Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

諸教会での聖徒理解

 

新教と旧教での聖徒とは

改革派教会以降のプロテスタント正教会東方諸教会カトリック教会などにある聖人崇敬を否定し、すべてのクリスチャンが聖徒であるとする。

また地上にいるキリスト者についても用いられる語であり、天に召されたキリスト者に限定して使う語ではない。

カトリックプロテスタントなどの西方教会信仰告白に用いられる使徒信条の中に「聖徒の交わり」という言葉が出てくる。これをかつて第2バチカン公会議以前のカトリック教会ではプロテスタントと異なる神学や聖人崇敬を反映して「聖徒」を聖人の意味に捉えて「諸聖人の通功」と訳していたが、現在はカトリック教会のカテキズム』などの要理書等も含めてすべて「聖徒の交わり」に改められ、聖人だけでなく死者も含めたすべての信徒と解釈している

 

聖徒 - Wikipedia 色文字強調は筆者による

<ルター自身は、自分は聖人ではないと思っていると告白していたとのこと>
旧新共に時代に従って見解を調整してきている
 
聖霊とは何かについて
英語で聖霊(the Holy Spirit)を表す人称代名詞はitではなくheとなります
エスを信じるようになるためには、神の望んでいないことをしてしまった(神に対して罪を犯した)が故に、神との絆が切れてしまっていることに気付く必要があります。この「気付き」を与えてくれるのが聖霊でもあります(参考:ヨハネ福音書16章8-9
 

「イエスに似たもの」となるというのは、見た目がイエスのようになるという訳ではもちろんありません。見た目ではなく内面的な性格や性質がイエスに似たものへと変えられていくという意味です。

具体的にいえば、例えば、「御霊(みたま)の実」と呼ばれる「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ人への手紙5章22-23節)といった性質・性格をもったものへと変えられていくことを意味します。

 

一つの聖霊の働きによってエスを信じ回心した人たちは一つのからだになる
と言っていることになります。

聖霊によって、イエスを信じる人たちが結び合わされ、一つの共同体(教会)が出来るという訳です。

事実、最初期(イエスが死んで復活した直後)のクリスチャンたちに聖霊が下って、彼らが一つの共同体を築いていた様子が聖書には記されています(使徒2章44-47節)。

ここで注目すべきは、「ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も」関係なく、イエスを信じる人たちが一つの共同体を築き上げたこと。

これは当時の文化を考えるとまずあり得ないこと。特に、ユダヤ人たちは自分たちの民族以外を宗教的に汚れた存在とみなしていましたので、一緒に食事をすることはもちろん、一つの共同体を作ることは到底考えられないことでした。

しかし、ユダヤ人と非ユダヤ人を隔てていた「敵意」をイエス・キリストが十字架によって滅ぼし (エフェソス2章15-16節)、両者の間には「御霊による一致」がもたらされたと聖書は語ります(エフェソス2章18-22節;4章3-4節)

聖霊の働きによって、本来であれば到底相容れない存在であった人々が結び合わされ、一つの共同体を築き上げることができるのです。

 

<無酵母パンによるコイノニアを「教会」としか捉えないので、契約の観点から『霊の一致』や『同じ体』とは理解はしない>

 

以下、聖徒という者への適用の一種として・・

聖徒の永遠堅持

真のキリスト者であるが、一時的に信仰から後退していた者をあらわす信仰後退者の教理がある。信仰後退者が主に立ち返った例として、ヒュー・レッドウッド著『貧民窟における神』、パーシー・ラッシュ著『炎の中からの燃えさし』などがあげられる。

改革派神学では、外見的にクリスチャンのように見え、地上の教会に所属したことがありながら堕落した者は、最初から一般恩寵しか受けておらず、救済的な特別恩寵を受けていなかったとされる。

聖徒の永遠堅持(えいえんけんじ、Perseverance of the saints)、とは神に選ばれ、召された選民の救いが永遠に失われずに、一時的に信仰が後退し、弱められても、回復の恵みを与えられるという教理。

これはドルト信仰基準が明らかにしたカルヴァン主義の5特質(TULIP)の一つである。聖徒の堅忍、聖徒の最終的堅持、究極救済の恩恵とも言われる。

堅持の根拠とされる聖句は、ヨハネ10:28-29、ローマ11:29、フィリピ1:16、テモテ二1:12

「聖徒の永遠堅持」は旧新約聖書の全体に啓示され、宗教改革で明らかにされた教理であり、カベナンター(契約主義)やピューリタン(予定説によって強固に教会改革を唱える)が殉教していったことがこれによって説明できると言われる。

 

ヘブライ6:4-5、10:26,29、ペトロ二2:20-22の聖句から、アルミニウス主義では一度救われた者も脱落する可能性があると考える。しかし、改革派でこの聖句は、非救済的恩寵で最高のものとみなされている。「一度光を受けて天からの賜物の味を知り」ながら、脱落してしまった者は、救いに選ばれておらず、新生していなかったと考えられる。外見上は一時的にクリスチャンのように見えたが、実際は新生していなかった人のことをピューリタンは「一時的信者」、「偽信仰告白者」と呼んだ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%92%E3%81%AE%E6%B0%B8%E9%81%A0%E5%A0%85%E6%8C%81

 
聖徒の堅忍について
1 神がその愛するみ子において受け入れ、みたまによって有効に召命され、きよめられた人々には、恵みの状態から全的にも最後的にも堕落することはあり得ない。かえってその状態に終りまで確実に堅忍し、そして永遠に救われる。
 フィリピ1:6、Ⅱペテロ1:10、ヨハネ10:28,29、Ⅰヨハネ3:9、Ⅰペテロ1:5,9


2 聖徒のこの堅忍が依拠するのは、彼ら自身の自由意志にではなくて、父なる神の自由・不変の愛から出る選びの聖定の不変性、イエス・キリストのいさおしと執成しの効力、みたまと神の種が彼らのうちに宿ること、および恵みの契約の性質にである。これらすべてから堅忍の確実性と無謬性も生じる。

 1 Ⅱテモテ2:18,19、エレミヤ31:3
 2 ヘブライ10:10,14、ヘブライ13:20,21、ヘブライ9:12-15、ローマ8:33-39
    ヨハネ17:11,24、ルカ22:32、ヘブライ7:25
 3 ヨハネ14:16,17、Ⅰヨハネ2:27、Ⅰヨハネ3:9
 4 エレミヤ32:40
 5 ヨハネ10:28、Ⅱテサロニケ3:3、Ⅰヨハネ2:19


3 それにもかかわらず、彼らは、サタンとこの世の誘惑、自分のうちに残っている腐敗の優勢さ、また自分を保持する手段を怠ることによって、ひどい罪に陥り(1)、しばらくの間そのうちにとどまることがある(2)。このため彼らは、神の不興をひきおこし(3)、神の聖霊を悲しませ(4)、自分の受けている恵みや慰めをある程度奪われるようになり(5)、心をかたくなにし(6)、良心を傷つけ(7)、他の人々をつまずかせ(8)、また自分に一時的審判をもたらす(9)。

  1 マタイ26:70,72,74
  2 詩51編(表題)(51:1,2)、14節(51:16)
  3 イザヤ64:5,7,9(4,6,8)、サムエル下11:27
  4 エペソ4:30
  5 詩51:8,10,12(10,12,14)、黙示2:4、雅5:2-4,6
  6 イザヤ63:17、マルコ6:52、マルコ16:14
  7 詩32:3,4、詩51:8(10)
  8 サムエル下12:14
  9 詩89:31,32(32,33)、Ⅰコリント11:32
 
<個人の犯す「罪」と『アダムの罪』が区別されない。それは聖徒を信者すべてと見做すところから来るもので、一度聖化された者が再び陥る『罪』の性質が信者とも一般人とも異なるところが無視されている>
 
後果;
教会の指導者や信者は「クリスチャンに種類があるという考えは聖書的でない」などと云っているが、それは聖書を熟読していないからこその無知であり、その程度の知識で「聖書的」かどうかを判断してよいものか? 後に真相を知らされるとしても、高慢であれば今更受け入れないのであろう。神との契約を辿ってゆくなら「神のイスラエル」という実体を捉えられるに違いない。
聖霊注がれた者だけが、誰も論駁できない言葉を支配層の前で大胆に語る姿が共観福音書に在ることを実体験として見聞きするとき、カインのような嫉妬心を懐くなら、その先にあるのはアベル殺害ということになり、その迫害によって聖徒らは忠節さを示してレヴィの浄めに預かることになろう。
彼ら教会関係者にとって重要なのは、自分たちがご利益に浴することであって、その動機で迫害の渦中にある聖徒を卑しめることであろう。そこにはこの世との妥協や一蓮托生の関係がある。根底にあるのは利己心であり、そこに裁きの要諦があろう。
しかし、最終的には朋友であったはずの世の権力によって不意打ちされ命運は尽きる。旧来の宗教はそこで一気に終わって、権力の圧力から人から尊重されることは無くなる。恰も水面から消えるように二度と浮かび上がらず、見出されることがない。
これが『聖なる者の血に酔った大娼婦』の末路であり、キリストに示されるべきであった忠節を捨て、この世の権力に淫売した後果である。
聖徒という『主たる立場を認めず』、まして愚弄するとは『聖霊に対する罪を犯す』ことであり、直ちに神への敵意から離れなくては世に先立つ滅びを被る。
但し、世への売淫を行って聖徒を屠らせるのは宗教組織であって個人ではないとすれば、信者の各個人は大患難に遭遇するまで存えるとも考えられ、その場合には、カイヤファにイエスが『人の子が雲に乗って来るのを見るであろう』と言われた時が生じるとも捉えられる。
 
 
ヘブライ12:2 「キリストから目をそらさないように」を自分たちに適用するため却ってそれが何を意味するのかが分からない。