Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

資材置場

わたしの文章は終わりの方で非常にくどい
(歳と共にひどくなる傾向が見える)

余分な部分は切り取ってここに置いておこう。

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  • 神を科学で捉えるべきか-

愛や倫理について、説明を要しない人もいれば、どんなに説明しても分かっては貰えない人もいる。共感や味わいが起こらないようなのである。それは神に属する事柄についても似たところがある。

パウロに『キリストの刑木以外の何をも語るまい』と決意させたコリントスの人々に、彼はこうも言っている。
『肉のまま*の人は、神の霊に属する事柄を受け入れない。それは彼には愚かなものだからである。また、霊によって判断されるべきであるから、彼がそれを理解することはない。』(コリント第一2:1-2/2:14)*(プシューキコス「自然のままの」)

残念なことながら、神に対してどうしても共感することがない人も存在するようだ。
その人には、多くの理を尽くして説いても、受け入れる想いの器が心に無いのか無反応や反発を感じるらしい。
彼らは、神について先入観を持つだけでなく、神の言葉を頑として聴こうとはしない。そこに何らかの事情なり受け入れられないほどの感情の傷などが在るのだろうが、神の側の説明に説得力が増してくることを無条件で嫌う。そこにはどうしても譲れない決め付けがあるようなのである。

ヘーゲル左派や、チュービンゲン学寮の「牧師の息子たち」が父親たちの姿や教えを見てきて、すっかりキリスト教に反発を感じ、「高等批評」と称して、論理的、科学的にキリスト教の信仰を装いながら内部から信仰を否定し打ち崩してきたその激しい情念に似た反宗教的熱情は、終末までなくならないことであろう。

あるいは、いくらか反応しようとする人々でも、理屈を受け入れるところで止まってしまうこともある。
つまり、その人にとってのキリスト教信仰とは、そのまま教理を学習することで終わってしまう。
だが、それでは信仰というには足りないものがある。その欠けたものが「ヘセド」なのであろう。

しかし、自分がそうでなく、人格的に神を捉えられているように感じられるからと言って安心するのも危険であろうし、優越感を抱くべきでもない。
その人の内面を観るのは神で在られ、いつかヘセドの内に神を捉えられない人にでも、ご自分を改めて知らしめるのかも知れない。

いずれにしても、現状で神を人格的に捉えない人がどうしても存在するのであり、そのような人に神も信仰も強要するべきでない。まして、反発をする人であれば、話はそれ以上進まないということもまた神慮であるのかも知れない。そのような人には、何時の日にか、神に直接に教えられることを望むばかりである。

なぜなら、キリストの犠牲が捧げられて後、そうしてすべての人間が『神の子』としての本分を回復する道はその貴重な代価の上に整えられたからである。
だが、それは親子の絆を持つ者となることを許される「回復」であり、そこで『神の象り』としての倫理的選択は『信仰』を懐く自由の内に全うされるのである。

今もし、神が否定のしようもないほどに顕在されるなら、人々は『神の象り』としての選択権を失なってしまう。それでは信仰もヘセドも示す機会が失せてしまうのであるから、これは、自らを尊重する神がけっして容認しないに違いない。

しかし、それでもなお顕現の時に神を人格的に捉えていないなら、その人は神の前に、自らの存在意義も根拠もまったく喪失することになる。創造者から離れたアダムの道に入ることになるからである。
ある人々は自ら望んでその道に入るであろうし、それを神は強制して転向させることも無いであろう。

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Gustav Friedrich Oehler (10 June 1812 - 19 February 1872) professor of Old Testament theology in Tübingen

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原始キリスト教エスノセントリズムか?

イスラームでは離教は認められず死刑に当たる
キリスト教も異端者をそうしてきた
ユダヤ教も棄教を想定していない

だが、イスラエル選民思想の根底にあるのは「諸国民の光」となることであり、単に異教が忌避されたというよりは、契約を結んだ崇拝方式を守る側面が強かった。
キリスト教になっても、本来は異端を排撃することが主な務めではなく、異教を崇拝していようと諸国民の将来への福祉を守ろうとするものである。これは単なるエスノセントリズムとは異質なものである。


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聖霊と火とのバプテスマの異なり

半ば以降、また結論の箇所の余分


即ち、『アブラハムの裔』とは『新しい契約』に基いて天に召され、キリストと共に人類の贖罪を行うことになる『王なる祭司』であって、キリストも使徒たちも、この人々を「エクレシア」に集め出すために宣教を行ったのである。
あとの人々は、この『神の王国』の千年の間に贖罪を受けることができる。

『信徒ら』も『聖徒ら』と同様に神の御前に『罪』を許され、聖霊への信仰によって遂に『神の子』と成る道が『神の王国』の到来によって、ただ一条開かれているからである。(ヨハネ1:12)

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ナハムーへの誤解について
使える導入


今日、イスラエルと聞けば、係争の地となっていることは否めません。
二千年近い国家としての不在の後の第一次大戦後に、英国の委任統治が始まるとユダヤ人はかつて故国のあったパレスチナに自分たちの国家建設の運動を本格化させます。
そこに英国の不義理で相矛盾する、先住アラブ人にも国家建設を目指すユダヤ人にも耳障りの良い三重の密約が原因で、パレスチナはその後に著しい政情不安に陥り、その影響は今日にまで及んでしまっています。

ユダヤ人も、その間に住んでいたアラブ系イスラム教徒を実質的に立ち退かせて自分たちの居住地を拡大してきましたから、これは問題が起らないはずもありません。
しかし、ユダヤ教徒はキリスト以前の独立国家を以前の土地パレスチナに建設することを宗教的熱情と共に希求してきました。それは「シオニズム」と呼ばれます。
特に、第二次世界大戦でのナチスによる民族浄化に遭ったことは、1948年のイスラエル共和国の独立宣言へと促す大きな要因となりました。