Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

エフェソス3:15 名を受けるとは

 

天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。【口語】

 

御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。【新共同】

 

天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。【新改訳3】

 

-この父[パラ]から天の、そして地上のすべての種族[パトリ]はその名を受けている。-【岩波委員】

(ここに言葉遊びがある)<節を括弧書きにした理由?>

 

前後は祈りについて述べており、神を父として霊を通しキリストを彼らの内に住まわせてくれるよう願っている。(『わたしたちの内に働く力により』)

また『霊の一体性』について強調されている。

 

[14 Τούτου χάριν κάμπτω τὰ γόνατά μου πρὸς τὸν πατέρα, 15 ἐξ οὗ πᾶσα πατριὰ ἐν οὐρανοῖς καὶ ἐπὶ γῆς ὀνομάζεται, 16 ἵνα δῷ ὑμῖν κατὰ τὸ πλοῦτος τῆς δόξης αὐτοῦ δυνάμει κραταιωθῆναι διὰ τοῦ πνεύματος αὐτοῦ εἰς τὸν ἔσω ἄνθρωπον,]NA28

14 このことの為に、わたしはその膝を屈める そのに対して

15 このすべての家族が、天の中と地の上の 名付けられている

16 の為に あなたに下へと与えられる この栄光 奇跡 強くある・・

 

4章からは、聖徒が互いを忍耐し平和の紐帯をもって霊の一体性を維持するように、との訓戒が続いている。

エフェソス書が諸国民への内容であることからすると、「『地上のすべての種族が名を受けている』父である神」の意味で言うらしい。即ち、ユダヤ人を越えて諸国民に契約の範囲が広がり、聖霊が注がれて同じキリストを自らの内に住まわせることに於いて<加えて創世記のトーレドートを含意したかもしれない>

また、ギリシア語の言葉遊びは、ギリシア人とディアスポラを読み手として想定し、且つ当然ながら原本がギリシア語文であったことも示している。<こうした事はヘブライ書簡やヤコブ書には見られないと思われる。もしあれば、それは筆記者が翻訳で改変していた危険があるかも>

 疑問点は「あらゆる支族は名を得た」の「支族」が「天と地の」と形容されているところ

<これは同じエフェソスのプロスェシス論議(1:10)からすると、信徒を包含して語っているのかも知れない>どうもそうらしい。神の経綸に於ける範囲の大きさを強調したのでは

「名を得た」は非常に判りづらい。これはもう少し観ないと