.以下引用
曰く-------------
・神さまのみが与えてくださる心の平安や忍耐などの性質が何者にも代え難い宝物であることを実感しています。(新教某信者)
・信仰をいただいて以来、自らの滅びをいつも意識し、不安と恐れに満たされていた私の内側は、私の人生を導いてくださる方と共に歩んで行ける喜びと平安とに満たされることとなり、最終的には主が私の全生涯に責任を持っていてくださることのゆえに主を崇めることができる特権を味わえる日々となりました。(新教某信者)
曰く--------------------
・私は、一度イエス・キリストを信じたら、最後の最後まで(死んだ後も)神様は、側にいて祝福してくださるのだと確信しています。(某信者)
・神の愛は不可思議です。時折、メッセージをくれたりします。直接神様が自分に話すことはありませんが、物事や出来事、人を通して、伝えたいことを伝えてきます。それは僕に限らず、全人類そうだと思います。(旧教某信者)
曰く-------------------
・イエス・キリストの十字架の死による贖いの出来事を信じて、自分の人生の中で、イエス・キリストに信頼をよせて、イエス・キリストに聞き従う信仰生活に信じて生きるというスタイル (改行省略)
・イエス・キリストを信じて生きる。
教会生活に・・神の家族の中で生きる・・・。
イエス・キリストを自分の心に招く・・・。
イエス・キリストとの霊的な交流を持つ・・・。
自分の願いや求めが実現するように信仰を持つ・・・・。
・また ” 救い ” について問えば、自分が置かれている困難や苦しみや悲しみから救われることが救いだと・・・。(改行省略)
曰く-------------
・聖書は契約関係を大切にしています。そして、信仰を持つということは神様との間に契約関係を結ぶことなのです。ですから、信仰を持つということは、神様との人格的な関係を築くことであり、神と共に歩み始めることを意味しています。
・聖書は拝む人の心情よりも礼拝の対象が重要であることを示しています。つまりその人の心の状態ではなく、心の向かう方向を問題としているのです。このことは、キリスト教の信仰観が非常にダイナミックであることを表しています。信仰を持つということは心の状態を高めることではなく心の向かう方向を定めて歩み始めることを意味するのです。
・この時の「信じる」は存在を信じるというのではありません。これは、相手の言葉を信じることであり、約束を信じることを意味しています。 このように、人格的な関係において信じるということは、言葉と約束に対する信頼を表しています。キリスト教信仰はこのような人格関係における信仰です。ですから、私たちが神様を信じるというのは、存在を信じるというのではなく、神の言葉、神の約束を信じることなのです
曰く--------------
・聖書は神様から与えられた契約の書です。私たちは、この契約の書に記されている神様の約束が成就すると信じています。旧約には神の民に対する祝福、新約には神の御国における永遠の命が約束されています。
・「*聖書には唯一の神様がどのようなお方であるかが示されている
聖書は神様がどのようなお方であるかを示しています。私たちは聖書を通して神様のことを知ることができます。ですから、世の様々な諸霊や偶像に惑わされることなく唯一の神様に心を向けるために聖書は必要です。
*聖書は神の言葉が必ず成就することを証ししている。聖書には歴史的な内容が記されています。これらは神様の言葉が歴史において成就したことの記録です。私たちはこの「証しの言葉」を通して神様が生きて働いておられることを確認し、神の言葉は成就するという確信に導かれるのです。神様との人格的関係を築くために証しの言葉である聖書は必要です。
*聖書には神の価値基準が示されている
聖書には神様が私たちに何を求めておられるかが示されています。つまり、神様の価値基準が示されているのです。神様との人格的関係を深めたいと願う者にとって、心を定め、歩むべき方向を知るために聖書は必要なのです。」
曰く-------------
・信仰は神様の約束を信頼することです。信仰は乞食のように謙遜して主から助けを求める事です。信仰はイエス・キリスト様を主として認め、主の支配に従う心です。信仰は心を開いて主イエス・キリスト様を受け入れることです。
・信仰の反対、不信仰は信仰に欠けている事ではありません。不信仰は自分自身、自分の可能性、能力、知恵、判断を信じることです。不信仰は自分の人生の指導権をあくまでも自分で握ることです。不信仰は自分で物事をすることです。不信仰は宗教的な超自然的な力(神々を含めて)を自分の益になるように利用する心です。
・・救いはイエス・キリスト様の死と復活の福音を信じる事によってしか与えられません。福音を信じる信仰は行いによらないで、イエス・キリスト様の御業をとその祝福を受け入れます。信仰によって人間は新しくされます。なざなら、イエス・キリスト御自身がその心に入って下さるからです。
・信じたら全ての問題が自動的に解決されると言うようなものでもありません。自己中心的な生き方からキリスト様を中心とする生き方が信仰によって生まれます。電線を通して電気が流れると同様に、信仰によってキリスト様の人格的な命が活発的に働くようになります。信仰はキリスト様との交わりを保ちながら、問題や罪や苦難に直面することです。信仰は向かい風の時にもイエス様に従うことです。
・信仰から生まれる生き方にはこの地上には戦いと重荷も含まれますが、主イエス様との歩みですから、その重荷も主の力で負う事が出来ます。信仰は神様の御言葉である聖書を通して生まれます。イエス様の言葉の真実性そのものが心を打って、信仰を与えて下さいます。ですから復活のイエス・キリスト様の御声に耳を傾けようではありませんか。
曰く-------------
・イエス・キリストにおいてご自身を現された神は、天地の創造主であり、父・子・聖霊の三位一体として働かれる唯一の真実の神です。 御子イエス・キリストは人としてこの世に生まれ、私たちの救いのために十字架につけられ、 三日目に復活されました。神は聖霊を通して私たちに働きかけられます。 私たちは聖霊の働きかけによって神と出会い、イエス・キリストを救い主として告白します。
・私たちは神により、神にかたどって創造されましたが、神に背く生き方をするという罪を犯しました。 しかし神は御子イエス・キリストの十字架の死、そして復活を通して私たちに救いの道を示されました。 私たちはこの神の愛に促されて罪を悔い改め、イエス・キリストを主と告白することで義とされ、永遠の命に与ることが約束されています。
・私たちは永遠の命が与えられていることを確信しつつ、希望を持って信仰生活を送ります。 私たちはイエス・キリストが再び来られ、神の支配が完成する終末を信じます。(上三件バプテスト)
曰く------------
・聖書は、全体としても、また、部分についても、聖霊の働きによって与えられた神の言であることを主張する。
聖書の霊感とは、聖霊の特殊な活動により、聖霊が書かせたいと望まれたことを、聖霊の望まれた方法により聖霊が選ばれた者にしるさせたということである。
聖書は、キリスト教の教理と生活の、唯一の、真正な、誤りのない、適切無比な源泉、また、基準であることを告白する。
これらの真理は、信仰によってのみ理解される。
・人は、あがないの死と苦しみによって、全人類の罪をあがなわれたキリストを信じる信仰によってのみ、神に和解され、また、救われることを私たちは確認する。
この原理によって、人は、信仰によってのみ罪のゆるしと生命と救いを得るものであることを確認する。
この救いを与える信仰は、絶対に、また、無条件に神の賜物である。誰ひとりこれに値する者はないし、これを獲得することも出来ない。また、生まれながらにして、これを受け入れようとする傾向もない。
・人は、恵みのみによって救われるものであることを信じる。
この恵みは、福音のうちにみ言と聖礼典を通して人に差し出される。
すべての信仰者が祭司である、という聖書の教えに従い、私たちは次のように主張する。
聖霊は、すべてのキリスト者に、キリストの体の進展と拡大に用いられるように恵みの賜物を与えられる。
これらの賜物には、信仰者の生活のうちに実る聖霊の実、および、教会生活の中で特殊な奉仕を行うために与えられた賜物が含まれる。
キリストの教会は、どこでも、キリスト者が集まり、福音が正しく説教され、聖礼典が正しく執行されるところにあることを主張する。
神の言は空しくかえらず、その恵み深い目的を成就するという約束を完全に信頼しつつ、言葉と行為によって私たちは福音を宣教する。(上三件ルーテル派)
曰く-------------
・信仰は、自信とか信念とは違います。自信や信念は、自分の経験や実績や知識や論理などの裏付け・土台があって、成立します。生まれて間もない赤ちゃんには、とてもできません。ところが、信仰について、新約聖書は次のように語ります。
『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』(ヘブライ人への手紙11章1節)
信仰においては、経験や知識や論理による裏付けが必要条件なのではなく、「アッバ」と呼ぶ幼い子どものように、神への信頼が何よりも先にあります。だから、どんなに絶望的な状況にあっても、希望を持つことができます。そして、見えるとか分かるとかを越えて、赤ちゃんのように、その望みを確信するのです。そこに、信仰の醍醐味があります。妄信や盲信ではありません。いろんな裏付けの有無にかかわりなく、神への信頼により包み込まれ、乗り越えられてしまうのです。すると、あとから振り返ってみたら、生きる意味と力とが生まれ与えられるということが起こるのです。(聖公会)
曰く---------------
・信仰とは、キリストを媒介として神へ向かう信頼の思いです。信仰は、ただ単に日常生活を楽しく愉快に営むためにあるものではなく、むしろ人生の究極的な課題に対する解決をもたらすべきものです。
食べること、働くこと、楽しむことといった、人のさまざまな関心事が、まったく意味を失う時が来ます。そのような危機的な状況で、なお人生の意味を保持するような根拠を与えるものこそ、真に信仰と呼ばれるにふさわしいものなのです。
・信仰によって人は、キリストによる罪の赦しを与えられ、その良心は罪過の重荷から自由にされます。旧約時代には、祭儀によって罪の贈いが達成され、神の怒りがなだめられると考えられていました。新約聖書では、祭儀な関心事が、まったく意味を失う時が来ます。そのような危機的な状況で、なお人生の意味を保持するような根拠を与えるものこそ、真に信仰と呼ばれるにふさわしいものなのです。
罪なき神の小羊キリストのただ一度の死が、すべてのいけにえにまさる、万民の罪を贈ういけにえとして取り扱われます。罪からの救いはキリストによって完成され、神からの百みとして無代価で提供されます。それを受ける道はだか信仰によるのです。
神はイエス・キリストに信頼する人を義と認め、交わりの内に受け入れられます。この教えを信仰義人の教理と言います。(ママ)
・神はイエス・キリストに信頼する人を義と認め、交わりの内に受け入れられます。この教えを信仰義人の教理と言います。
・キリストの出現後は、キリストヘの従順が強調されています。神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。
ユダヤの地に誕生し、敬虔に生き抜いたイエス(救い)という名の人物が、神なのです。
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」キリスト信仰そのものも神の賜物とされます。
信仰の告白もまた聖霊の働きによるもので、人間生来の能力や識別力が保証するものではないのです。
・罪からの救いと信仰はキリストをとおして提供される「恵みのみ」により、ただ「信仰のみ」によって受け取られるものです。(上五件ヨハン教会[ウェスレアン.ホ-リネス系])
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所見
「信仰も聖霊の賜物であり、信じる者への恵み」(コリント第一12:3根拠)とすると、パウロが言うように信仰が贖罪の根拠であるなら、聖霊の賜物として信仰が与えられた段階で「裁き」の赦免に至っていることになってしまう。それは聖徒に与えられた「義」を誤解し、聖霊なく聖徒でない自分を義認されたと見做すことである。(ヨハネ第一5:10/ヨハネ3:36)
そうなると自己義認に加えて、ローマ9:18などを誤用し神を恣意的で不公正なものとすることにならないか?つまり「信仰」とは個々の人の内奥の心の動きや価値観の働きなどによる意志決定や表層に表れる行動とは関係なく、運命的なものとなってしまう。ならば何故、神がアダムらに意志決定の自由を与え、それを妨げなかったのか。また、イエスを遣わしてユダヤ人に信仰を求め、その信仰者の不足から異邦人を「接木」まで行ったのかがまるで意味を失う。
更に、そこでは信者の優越感も避けられない。それは利己心をくすぐるかも知れないが、「パリサイと収税人の祈り」のようなことを避けることはまず難しいであろう。それはまさに「信仰獲得」という名のご利益信仰ではないのか?しかもそれが虚構に過ぎないことが明らかになる時を迎えるとしたら、非常に恐るべきことである。なぜなら、その考え方そのものに利己心が関わっており、一般論的公正の観点から見てすらも排他的であり、その人格否定的教理は倫理的にも道義的にも疑問を抱かせ、また聖書中に描かれる神やイエスによる個人の信仰の発露を高く評価する特質に反する傾向を見せているからである。
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