Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

某キリスト教教育との比較

以下、某キリスト教教育のカリキュラム

・聖書が教える最も基本的且つ大切な教理、イエス・キリストにあってあなたがダイナミックに生きるための指針を学びます。聖書の霊感について、三位一体なる神、イエス・キリスト聖霊について、人、罪、救いについて、教会について、人の死後について、そして、勝利するクリスチャンとしての生き方。


イエス・キリストを自分の個人的な救い主として信じたい、そう心に願った人にとってクリスチャンとしての毎日の歩みは、教会を抜きにしては考えられません。


キリスト教会とは、また、そのアイデンティティーとは何なのか。イエス・キリストに信頼する人々の群れである教会に与えられている重要な使命とは。その使命はどのようにして全うできるのか、ヤコブの手紙1:17-27などをテキストに学びます。


・サタンは神に敵対するもののかしらです。神になりすますもの、偽るもの、だますもの、そしてこの世の神として存在し、かつて神に反逆して天から落とされたサタンの手口や運命


・天使の領域と役割、天使の姿と能力、聖天使と堕落した天使のそれぞれが目指すところなどを学びます。また、天使について誤った考え方も指摘します。


イエス・キリスト使徒たちが救いの福音をのべ伝えはじめると、はやくも、イエス・キリストの神性や十字架の贖いのみわざを否定する教師たちが教会に入り込んできました。恵みによる救いを根本から否定する教えに惑わされた人々に、使徒パウロは、キリストは真の神であり、救い主であり、大祭司であると書き送りました。異端の教えは現代もクリスチャンを惑わしています。コロサイ人への手紙1:15-20などから、イエス・キリストについて、人類の救いの計画における彼の役割について


・家族の誰もがイエス・キリストを自分の個人的な救い主と信じ、また夫婦が同じ信仰に立って家庭を築くことほど幸いなことはありません。けれどもこれは一朝一夕に実現できることではありません。多くの祈りと愛と涙と努力が必要です。このコースでは独身のクリスチャンが信仰を同じくする人との結婚を考え始めたときのことから学び始めます。結婚は神の聖なる計画であり、その御心にしたがって結婚すること、夫と妻の役割、子どもについて、年老いてのことなど、結婚生活上の大切な指針を知ることができます


・いかに大勢のクリスチャンが、心に痛みや苦しみや悲しみをかかえているでしょうか。そして、なぜこんなことがおこるの?と自問し神に問いかけているでしょうか。そのようなときローマ人への手紙8:28は慰めと励ましと希望をあたえてくれます。
『被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。』

・訓練されることが大好きというひとは少ない。けれど神は色々な状況のなかでクリスチャンをあえて訓練なさる。神の訓練の目的や方法は、私たちの考えをはるかに超えたものです。なぜ神は人につらい訓練を与えるのか、講師自身が肢体不自由であるが故に苦しんだ経験談を交えながら興味深く語ります。


イエス・キリストを救い主として受け入れた人すべてに、神は、栄えあるゴールを用意されている。そのゴールとは何か、そのゴールに到達するにはどうしたらよいのか


・全くの思いもよらない試練が襲うとき、クリスチャンはそれをどう受け止め、神様はそこにどのようにはたらかれるのか


イエス・キリストの十字架のみわざによって罪を赦され、新しい人生を歩み始めた人は、本物の謙遜者となり得る。神はクリスチャンが本物の謙遜者になるように訓練される。世的な謙遜と真の謙遜の違い


使徒信条。暗唱できる方もおられるでしょう。もしかしたら日曜日の礼拝で、司会者に合わせて、ただ漫然とその信条を読み上げている方もいるかもしれません。使徒信条には、その一言一言に私たちの信仰を告白する重要な教理が含まれています。それらを学ぶことにより、あなたの信仰を改めて確認できるだけでなく、その知識は、信仰を人々に分かち合う際に大きな助けとなります。


・私たちをとりまく状況は絶えず変化し、情報はあふれかえっています。限られた時間の中で、クリスチャンは何を優先して考え行動したらよいのでしょうか。その鍵となる、聖書にあるひとつのことばに注目して、優先すべき霊的に大切な7つのことがらを学びます。クリスチャンの霊的成長のための実践的な学びです


・創世記に登場するヤコブ、のちの名はイスラエル。その波乱に富んだ人生を学びます。若い日のヤコブは、負けん気が非常に強い策士。それゆえ、失敗も多い。しかし、神のみ手により信仰者として成長してゆく。その様を見て励まされる人も多いはず


イエス・キリスト系図の中に登場する数少ない女性の一人がルツ。しかも彼女は、イスラエル人ではなくモアブ人。彼女の態度から私達は学ぶことが多い。同時に、彼女が姑のナオミの信仰によって支えらたことも忘れてはならない

                                          • 等々

総じて何が見えるか
そのキリスト教とは「個人の人生の導き
『新しい契約』の概念無く「使命」などどうして与えられるものなのか?
自らが裁かれる前のアダムの罪人であれば、どうして神に用いられるのか?
罪にあふれるこの世で一体何をどうできるのか?
いや、問うまでもなく、お話にもならない。
聖書中の人物から人生訓を探ろうという、この世の次元の発想に過ぎず、神の偉大さには一向関わりもない。
「人間の人間による人間のためのキリスト教


根本的性格の違いはアンブロジウスとアウグスティヌスからのものらしい。
「神の王国」概念から天国と地獄
世の救いから個人の利得
殉教の信仰からご利益信仰
理性的論理から感情の高揚
聖霊による聖徒からキリストの内在




更に象徴的に言うなら

ヘブライからグレコ=ローマン
聖なる民から不浄な民
葡萄酒からブドウジュース
酵母パンから食パン




以下、別件---------------
・終末にはイエス様が来て世を裁くとあります。この時、羊は御国へ、山羊は地獄へ行く事になりますが、御国とは何で、地獄とはなんで、羊とはなんで、山羊とは何だと思いますか?
A:
御国とはキリストの千年王国
地獄とはゲヘナと呼ばれる永遠の滅びの象徴
羊はキリストの兄弟たちに親切を示す人々
山羊はキリストの兄弟たちに親切を示さない人々
(但、意識せず自分の性質を表すかも)


聖霊を冒涜する事以外の罪は全て赦されるとありますが、イエス様を信じない事は赦される事に含まれていると思いますか?
つまり、イエス様を信じなくても結局は赦されて天国に行く事になると思いますか?
A:
終末にイエス聖霊を通してご自分の証しを世界に示されるので、その時にその奇跡の証に信仰を働かせるなら聖霊を冒涜することにならず、キリストの王国に入るでしょう。かつて生きた人には復活があり『一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている』Heb9:27 
信じないために罪となるのは聖霊という神との邂逅があった後、初臨のユダヤもメシアに注がれる聖霊の働きに不信で約束の地から吐き出され、信仰した者には聖霊が与えられている
したがって、信仰して洗礼を受けない者は地獄というのは、利己性を煽られた誤謬でキリスト教とはいえない Joh3:13-15

                                                • -

別件

神の国とは、主イエス・キリストの望みである愛と赦しのある平和な国や社会(世界)の実現したものであり、私たちの一人ひとりが主イエス・キリストの教えを果たしていく(いる)国や社会(世界)のこと。」となります。ですから、すでに「神の国」は、私たちのいる現世に準備されているのです、それを見える形に実現化=「神の国」にするのが、私たち人間の愛と赦しのある行いなのです。

カトリック信者ながら新旧双方とも広くこの理解が受け入れられている。
理由はローマ国教化にあり、以後アウグスティヌスに準じたルター以後も原初教に戻らなかったところにあり
だが、この捉え方であれば「罪」ある人類に神の国はいつまでも来ないことになる。

                                                • -

確かにギリシア語には幾つかの「愛」の違いがある。

「ストルゲー」 στοργή
火、空気、土、水の四元を結びつける愛。従う愛。尊敬を含む愛。親子関係や師弟関係にある愛。
「エロース」έρως
理性的な愛。主に男女関係の愛。自分のために他を求める愛。恋愛 さらには熱愛。
「フィリーア」 φιλία
友愛 。自分を与えることで他人を生かす愛。配慮的な愛。
「アガーペー」 αγάπη
元はあるものを他より優遇する選択的な慈愛。
キリスト教の「愛」。無条件の愛。万人に平等な愛。神が私達に与える愛。見返りを求めない愛。

だからといって、それが聖書で使い分けられているなどと云われるべきか。新約は行きがかり上、主にギリシア語で書かれたようだが、著者らはヘブライ人であり、旧約に見られる「愛」の型に注視される必要がある。そこではネフェシュがプシュケーと置き換えられたような意味の違いが起こり得る。使徒や古参の弟子、またマルコやルカなどの翻訳者の間で「愛」を記すのにアガペーを選ぶのが適切と思えたのであろう。ヘブライの「ヘセド」からすれば、彼らは選択したというより、ほとんど他に選びようが無かったのではないか。アガペーでもヘセドとは幾らか違う。それでも、当時のギリシア語では使用頻度が低かったアガーペーが、ヘセド本来の意味に注意を引くのに良かったのでは