Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

誤解されやすい聖句

 

・Jh11:25『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる』

これは「契約の子ら」であるユダヤ人に語られているのであり、その意味は同じくJh5:25-29にあるように、『新しい契約』に属することになる『聖なる者』について語っている。

その証拠に、『わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせる』ともキリストは言っている。Jh6:39

キリストに与えられた者とは『新しい契約』に入る聖徒を指している。Jh17:12

これを単純に「信者は死んでも生きる」また、「死んでも天に復活する」として信者集めに利用される。これは死の恐れを利用した指導者の手管に過ぎず、信じる側もキリストの言葉の奥深さを自分に都合よく上辺で判断し、しかもご利益として頑なに守ろうとする。これは蒙昧に蒙昧を重ねることで、『わたしの語った言葉が終わりの日にその人を裁く』という、その裁きに面する貪欲ではないか。Jh12:48

 

・1Joh5:10『神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。』

この句を根拠にクリスチャンが一般的不信者に優越感を懐くべきではない。ここで言う『神を信じない者』とは神の証しを見てなおそれを否定する者のことであり、キリストではユダヤ体制派でイエスに反対して刑死に追い込んだ宗教家らが相当し、終末の裁きに於いては聖霊によって語る聖徒らの証しを受け入れず、やはり捕縛に追いやる者またそれを肯定する者らについて当てはまる。それは神の証しを無視し、その意向に敢えて逆らう行いとなるのであって、多くのクリスチャンに既にその傾向が見えているように、独善を改めず自分の正しさに固執し、神の証しが予想外の内容であるときにそれに反対するなら、古代のユダヤ教徒らと同じ裁きに直面することになろう。

 

・Rom14:7-9『私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです』

この句が一般の信者に当てはまると考えるのは間違っている。確かにパウロはコリント第一書の15:22で『アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされる』とは述べている。

しかし、このローマ14章の句での『わたしたち』というのは『主のために生きる』者を指しており、ガラテア書2:20で『わたしは、キリストと共に十字架につけられている。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる』と述べるように、これはキリストの受難を共にする『キリストの共同相続人』Rom8:17である聖霊注がれた『聖徒』に当たる。即ちキリストの『兄弟ら』であり(ヘブライ2:10)、『霊に導かれる神の子』Rom8:14 の地位にある「真実の神の選民イスラエル」に属する者を指している。彼らはキリストに対して『自らの磔刑の木を荷って続く』ため『魂を生きながらえさせようとすれはそれを失う』Mt10:38-39

従って、上記の句の『主のために死ぬ』とは殉教を指しているので『キリストと共に死んだのであれば、やはり共に生きることになる』Rom6:8 のである。彼らは肉体を『幕屋』2Pet1:14 としていずれは霊の体を得てキリストの御傍に集められる特定の者らであり(Rev7:1-4)、キリストを『隅の親石』として天界の神殿を構成し、地上の人々の贖罪を行う『アブラハムの裔』である。(Gen22:18)

それゆえ、彼らはイサクが捧げられたに等しかったようにキリストに続いて犠牲の死が求められるのであり、その観点からフィリピ1:21以降の『いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられること』を願うパウロの言葉も理解される必要がある。

 

・Act 4:19『神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい』

使徒らにはキリストの霊や天使らを通して『キリストの名によって語る』よう命じられていたので、ユダヤ教の指導体制には従わずにいたことの根拠を上記のように端的な言葉で示している。

しかし、同時に、この言葉は自己義認に溺れ、絶対的正当性を妄想する信仰の徒党によって、どのようにでも自分たちの行動を正当化するために用いることができるという罠がある。

自分たちへの「啓示」なり、聖書に基くつもりの人間の解釈に神の命令を形作らせるのは感情的になっている人間にとって容易いことである。彼らは神と人の区別をどこで付けるべきかについては驚くほど無頓着になっている。つまり、聖書に書かれた事柄に忠実であれば神の命令を守っていることになるとの単純で害ある思い込みが本人にも痛ましい結果を招くであろう。その人たちに聖霊や天使が語っているのだろうか。それは茶番の「扮装劇」ではないのか。

 

・Rm2:6-8『神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。
すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。』

これは聖徒について述べられており、Joh5:28-29の神自身ではなくキリストが呼び出し裁く者らについて言われるのと同様である。またペテロも『愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。』というのは『愛する者たち』(アバペトイ)また『兄弟全体』(アデルフォテーティ)である聖霊ある聖徒を表している。1Pet5:9/2Pet3:14 <2Petに「兄弟全体」は無い> 

 

・Rm6:13-14『自分を死人の中から生き[返っ]たものとして神に差し出し,また自分の肢体を義の武器として神に[差し出し]なさい。 律法のもとにではなく過分のご親切のもとにある以上,罪があなた方の主人となってはならないからです。』

死人の中から生き[返っ]たもの」というのは水のバプテスマを意味するのではなく、「キリストと共に死んで、共に復活を通して生きる」聖なる者らのことを指している。

 

・Prv3:5-7『心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。』

これは律法に従うべきことを教えるものであり、シナイ契約がイスラエルに生まれながらの条項順守義務を負わせていたことに由来する旧約の教えであり、キリスト教の自由な個人の信仰による愛の選択とは方向性が180度異なっている。

そのため自己判断を捨てるよう促していると捉えると、洗脳を目論むキリスト教教師らに利用され兼ねない。

 

・ローマ5:10『敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させて頂いたのであれば、和解させて頂いた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。』

和解したというのは『新しい契約』に含まれ、祭司職に選ばれたことを意味するのであって、『レヴィの子らを清める』キリストの聖徒への裁きはその人の生涯の終わりか、終末に行われることになるのであって、キリストの命に在って救われるかどうかの確定には至っていない。それゆえ彼らはキリストの『木を担って』、『上なる賞を目指し』競技者のように努める必要がある。しかし、パウロはここでその希望を与えられた聖徒の恵まれた救いの希望があることを述べている。

 

・1Cor12:3『神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。』

続く節は『霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。』として、イエスを呪わず、主(メシア)と認める発言をするのが奇跡の霊によるものであることを指している。

 

 ・Mr1:15/Lk18:17 『幼児のように神の王国を受け入れる者でなければ、けっしてそれに入れない』

理性的把握なく、盲信のように信じることを奨励しているかのように読める。しかも、大半の教会の教えでは『神の王国(バイレイア)』ではなく「天国(パラディウム)」に置き換えられ、死者が行く場所とされて「支配」の要素を失い、ますます本旨から離れてしまっている。結果として、キリスト教を大衆化させ、幼稚な教理を持つだけのものとしてしまい、パウロらの言葉の大半を無意味にしている。

 

・ Jh17:3 ”This means everlasting life, their taiking in knowledge of you, the only true God, and of one whom you sent forth, Jesus Christ. ” NWT1984

『彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています。』新世界訳(旧)

”And this is eternal life, that they may know You, the only true God, and Jesus Christ whom You have sent.” NKJV

問題は"may know"はまだ原語[  γινωσκωσιν ]の許容範囲にはなるようだが、『知識を取り入れること』これは重訳の標本的危険。

ものみの塔が家庭で聖書を教える習慣があるために、日本語への訳者の暴走が見える。ギノースコーは「知る」という動詞であって、「取入れる」と挿入したときに「知る」ことそのものよりも、知る「過程の行為」、つまり「悟る」ことではなく「研究する」ことのように誤解を与えている。

この箇所の意味は、キリストが神から遣わされたと「知る」または「理解を得る」それが永遠の命である、というところにあり、キリストとユダヤ教の神YHWHとの関係性を悟って把握することを主旨としているのであって、聖書研究をして知識を得ると永遠の命に至るかのように錯覚を誘っている。

『永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。』新共同訳

この簡便な「知る」という訳語の方が、本来の意味を伝えている。

 

 

・Rm9:11 

もし、イエスを死人の中から生き返らせた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中から生き返らせた方は、あなたがたの内に宿っている霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも、生かしてくださるであろう。

11.ει δε το πνευμα του εγειραντος τον Ιησουν εκ νεκρων οικει εν υμιν, ο εγειρας Χριστον εκ νεκρων ζωοποιησει και τα θνητα σωματα υμων δια του ενοικουντος αυτου πνευματος εν υμιν.

浅い理解のままであれば聖霊の内住を証拠立てるかのように読め、天国行きを請合っているかのように教えられるが、この前の9節にはエクレシア内に霊を持たない者がいることを示唆している。そこで水のバプテスマを受けただけでは救われないなどと吹聴されている。だが、その意義は何かと問われるなら、「信仰」を根拠とした利己主義に行き着くだけのことになる。

 

・1Pet3:19 「こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」。【口語】

「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」【新共同】

亡くなった者たちが眠りについているところでも、死と罪に対する勝利が響き渡った、死と罪に対する勝利が真理として打ち立てられたということです。生きている者がいるこの世に響き渡って打ち立てられたのと全く同様に、死んだ者の世界でも響き渡って打ち立てられたということです。

(ルーテル・スオミ教会Webから)

この『囚われた霊ども』と訳す口語はある程度、それが悪霊であることを認識できているが、多くの教会員によって死者のところにキリストが下って福音が伝えられたと勘違いされている。しかし、これはキリストの義の完成により、悪霊らの有罪がまったく確定したことが伝えられたと判断すべき理由が多い。Jd6にその『囚われた』理由が示されており、これはほとんど異論をはさめない。

「地獄」を信仰していれば、この辺りの理解は非常に難しくなるはず。まず、その前提を取り払って考える必要がある。

⇒ 「地獄とは異なるゲヘナ

 

 

・Ho13:14『死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか』

これは死への勝利を述べているのではなく、神が死や墓の脅威が発揮されることを煽る句であり、文脈はそれを示すうえ、この句の最後『憐れみはわたしの目から消え去る』がまったくの決定打となっている。翻訳によっては誤解を曝しているものもある。

 

・1Jh3:2『しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。』

『キリストが現れたなら』を見える再臨と捉える教会員は少なくないらしいが、この『現れる』は[ἐφανερώ]であり、「明瞭に示す」でもあり、これは必ずしも地の人々が肉眼で見ることに限定されない。しかし、強くそのように誤解させる傾向がある。その原因は、教会員が聖徒の立場を理解せず、『新しい契約』の理解を持たないところから、容易にご利益信仰に向かう願望に曝されるからといえる。不信者との差別意識に浸り幸福を覚える者がどうしてキリストに似た者になり得るか?

 

 

Ams3:7 『主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない』。

これは神が常に必ず行うことを預言させるという保証にはならない。

ここでアモスは北のイスラエル王国の処罰が必ず臨むことを強調しているが、神は人を裁くために、その行いや意図を隠されることもある。

但し、処罰を与えることについてはそうではない。それをアモスは言っている。

 

 

・2Pet2:20

『確かに,主また救い主なるイエス・キリストについての正確な知識*によって世の汚れから逃れた後,再びその同じ事柄に巻き込まれて打ち負かされるなら,・・』【新世界訳】*[ επιγνοσει του κυριω ]    主要な日本語訳は「キリストを知ったこと」と訳す

この句を『真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です』【新共同】と関連付けるには無理がある、後者の句でキリストが言う『真理』とは、神の経綸を指している。(Mt26:54)

 

 

・ダニエル12:4 『多くのものが行き交い、そうして知識が増す』

これを探求を志す人々の努力でダニエルの言葉、または聖書の秘儀全体の理解が解明されてゆくと捉えるのは欽定訳のような翻訳だけ読んでいるとそうなるが、しかし”「終わり​の​時」に「真​の​知識​が​満ちあふれる」と​予告された”わけではない。それでは、ヘブライ語本文、またセプチュアギンタの言葉を読んでいないと批判されても仕方がないし、そのように不当なまま解釈を組み立てるなら、都合に合わせた誤謬の教理が作られ、人間の解釈を正当化する罠に嵌まり兼ねない。⇒ ダニエル12:4 

 

・Jh6:28-29

エスは「私たちは、神のわざ(複数)を行うために、何をすべきでしょうか。」という問いに対してこう答えられました。「あなたがたが、神が遣わされた者を信じること、それが神のわざ(単数)です。」と(ヨハネ福音書6:28~29)。信仰は神の恩寵のわざそのものであり、奇蹟そのものです。

https://fulltopic.livedoor.blog/archives/17421890.html

カペルナウムに船で到着したイエスの一行を追ってきた群衆の一部が言った言葉

『「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。』

この会話だけを取り上げて「信仰とは神からの奇跡だ」、「誰かが信仰を持ったのは神の業が働いたからだ」という一般的教会で教えられるステレオタイプは、この場面をもう少し読むだけで崩れることになる。

エスは、その群衆について『しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない』と36節で糾弾する。

明らかに、彼らは奇跡の給食に味をしめており『主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい』と言っている。

『神の業』については同じ使徒ヨハネがこう語っている。

『神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。
 5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています』。1Jh5:9-10

これはメシアを証しするのが神であり、神がイエスに奇跡を行う力を授けることによって、そこにメシアが居ること、またそこにメシア信仰を持つべきことを語っている。

この観点で、先の場面を観ると、群衆はマナの奇跡のような現世的利益を求めてイエスに近付いており、そのようなものは人を永遠に生かすものとはならないことをイエスは諭している。それが『天からのパン』の意味である。

やはりヨハネは書簡の中でこう続けている。

『 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです』1Jh5:11

この点は、パウロが端的に述べている。

『わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである』Rm6:4

『もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。』Rm6:8-9

そのため永遠の命へと続くパンとはイエスそのものであり、後に復活して永生不滅に入るメシアの命に在って共に生きる者、即ち、『キリストの共同相続人』また「キリストの兄弟」聖霊注がれる『聖なる者』となることによって、アダムの血統を離れ、「女の裔」としての天界での永生に入るべき事を『契約の子ら』であるユダヤ人に告げている。

この理解には、三位一体が有ってはそうしても到達することができない。

そこで上記のような小手先の理屈をつけて有難く感じる事態に陥っているのであろう。だが、誰かが教会の信仰を持ったからそれは本人の業ではなく神の恩寵だとか云うとすれば、神はどれほど『神の象り』である各個人の決定を尊重しているか、なぜ、イエスが自らをメシアであると明言しようとせず、神がエデンでアダムらを監視しなかったかが分からないであろう。

これは大いなる間違いであり、再臨の裁きには到底耐えられるものにならないであろう。

 

Jh8:32

『真理はあなたがたを自由にするでしょう』。

この句はヨハネ福音の第八章に位置していることがまず考慮されるべきであり、この言葉を単体で用いることには一定の注意を要する。

その理由は、この場面が神殿の宝物庫近く(婦人の中庭)での反対者との息詰まる対立の場面で語られていることがある。

彼らはイエスの殺害を企てており、律法体制に在ってモーセへの固執とイエスの見せる聖霊による奇跡を否定するところで、今や到来しようとしていたメシアによる贖いの赦しをまったくと言ってよいほど意識していなかった。

彼らは律法に縛られている事では罪人であり、いつまでも犠牲を捧げ続ける奴隷の子の立場に留まろうとしていた。

したがって、この句だけを取り上げて、単に一般の人がキリスト教に帰依すれば自由になるというものではない。

そこには律法体制と到来しようとしていたキリスト教による法令からの解放が込められていたのであり、ユダヤ教キリスト教との異なりを示す句である。

それは今日の人々が、生活上の様々な制約から解放されると言ってはいない。むしろ宗教的な低次元の教条主義から解かれることを含んでいるのであり、この句を自派の教理に摘要しようとする規則主義的キリスト教宗派の信者は、甚だ無縁な句を捻じ曲げようとしていることになる。

却って、そのような宗派であるほどに、カルトと呼ばれるような宗派がこの句を美辞麗句のように用いようとするのは、実は自由が無いからで、この句を自分たちの教えに帰依しようとしている人々への目くらましや言い訳のように使ってしまっている。

 

・JH15:5

キリストと結びついたものが身を結べるが、そうでないものは刈り取られ火で焼かれる

これを根拠に「正しいクリスチャン」は(何かにつけ)繁栄するとして、自分の宗派の栄えを誇るということが起こる。

だが、この場はヨハネ15章であり、使徒らに『新しい契約』から堕ちないように訓戒している場面となっている。焼かれる枝は脱落聖徒を表しており、そこでの重要な要素は互いへの愛であり、それがあればイスカリオテのユダのような行動はとれない。

 

 ・Rm10:11-13 三一を擁護し易い箇所

ここでShMのあるヨエルが引用されキリストを指しているように読める。

但し、その前の9節には『神はイエスを死者らの中から復活させたと信じるなら・・』とある。

 

 

 

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所見;

「今日、聖書が貴重なキリスト教の教えを保持する主体である」ということに間違いはない。だが、「聖書的に正しいか否か」を問う場合、ほとんど厳密に字面を追うところでパリサイ派と同じ陥穽に落ちている。

トーラーであれば、まだ法律条文であるから字句を精密に追う価値も少なくはなかったところはあろう。それでも安息日の規定に見られるように、字句に拘り却って真意から逸れ、メシアに糾弾されている。

そこで聖書という書物をどう見做すかという事が、聖書の内容にアプローチする以前に問われていると言える。

新教系の信仰では、ルター以来、聖書を信仰信条の根拠としてきた。確かに当時のカトリックは聖書に対してあまりに無頓着であり、伝統と神秘主義に埋没し、それを信徒の全体に強いていた状況に在っては、ルターの「聖書のみ」の姿勢は西欧諸国のキリスト教を軌道修正するために当面必要なものではあった。聖書は各国語に訳され始め、信徒であっても、その内容に触れることができるようになりつつあった点でも、よく時流に乗り、聖書記述に注目させることに於いても、聖書そのものを頒布させることに於いても、ルター以降の聖書主義は、キリスト教理解を本来あるべきものに近付けるのにどれほど有意義であったか知れない。

だが、「聖書のみ」には、ユダヤ教パリサイ派の罠が潜んでいたことも無視できることではない。聖書主義は安易な「聖書絶対視」を生みかねず、字面を追い始めるところで、キリスト前3-2世紀頃のユダヤと同じ過ちに落ちかねない危険があった。

そして実際、新教系の教会では、「聖書に基く事」が正当の根拠とされている。

だが、それはそれぞれの教理を聖書を用いて吟味するという行為を誘発し、その過程で聖書の曖昧さが無視されてゆく。その「曖昧さ」とは、人間が語る時に避けられないものであり、聖書の預言や内容の根幹は神からのものであっても、それを人間の言葉で、人間が仲介している以上、厳密な判断が難しいところ、また書かれた背景を知るか否かで捉え方が変わるところ、また、まったく人が人から話しを聴くように、捉え方が異なるということが起り得る。しかも古代のヘブライ語やコイネギリシア語で書かれたものを翻訳を通すとなれば、そこで厳密さは常に有効とはならない。古ヘブライ語にはニクダーの打ち方によって複数の意味にとれる単語があり、また古過ぎて、現代ユダヤ人にも何のことか分からない単語も存在している。

 

もちろん、カナンの風習は強く譴責されているが、民間伝承は聖書の中にも作られている。しかも、それらは後に神の是認を受けたかのように扱われもしている。例えれば、捕囚以後のシュナゴーグ制、ハヌカーの祭りにはメシアも参加している。これらは聖書に書かれていない習慣であるのに、メシアから明らかに排除されていないばかりか、イエス使徒らも活用しているのである。

 

聖書は、聖霊の注ぎのない今日、キリスト教に関する唯一の源というべきものである。

だが、同時に聖書というものが、本来聖霊の所産である、それも間接的なケースを含んでのことであることは忘れるべきでない。

従って、聖霊は聖書に勝り、『あらゆる真理に案内する』のは聖書ではなく聖霊である。(ヨハネ16:13)

ユダヤ人には神信仰だけでなく、メシア信仰が必要であったように、キリスト教徒にはメシア信仰に加えて聖霊信仰が必要となる。それなくして、キリスト教の回復はあり得ない。それを「三つの位格の一つだ」などと、ヘレニズムの古代で足踏みをしていれば、キリスト教が如何に偉大で優れたものかを把握することはないであろう。

 

人というものは、思い込みに生き、著者の意図を検証などしない。 

神は自分に語りかけると決め付けるので、自分の感じ方で受け取ることは正しいことになる。それが主観だという事さえ忘れて絶対視する誘惑に自ら陥っていることにも気付かない。

特に、神の意図を探ろうというのではなく、神を絶対視するところで、この世が神の意図のままに存在していると思い込んでいる。

それが邪魔をして、却って神に関心持たず、聖書を与えられた自分が主人公になっている。

 

結局のところ聖書は、何か「別の宗教」を作り出すために利用されている。まさしくキリスト教界はそのようにして出来てきた。

 

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主イエスの再臨は、空中再臨とも呼ばれる携挙と、大患難時代の最後の再臨と、二回に分かって起こるのです。

この考え方に『666』の萌芽あり

携挙が聖徒の天への召しであることを理解しないと、必然的にこのように補充してくるとはいえ、患難の最後に顕現の再臨を設定すると、最後の最後で「やはり地上にキリストは居る」という結論に導き易くなる。

但し、「大患難の最後」と言っているところが脱線しているので、幾らかの希望はあるのかも知れない。

「携挙」がそれを唱えている人の誰にも起らないとなれば、この信仰はどういうことになるのか? 天界への聖徒の召しの衝撃をどう癒すのか? 情報統制では?