Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

使徒言行録に関するメモ 19.5

パウロの回心後について、ルカは『基礎が固まり』[οικοδομου μενη]と描写したが、直訳すれば「築き上げられた」 となると

これは妨げられることのない成長期に入ったというべきでは

<しかし、これを以って教理でのキリスト教の確立とは言えない、ただパウロが迫害の急先鋒であったことが強調される>

 

『世界を襲う大飢饉』;クラウディウスの第四年(44)にユダヤで、第九年(49)にギリシアで、第十一年(51)にイタリアでの飢饉が知られている。ヘーンヒェンによれば、パレスチナでは46-48年にかけて飢饉が生じた

<ああ、ルカの言った意味はそういう事か、必ずしも誇張ではなかった>

シュテーリンは、47年の不作に加えて翌年の安息年が拍車をかけたのではないかという説を唱えている。

使徒ヤコブの死が40年で、アグリッパスⅠ世の死が44年であれば、ルカの記述順は順番通りではないことになる。だが、ルカは飢饉の預言に続いてアグリッパスⅠ世の迫害を『その頃』と記しており、この辺りは不明瞭である。

だが、ヘーンヒェンに従えば、使徒ヤコブの死、ペテロへの捕縛と捜索、アガボスの預言、アグリッパスⅠ世の急死、その後二年ほどしてからの飢饉というように時系列は整うことにはなる。

 

 

長老;第一回伝道旅行に於いて、早くも長老を町のエクレシア毎に任命している。職制としての長老がこの時点で整えられたとは考えづらいとされるが、ユダヤ文化に於ける年長者との兼ね合いも見る必要がある。

<この場面では、ピシディア方面でのユダヤ人の強い反対を考慮すれば、それぞれの集まりで重きを成す人々を定めておくことの必要性があったのでは>

 

アンティオケイアのルキオス;西方写本Dでは11:28でアガボスが下ってきた場面でルカがそこに居たことになり、そこからキレネイカのルキオスとはルカ本人ではないかとする説がある。<それはないと思う、おそらく自分と同名の人物を区別したのではないか>

 

マナエン;『領主ヘロデの乳兄弟(シュントロフォス)』このヘロデはアンティパス(バプテストの処刑者)で兄のアルケラオスと共にローマで養育された。そこにマナエンが居たかも知れない。まだ一介の平民に過ぎなかったアンティパスであったが、ヨセフスによればそのアンティパスが幼少であったときにマナエンという名の者が彼の尻をたたいて「あなたはやがて王となり、また。その王国を立派に統治するでしょう」と預言したと書いている。更に、この人はエッセネ派の有徳な人で予知能力を神から与えられていたとも書いた。

但し、この人物がアンティオケアに現れたマナエンと同一かは分からない。アルケラオスは悪政のためにAD6に王座を追われている。アンティパスはその後にテトラルキアに信じられているので、ルカの記したマナエンがヨセフスの言う人物である可能性はありえる。<アンティオケイアのエクレシアに居た時期にはもう60歳くらいになっていたのではないか?従ってイエスのナザレ定住はこの人物のローマ在住以前になる>

 

スケワ;エフェソスに来ていた巡回除霊者たちの父で、ルカは祭司長と記すが祭司長にその人物は見当たらない。そこで西方写本(D)は祭司としている。

使徒言行録は魔術に関わる記述を四回記すが、それはこの件が消極的に扱われていないばかりか、強烈な争いと使徒らの勝利を記す。

 

パウロを制止した『議員』;アジア州の諸都市は皇帝崇拝を維持促進させるための代表者を選出していた。まず州全体で一名、それからペルガモン、スミュルナ、エフェソスから各一名で、合計3-4名の議員がいたと推定されている。

識者は(E.Hänchen)このために『議員たち』がパウロを擁護するために説得したことが考えられないとしている。<だが『議員』というのはその議員であったのか?各都市は意思決定のための民会を持っており、富裕な階層は都市施設の建造、帝国の建造物の設置場所の選定などに関わっていたのでは>