Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

雑記


・イエス受肉した神であるかどうかを論じる事は不毛な事で、むしろ、キリストが成し遂げた事がどれほど重く、人類に意義深かったかを知るなら、自ずからその答えは明らかとなる。アブラハムがその裔を代表するイサクではないように、神は創造物を代表する立場には立ち得ない。そこに代え難い役割がそれぞれにあり、イエスは御父を高めることに意を注いでいた事も、祈りを込めて頼り、神殿の崇拝にユダヤ教徒として参加していたことも踏まえてなおイエスを神とすることは、聖書に流れる神の経綸の理解を妨げ、その意義に無頓着であるように促すことになってしまう。


・臨御のキリストが見えるものなら、終わりの日に「終末の臨在はどうなっているのか」と嘲ることはできない。この言葉には終末の臨在が広く知られていること、それが強い反論となり得ることを知らせている。
キリストがそこに見えているなら、この侮りは不可能で、顕現の段階、つまり、「雲の中」の臨在を「見る」ことが祝福ではなく、恐怖を意味することになる。イエスはカヤファにこれを言ったのは、彼のような人物が悔改めることではなく、隠された臨在の間に聖徒を裁く者らが、最後に顕現を察知して恐怖するという意味で「雲に乗って来るのを見るだろう」と言ったことになる。


新約聖書から道徳律を拾うことはできるが、それが求められた理由と、対象者が誰かを知らないと、本来のキリスト教から逸脱しパリサイ化してしまう。


・エデンのケルビムと燃える剣が最初の権力の行使だった。では、神が主権の行使を望む存在だろうか?


・アロンの杖にアーモンドの花が咲いた事例は、何者が任命された祭司かを明らかにした。
そのとき、「目覚めの花」の咲いたのは、春一番の到来の予告であり、聖霊の再降下を教えるものであったろう。それは過越しよりも三月も遡り、雨は続くが幾分か気温が上がる時期という。


・イザヤ52章の最後は、聖徒についても当てはまる。テサロニケの携挙
ローマの最後は、ミュステリオーンについて述べている。


・エゼキエルは、34章の付近で、鳥や獣に、血と脂肪を食せと命じている。即ち、魂の喪失であり、復活の無い死をもたらすことを意味している。


・私の名を騙る者は多く、それに付いて行ってはならないという以上、キリストの臨在は当初は見えない。もし、見えるもの、特に、肉体で臨在とするなら、対抗的存在を許すことになる。そのように、見える臨在だと吹聴する者らが居て初めて、この偽メシアの騙りも成立することになる。そして、現在、そのように主張している人々には事欠かず、その騙りの準備も整っていることになる。


・神がアダムを何としても永遠に生きさせようとはしなかった。
そこには、神の像としての自由がなければならなかったからである。
ならば、親が子に神への忠誠の内に留まるよう強制することはできない。それは創造者の愛を踏み越えた越権であり、真実に愛していることにはならない。


・ルターが聖書主義を打ち出した事で、その行く手に無神論が待ち構える事になったが、そうして、神を聖書の中に閉じ込めることにより、神は奇跡を行う生ける神から、静的な教理の神に変えられてしまった。
そこで、聖霊の働きは過去のものとされ、聖書も「完成」されたものとされてしまったのである。
これは新教的なヴィジョンとして広く見られる。静的な神は、人間の理解や能力の重視に繋がり、神を理解する優れた人間像を導き出す。そこで傲慢が生じた。
問題の原因は、聖書を高め過ぎ、神とのバランスを失った事にある。
そこでは、教理を理解することが信仰になりがちで、信仰の本質である価値観から逸脱が起こり兼ねない。
だが、信仰とはそのような認識を指すわけではない。
信仰とは、動的な神に対して引き起こされる価値観の反応である。
聖書は、その動的神の記録であって、必要な啓示が、紙に書かれた聖書の中で既に与えられ尽くしたと見るのは、甚だ危険な発想である。なぜなら、聖霊の働きを度外視してしまうからである。聖霊とは、まさしく神の動的エネルギーにほかならない。信仰の第三の対象は聖書ではない、まったくない、聖霊なのである! 聖書はその鏡像であって実体ではない。


・聖書に書かれた通りにすれば、正しいキリスト教がそこに実現するだろうか?それはあり得ない。聖書を完全に把握できる人は無いので、どうしても解釈の幅が生じてしまう。
カトリックがまるで聖書から離れていたにせよ、誰かが、まったく聖書に従ってみせることも不可能であった。
人間から行動を起こしたところで、それはやはり罪深い人間止まりであり、決定的なものを欠いている。


・信仰が要るのは、神の側が具現していないからであり、神はその証拠の一端は見せるが圧倒的な現れは抑制している。それはキリストの臨在についてもそのようである。そうなると、聖霊だけが現れと成り得ることになる。神が信仰を求める理由には人間の神性が関係しており、それを神が尊重することは、自らをも尊重することでもある。それが『神の象り』だからである。


タキトゥスによれば西暦47年の17歳以上のローマ市民権保持者は5,984,000人余りであった。(Tac. Ann xi.25 )西暦14年からは100万人ほども増えている。

・国家主権を抑制できるものは国際法や慣例や国際世論や経済制裁国際連合などの議決という、明確な権力を伴わない曖昧なものしかない。そこでは強いものが正しいという自然状態、またはジャングルの法が横行してしまう。国家主権は他の国家から土地や資源を奪いつつ自分たちが責められると内政不干渉や権益を守ると言い出す倫理不全を起こしている。それでも世界政府が実現しないのは、ひとつに圧制への恐怖であり、ひとつに利己益への欲望なのであろう。人間は世界絶対権力を担うにはその器を持っていない。




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