訳(口、改、共、岩委)はこれを「子たる身分を授けられる」等に訳していて「養子」という概念を避けてさえいるように見える。それは新約中の5か所の事例すべてにおいてそうである。その理由は不明。
「ヒューオスェシアス」については、セア、R&S等"adoption of sons"とある。
「子とされる」という表現のメリットは、イスラエル血統への近付きではなく、神の直接の子となるという印象が強くなる。その一方で、神との関係性においては見逃す読者も多いように思う。
「養子縁組」という言葉が法的意味を持つので「神の子とされる」とい概念が強調されることで、三位一体説の邪魔するからだろうか?

旧約聖書中を見渡すと、イスラエル民族が神の子とされたところを見出せない。ダヴィデ王統の末裔に予告されたくらいである。それはイエスの受浸また変貌の際に表明されたと見ることができる。
新約では、「あなたがたは神の子とされる」と山上の垂訓で述べており、それはその後のことであったことを知らせている。これらはパウロ論議聖霊」による養子縁組と一致する。


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