Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

キリスト教パリサイ派

>キリストを王として受入れ、神の王国の臣民となることを選ぶ<
>神の律法を守り、王国にふさわしい者として是認された状態を保つ<
以上のような「ものみの塔」の主張には相当な無理がある。
裁きによる救いが既に始まっている事が想定されており、『神の王国』は既に治め始めてしまっている。だが、パウロは『あなた方はわたしたちを抜きにして王として支配しはじめたのですか』とコリント人に問うた。天に召される者らが揃っていない段階で王国は設立され得ない。彼らの天への召集は大患難の直前であり、証印が押されず不確定な今では在り得ない。⇒「黙示録の四騎士」

そこで、上記のような条件に適合していると(誰かによって)見做されている「エホバの証人」が存在していることになる。しかも、それが単にバプテスマを受け道徳を守るという信仰者の側からの能動なのである。
これは、業によって神の是認を目指したユダヤ教の発想であって、キリストの贖いがどれほど深く、人の及ばないものかの観点が欠落している。
また、キリストの犠牲によって締結された『新しい契約』から生み出された『聖なる者』に求められた基準を、契約外の人々に誰でも彼でも押し付けるという、律法主義を繰り返してしまっていることになる。
そこでは、理の当然として、基準の当てはめによって「自分は救われる」という認識が生じ、「人々を救う業」と呼ばれる宣伝活動を行うべきであるという説得に同意することになる。
そこでは、自分たちは神の是認の中にあり、他の人々はそうではない、というパリサイ派の思考の継承が生じてしまう。
だが、信仰を問うキリストの裁きは依然、到来していないのであるから、実際には誰が救われるかは、人間の努力の関わるところではない。
また、キリストの教えにおける裁きの要諦が、来るべき「信仰」にあるにも関わらず、それを現状の「業」に置き換えてしまってもいる。
つまりは、自分(が信じる指導者)は正しいのだから、すべての人々も、その基準に従うべきだ、と言っているのである。
そこで、展開されるのは『神の義』ではなく、「人の義」であり、主要な関心は、「自分たちが正しいか否か」に絞り込まれることになってしまい、こうして神の意志を探ろうとする意欲は、どうしても人間製の「律法」を探ることに置き換えられざるを得なくなる。
この派の人々が「組織崇拝者」と呼ばれる原因はここにある。聖句を教理に合わせて取り混ぜ調合した『人間の教え』を求めるからである。
結果として、それは『まず、神の義を求める』キリスト教の特徴を備えておらず、まさしくユダヤ教パリサイ派の精神を指し示している。
しかし一度、この種の「信仰」に陥ると、この巧妙な置き換えに気付くことはまず無い。
こうして、大多数のキリスト教の宗派に変わらず、神意はこの派においても無視されてゆくことになる。

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>聖書を読み、学ぶ目的は明らかです。人はすべての良い働きをするために聖書を読み学ぶのです。神の教えに従い、神に喜ばれる人になるために役立つ聖書を読み、学び、またその教えに従うのです。道徳的な教えを読んだ時、ある人たちは「聖書は単なる倫理的、道徳的な良い本にすぎない」と言います。しかし、実は単なる書物以上の意味を聖書は持っているのです。創造主である神の教えに従う、という意味で、私たち人間が本来どのように生きるべきかを示している書物である、と言えるでしょう。<
この教会員の言葉にあるものは、「自己向上」という御利益である。
聖書を律法視し、神に服従することの正義が強調されているが、これもまた、ほとんどのキリスト教に見られるユダヤ教への後退というべきであろう。
人類が本来の道を踏み外していることを認めながら、「従順」によって回帰するための書として聖書を見做している。
だが、それは旧約の律法概念であり、それが不可能であるゆえにキリストの犠牲が捧げられたことへの認識に欠けている。
パウロでさえ、自分の内にどうにもならない『罪』を、その悪に向かう傾向に嘆いていなかったろうか。
後から付け加えたように、キリストの贖いによって罪から救われると説かれても、それには既に具体性を持てず、やはり従順の方が優先されている。この説明文の書き手の主眼とするところが贖いには無く、従順による自己向上に在ることが明らかだからである。
このような観方には、他者任せの「従順」から自発心による「信仰」へと、キリストによった次元上昇が捉えられていない。それにも関わらず、こうしたユダヤ教的理解が、「伝統的」また「正統」とされるキリスト教教派に蔓延しているのが実情である。これらの人々にとっての信仰とは、常に従順であることを通して初めて示されるものと了解されているのであろう。
つまり、キリスト教徒を自称しつつも、キリスト教において何が信仰されるのかが、依然蒙昧の内にある。⇒「聖霊という第三のもの」
キリスト教信仰を「神を信じる事」また「神を崇拝する事」などと云うとすれば、その人はキリストの何たるかを知らない。
そこで、新興のエホバの証人すらもが、同様の陥穽に落ちているのであり、そこで両者が神の是認を得ようと「神の律法」なる規則を求める中で、いったい何を巡って争うのだろうか。つまりは人間の決め付けた教えの小異を巡る意義の浅い論争ということであろう。
神が三位一体であるかないか、年代計算をするかしないか、どれも皮相的小異でしかなく、人を論争に巻き込み事の要点をぼかす為の論議にしかならない。つまりは「誰が正しいか」を問うばかりで、神意を探ろうということではない。主論とされるべきキリストの犠牲による贖罪への焦点がぼやけている。どの派も自分たちの救いをいま確定させたいばかりに自派の正しさを立証しようとするばかりで神意を無視しているのである。
キリスト教」を自称する諸宗派のいずれもが業による義を得ようとする「ユダヤ主義」の罠から逃れられないということなのだろうか?
このように今日も相変わらず、キリスト教界にいまだ存在する「パリサイ主義」も、かつてイエスに対して見せた態度をもって、やがて到来するキリストの臨御に正面から反対しないものだろうか?
こうしてみると、救われたいと一心に願う人々は却ってその目的から除外され、むしろキリスト教徒ではない人々の方に希望があるようである。非キリスト教徒は自分の義を立てる必要が薄く、聖霊の声に従い易いからである。神はキリスト教徒の利己心を望まないからだろうか。


『我が救いはすぐにも到来し、我が義は今にも示されようとしている』『安息日を守って汚さぬようにし、自らの手を守って悪を行わない人の子は幸いなり』Isa56:1-2
安息を守るとは、自分の義を捨てることである⇒「安息日の意味するところ」





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