Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

第四世紀 ローマ帝国のキリスト教

 

 

ニケーアの裁定を後悔した大帝

コンスタンティヌス大帝の時代、教会内部の争いはニカイア会議で終わらず、ニカイア信条の定式化は反アリウス派の教会関係者の間でも論争の的となった。コンスタンティヌスは寛容を訴えながらも、自分が間違った側に立ってしまったと考え始め、アリウス派を激しく迫害するニカイア派が、実際には教会内部の争いを永続させていると考え始めた。⇒ コンスタンティヌス(大帝となるまで) - Notae ad Quartodecimani

コンスタンティヌスの息子でローマ帝国東部の後継者となったコンスタンティウス2世(位337-361)は、コンスタンティヌス2世、コンスタンス1世との三兄弟で帝国の三分割統治を始めたが、兄弟が争い反乱も多発し、353年に単独統治者となる。アリウス派を偏愛し、ニカイア派の司教たちを追放した。猜疑心が強く少なくない近親者も犠牲になっている。最後はユリアヌス討伐の陣中で病没し、その際にユリアヌスを後継とした。

コンスタンティウス2世を継いだ甥で後継者ユリアヌス(背教者)は、コンスタンティヌスの改宗後、キリスト教を拒絶した唯一の皇帝であり、最後の「異教徒皇帝」ともされる。自らを「ヘレネ」と称し、ヘレニズム宗教の諸形態を支持して宗教的多様性の復活を奨励することで、キリスト教会の分裂と影響力の弱体化を企てた。

ユリアヌス(位361-363)はローマの伝統的な宗教崇拝とユダヤ教を擁護し、さらに様々な非正統派キリスト教宗派や分裂運動に対する寛容を宣言した。ユリアヌスの後継者ヨウィアヌスはキリスト教徒であったが、在位期間はわずか8ヶ月で、コンスタンティノープル市内に入ることはなかった。ヨウィアヌスがコンスタンティノープルへの帰還途中にガス中毒で事故死したため、軍はニカイアで後継の皇帝を選ぶことになった。

 

ウァレンティニアヌス朝

軍は実務経験のある優秀な軍人を後継者にすることを望んだ。こうして白羽の矢が立ったのが当時43歳の将軍ウァレンティニアヌスであった。女系ながらコンスタンティヌス朝の諸皇帝とは血縁関係にあるウァレンティニアヌス大帝が364年にコンスタンティウス2世からユリアヌス、ヨウィアヌスを経て帝位を継承した。東ローマ帝国には、弟のアリウス派のウァレンスを任命した。こうしてウァレンティニアヌス朝が始まり四世紀の後半を占める。

 

379年、ウァレンスの後を継いでテオドシウス1世が即位した頃には、帝国の東半分ではアリウス派が広く信仰されていた一方、西半分では依然としてニカイア派が堅固な信仰を維持していた。ヒスパニア生まれのテオドシウス自身もニカイア派キリスト教徒であり、非常に敬虔であった。8月、西ローマ帝国のグラティアヌス帝は西ローマ帝国における異端者迫害を推進した。

 

グラティアヌス;359年4月18日 - 383年8月25日)は、西ローマ帝国の皇帝で、367年から383年まで在位した。ウァレンティニアヌス1世の長男であるグラティアヌスは、幼少時にアウグストゥスの位に上げられ、375年の父の死後西ローマ帝国を継承した。グラティアヌスは、幼い異母兄弟であるウァレンティニアヌス2世と名目上は共同で政治を行い、ウァレンティニアヌス大帝の死後、異母弟ウァレンティニアヌス2世もパンノニア皇帝として奉じられた。ウァレンティニアヌス2世の宮廷はメディオラヌムに置かれたが、実際の政治は幼いウァレンティニアヌス2世に代わって母ユスティナやメロバウデス、バウト、リコメルといったフランク人の老臣たちが行った。

東ローマ帝国は叔父のウァレンスが統治したが、378年のハドリアノポリスの戦いの後にグラティアヌスの要請によりテオドシウス1世が継承した。熱狂的なアリウス派の信徒であるウァレンスがこのような不名誉な死を遂げたことが伝わると、弾圧されていたアタナシウス派(三位一体派)は歓喜したといわれる。


グラティアヌスはその後ライン川を渡る作戦を率いてレンティエンス族を攻撃し、部族を降伏させた。同378年、東ローマ皇帝ウァレンスがアドリアノープルの戦いでゴート族と戦って戦死したため、グラティアヌスは379年にテオドシウスを後継者に据えた。グラティアヌスは伝統的なローマの宗教よりもニカイア・キリスト教を支持し、三皇帝共同の名で380年のテッサロニキ勅令を発布して最高神父の職を拒否し、ローマ元老院のキュリア・ユリアから勝利の祭壇を撤去した。ローマ領ガリアのイゼール川沿いの都市クラロは彼にちなんでグラティアノポリスと改名され、これが後にグルノーブルへと発展した。383年、簒奪者マグヌス・マクシムスの反乱に直面したグラティアヌスは、ルテティア(パリ)に向けて軍を進めた。彼は敗走してルグドゥヌムに逃亡したが、後に殺害された。
グラティアヌスは369年にゲルマニクス・マクシムスとアラマンニクス・マクシムス、フランキクス・マクシムスとゴティクス・マクシムス の勝利の称号を与えられた。

 

グラティアヌス帝からマルキアヌス帝までの皇帝は、自らを「名誉ある神官」を意味するポンティフェクス・インクリュトゥス(pontifex inclytus )と称した。ローマの司教が最高神官(pontifex maximus)の称号を採用したのはルネサンスになってからである。

 

マグヌス・マキシマス

グラティアヌスからの皇位簒奪者マグヌス・マキシマス388年8月28日没)は、383年から388年まで五年間、西ローマ皇帝であった。

グラティアヌスからの皇位簒奪者マグヌス・マキシマス388年8月28日没)は、383年から388年まで西ローマ皇帝であった。西ローマ皇帝グラティアヌスは、多くのアラン人を護衛として迎え入れ、ローマ市民を犠牲にしてこれらのイラン語を話す外国人を優遇したとして非難された。383年、不満を抱いたローマ軍はグラティアヌスに代わりマクシムスを皇帝に宣言した。彼はグラティアヌス帝から帝位を簒奪し、後にはグラティアヌスの弟ウァレンティアヌスⅡ世に対して387年にイタリアへ侵攻し388年にテオドシウスⅠ世に敗北した。

マキシムスは帝国樹立の野望を追求するため、ブリトン軍の大半を率いてガリアへ向かった。 パリ近郊で5日間の小競り合いの後、マキシムスはグラティアヌスを破ったが、グラティアヌスは戦場から逃走し、 383年8月25日にリヨンで戦死した。マクシムスによってグラティアヌスが殺害されると、グラティアヌスによって帝国東方へ派遣されていたフランク人の将軍バウトが東帝テオドシウス1世の軍団を率いてイタリアへと引き返し、マキシムスと対陣した。

イタリアへの遠征を続けていたマキシムスは、わずか12歳のウァレンティニアヌス2世の打倒を阻止しようとしたが、強力な軍勢を率いるバウトが彼を阻止しようと現れた。384年にはミラノ司教アンブロシウスの介入を含む交渉が行われ、ウァレンティニアヌス2世とテオドシウス1世との間で和平が成立し、同時にマキシムスは西ローマ帝国におけるアウグストゥスとして認められた。
マクシムスはガリアのアウグスタ・トレヴェロルム(トレヴェス、トリーア)を首都とし、ブリタニアガリア、スペイン、アフリカを統治した。彼は貨幣を発行し、ガリアの属州制度を再編する数々の勅令を発布した。
マクシムスは異端者を厳しく迫害した。プリスキリアヌスと6人の仲間が異端の罪で処刑されたのは彼の命令によるものであったが、マクシムスが実際に告発したのは魔術の使用に関するものであった。聖アンブロシウスやトゥールの聖マルティヌスといった著名な聖職者たちは、世俗権力が教義問題に介入することに抗議したが、処刑は執行された。
452年のガリ年代記は、プリスキリアヌス主義者を「マニ教徒」と表現している。これはディオクレティアヌス帝の治世下で既にローマ法で非難されていたグノーシス主義の異端であり、マグヌス・マクシムスが彼らを「最大限の熱意をもって捕らえ、根絶した」と記している
マクシムスは、おそらく384年の春から387年の夏の間に書かれた、ウァレンティニアヌス2世に宛てた脅迫状の中で、アンブロシウスとニカイア信条の信奉者に対するウァレンティニアヌスの行動について不満を述べ、次のように書いている。「尊敬すべきあなたの平静さは、神自身が確立し、人々の心に一度根付いた宗教が、根こそぎにされることがあるとお考えなのでしょうか?」これは「カトリック法の混乱と激動」に対する反応である。
逆に、ローマのキリスト教徒がユダヤ教の会堂を焼き払ったことを非難したマクシムスの387/388年の勅令は、人々が「皇帝がユダヤ人になった」と叫んだとアンブロシウス司教によって非難された。

 

383年頃、マクシムスはブリタンニアのローマ軍団によって皇帝として宣言された。皇帝となったマクシムスは息子フラウィウス・ウィクトル(英語版)を共同皇帝とし、ブリタンニアの軍団を引き連れてガリアへ侵攻すると、ルグドゥヌムにて西帝グラティアヌスを捕らえて処刑した

西ローマ皇帝グラティアヌスは、多くのアラン人を護衛として迎え入れ、ローマ市民を退けてこれらのイラン語を話す外国人を優遇したとして非難された。383年、不満を抱いたローマ軍はグラティアヌスに代わりマクシムスを皇帝に宣言した。しかしゾシムスは、マクシムスがテオドシウスが皇帝になったのに自身が昇進しなかったことに憤慨し、グラティアヌスに対する反乱を扇動したと描いている。

彼はグラティアヌス帝から帝位を簒奪し、グラティアヌスの弟ウァレンティアヌスⅡ世に対して387年にイタリアへ侵攻し388年にテオドシウスⅠ世に敗北した。

 

マキシムスは帝国樹立の野望を追求するため、ブリトン軍の大半を率いてガリアへ向かった。 パリ近郊で5日間の小競り合いの後、マキシムスはグラティアヌスを破ったが、グラティアヌスは戦場から逃走し、 383年8月25日にリヨンで戦死した。

しかし大テオドシウスの子であるテオドシウス1世にはマクシムスと争う意思がなかったようで、テオドシウスはミラノ司教アンブロシウスを調停役としてマクシムスと和議を結んだ。さらに翌384年にはテオドシウス自らイタリアへと赴き、マクシムスを共同皇帝と認めるようグラティアヌスの異母弟ウァレンティニアヌス2世を説得した

 

384年にはミラノ司教アンブロシウスの介入を含む交渉が行われ、ウァレンティニアヌス2世とテオドシウス1世との間で和平が成立し、マキシムスは西ローマ帝国におけるアウグストゥスとして認められた。
マクシムスはガリアのアウグスタ・トレヴェロルム(トレヴェス、トリーア)を首都とし、ブリタニアガリア、スペイン、アフリカを統治した。彼は貨幣を発行し、ガリアの属州制度を再編する数々の勅令を発布した。


マクシムスは異端者を厳しく迫害した。プリスキリアヌスと6人の仲間が異端の罪で処刑されたのは彼の命令によるものであったが、マクシムスが実際に告発したのは魔術の使用に関するものであった。聖アンブロシウスやトゥールの聖マルティヌスといった著名な聖職者たちは、世俗権力が教義問題に介入することに抗議したが、処刑は執行された。
452年のガリ年代記は、プリスキリアヌス主義者を「マニ教徒」と表現している。これはディオクレティアヌス帝の治世下で既にローマ法で非難されていたグノーシス主義の異端であり、マグヌス・マクシムスが彼らを「最大限の熱意をもって捕らえ、根絶した」と記している
マクシムスは、おそらく384年の春から387年の夏の間に書かれた、ウァレンティニアヌス2世に宛てた脅迫状の中で、アンブロシウスとニカイア信条の信奉者に対するウァレンティニアヌスの行動について不満を述べ、次のように書いている。「尊敬すべきあなたの平静さは、神自身が確立し、人々の心に一度根付いた宗教が、根こそぎにされることがあるとお考えなのでしょうか?」これは「カトリック法の混乱と激動」に対する反応である。」
逆に、ローマのキリスト教徒がユダヤ教の会堂を焼き払ったことを非難したマクシムスの387/388年の勅令は、人々が「皇帝がユダヤ人になった」と叫んだとアンブロシウス司教によって非難された。

 

 

テッサロニキ勅令

380年2月27日、グラティアヌス帝、ウァレンティニアヌス2世、テオドシウス帝はテッサロニキ勅令を発布した。この勅令により、ニカイア・キリスト教キリスト教の唯一の合法形態とされ、他のすべての宗派は非合法とされた。 これにより、ユリアヌス帝の死後、広く信じられていた宗教的寛容の時代が終焉を迎えた。

テサロニケ勅令(ギリシア語:Διάταγμα της Θεσσαλονίκης)は、380年2月27日にテオドシウス1世によって発布され、ニカイア・キリスト教ローマ帝国の国教会とした。この勅令は、アリウス派などの他のキリスト教の信条を「愚かな狂人」の異端として非難し、それらを処罰することを認可した。

テオドシウス帝がコンスタンティノープルを帝都とするために住民を鎮圧しようとしたこの勅令は、その前文においてキリスト教徒であるローマ皇帝が宗教的正統性として何を認めるかを明確に定義した、世界初の世俗法として知られ、異端者とみなされる反体制派に対する弾圧の道を開きました。テッサロニキ勅令は後にテオドシウス法典第16巻に組み込まれ、ローマ帝国の公式キリスト教化における画期的な出来事となりました。

 

 

クィントゥス・アウレリウス・シンマクス

345ca-402 (クィントゥス・アウレリウス・シュムマクス・シグノ・エウセビウス)
ローマの政治家、弁論家、文人であった。373年には執政官アフリカの総督、384年と385年にはローマの都市長官、391年には執政官を歴任した。シュムマクスは、貴族がキリスト教に改宗していた時代にローマの伝統的な宗教を保存しようと努め、フォルム・ロマヌムにあったローマ元老院の主要会合場所であるクリアから勝利の祭壇を撤去せよというグラティアヌス帝の命令に抗議する代表団を率いたが、失敗に終わった。 2年後、彼はグラティアヌスの後継者ウァレンティニアヌス2世に有名な嘆願書を出したが、ミラノ司教アンブロシウスによって反駁された。

 

クリア・ユリア
クリアとは「集会所」
フォルム・ロマヌムに建てられた元老院議事堂の3代目の建物である。共和政ローマ時代の末、ガイウス・ユリウス・カエサルがスッラが建てた先代の議事堂クリア・コルネリアを取り壊し、フォルム北西部のコミティウムに、議員の待合室や記録保管庫と共に、向きを変えて建て直したもので、アウグストゥスが完成させ、紀元前29年8月28日、タレントゥムからウィクトーリア像を移して奉献した。
後81年から96年に掛けて第11代皇帝ドミティアヌスにより改築され、283年の火災の後、284年から305年に第51代皇帝ディオクレティアヌスにより改築されている。

キュリア・ユリアの内部における2つの大きな特徴は、勝利の祭壇と印象的な床である。
ユリアにある勝利の祭壇は、元老院の役割が縮小したにもかかわらず、ローマ軍の永続的な優位性を証明している。

ホールの奥には「勝利の祭壇」があり、テオドシウス当時のキリスト教詩人プルデンティウスによれば勝利の擬人化であるヴィクトリア像が地球儀の上に立ち、花輪を差し出していた。この祭壇は、ローマの軍事的武勇、特に紀元前31年のアクティウムの海戦におけるアウグストゥス自身の勝利を祝うために、教皇庁に設置されました。この祭壇は、キリスト教の台頭後、古代ローマの異教の伝統に対する一般的な反発の一環として、西暦384年に撤去された。

ブルディンティウスの*Libri contra Symmachum(「シンマクスを駁す書」)は、異教徒の元老 院議員シンマクスが、グラティアヌスによって撤去された勝利の祭壇を元老院議事堂に戻すよう要求したことに反対している。

 

387年、マクシムスはウァレンティニアヌス2世をミラノから追い出すことに成功した。ウァレンティニアヌスはテオドシウス1世のもとへ逃亡し、二人は東から侵攻した。リコメレスら将軍率いる軍勢は、388年7月から8月にかけてマクシムスと戦った。マクシムスはポエトヴィオの戦いで敗北し 、アクイレイアへ撤退した。一方、マルコメルス率いるフランク族は、この機会を捉えて北ガリアに侵攻し、マクシムスの立場をさらに弱体化させた。

マクシムスの騎士長であり、グラティアヌス帝を暗殺したアンドラガティウスはシシア近郊で敗れ、マクシムスの弟マルケリヌスはポエトヴィオで戦死した。

 

387年、マクシムスはウァレンティニアヌス2世をミラノから追い出すことに成功した。マクシムスはテオドシウス1世とウァレンティニアヌス2世からブリタンニアガリア、ヒスパニア、アフリカの統治権を認められたが、それに飽き足らず、387年に突如としてウァレンティニアヌス2世をイタリアから追放して強引にイタリアをも支配下に置いた。ウァレンティニアヌス2世はテッサロニキのテオドシウス1世のもとへと逃亡し、当時15歳前後であった妹のガッラをテオドシウスに差し出すことでテオドシウスにマクシムスと戦うことを約束させた。二人は東から侵攻した。リコメレスら将軍率いる軍勢は、388年7月から8月にかけてマクシムスと戦った。マクシムスはポエトヴィオの戦いで敗北し 、アクイレイアへ撤退した。一方、マルコメルス率いるフランク族は、この機会を捉えて北ガリアに侵攻し、マクシムスの立場をさらに弱体化させた。

マクシムスの騎士長であり、グラティアヌス帝を暗殺したアンドラガティウスはシシア近郊で敗れ、マクシムスの弟マルケリヌスはポエトヴィオで戦死した。
テオドシウスがリコメルやアルボガストらを率いて侵攻してくると、マクシムスはテオドシウスをパンノニアで迎え撃ったが立て続けに敗れてアクイレイアへと逃亡し、マクシムスの騎士長であり、グラティアヌス帝を暗殺したアンドラガティウスはシシア近郊で敗れ、マクシムスの弟マルケリヌスはポエトヴィオで戦死した。間もなく捕らえられて388年8月28日に処刑された。

マクシムスの処刑後、元老院ではマクシムスに対するダムナティオ・メモリアエが決議された。マクシムスが妻を持っていたことはトゥールのマルティヌスの記録により確実視されているが、彼女の名前や、彼女がどうなったのかは不明である。テオドシウスはマクシムスの軍を破り、事実上、帝国の統一支配権を再建した。

 

388年ウァレンティニアヌス2世が復帰した後もテオドシウスは西ローマ帝国の首都メディオラヌムに留まった。ウァレンティニアヌス2世の住処はヴィエンヌへと移され、西ローマ帝国の高官はテオドシウスの腹心へと次々に入れ替えられていった。ウァレンティニアヌスの名で発行されたコインの裏面にはテオドシウスの肖像が描かれ、誰が帝国の真の支配者であるかを仄めかした。テオドシウスは彼の忠臣であるフランク人の将軍アルボガストを軍司令官に任じて西ローマ帝国を任せ、391年に東ローマ帝国へと帰国した。

ウァレンティニアヌス2世は成長するにつれ自身がテオドシウスの傀儡であることに不満を持つようになった。アルボガストはテオドシウス個人に対してのみ忠誠を誓っており、ウァレンティニアヌスに対しては主人のように振る舞った。ウァレンティニアヌスがアルボガストを降格しようとすると、アルボガストは「私を任命したのは、あなたではない」としてこれを退けた。ウァレンティニアヌス2世はテオドシウスに苦情を申し立て、テオドシウスはアンブロジウスを調停に向かわせたが、392年5月15日にヴィエンヌの住いの梁にぶら下がっているウァレンティニアヌス2世の姿が発見された。自殺か他殺かについては意見が分かれている。

 

 

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アムブロジウス人物補足メモ - Notae ad Quartodecimani