Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

聖餐の日付に関する問題点の整理

前提:過越はアビブ14日であった事
イスラエルの人々は定められた時に過越祭を祝わねばならない。
あなたたちは、この月の十四日の夕暮れ、定められた時にそれを祝い、そのすべての掟と法に従って祝いなさい。
モーセイスラエルの人々に過越祭を祝うように命じた。
彼らは第一の月の十四日の夕暮れに、シナイの荒れ野で過越祭を祝った。イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたとおりに祝った。』二年目のアビブ14日で、これが最初の定期儀礼となる。
(民数9:2-5新共同)
ヨシュア5:10、エズラ6:19、エゼキエル45:21(翻訳?)

(除酵祭は初日と七日目の最終日がシャバトン、初日のシャバトンから「七週」を数え始める。従って、除酵祭で第八日は無い)


シャバット篇のミシュナー
イスラエルの民がエジプトを出立したニサンの14日に彼らは彼らの過ぎ越しの犠牲を屠り、15日に出発し、そしてその晩に長子が打たれた。「その晩」とあなたは考えるだろうか。そうではなくて、その前の晩に長子は討たれている。またその日は木曜日であった。ニサン15日は木曜日であったため、イッヤールの月の朔日は安息日にかかり、シヴァンの月の朔月は日曜日にかかった。(これはラビと矛盾する)
・セデル・オーラムでは「民がエジプトを出立したニサンの14日に過越しの犠牲を屠り、15日に出立したが、その日は金曜日であった。」

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・今日のユダヤ教徒の主流はヒレル系パリサイ派であり、キリストの当時からハグ・ハ ペサハの慣例を変えていない。彼らは今日もニサン15日にセデルの食事を行う。
・イエスの時代までに、ユダヤ人の間ではハグ・ハ ペサハとハグ・ハ マツォートの区別が薄くなっていた。
・ペサハとマツォートの区別が曖昧になる原因は、モーセが『正月の十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる。七日の間マツォートを食べる』(出埃12:18-19)と書いたところに起因する。だが、実際にはアビブ14日から21日は八日間となる。
そこでこの『七日』を守ろうとするとニサン15日から21日にマッツォを食さなければならなくなり、本来の過ぎ越しの晩がニサン14日であることを軽視される理由が出てくる。
しかし、過ぎ越しそのものがニサン14日であることはトーラーから動かせない。
『第一の月の十四日の夕暮れが主の過越である。』(レヴィ23:5)
(唯一の例外はペサハ・シェニーのみ、但し月遅れで日数は同じ)

そこでモーセの『十四日から二十一日』を『七日の間』と語った言葉に厳密に従おうとするラビたちが悩んだことは十分想像が付く。

そこで民数記にはこうある
『この月の十四日,二つの夕方の間に,あなた方はそれをその定めの時に調えるべきである。そのすべての法令と定められた手順のすべてとにしたがってこれを調えるように』(9:3新世界)
בְּאַרְבָּעָ֣ה עָשָֽׂר־יֹ֠ום בַּחֹ֨דֶשׁ הַזֶּ֜ה בֵּ֧ין הָֽעֲרְבַּ֛יִם תַּעֲשׂ֥וּ אֹתֹ֖ו בְּמֹועֲדֹ֑ו כְּכָל־חֻקֹּתָ֥יו וּכְכָל־מִשְׁפָּטָ֖יו תַּעֲשׂ֥וּ אֹתֹֽו׃
ここでの、[הַזֶּ֜ה בֵּ֧ין הָֽעֲרְבַּ֛יִם תַּעֲשׂ֥וּ]「ヘ ゼ-  ビン ヘ オブリーム トウ アシュ」「それらの夕方(複)の間にそれを行え」を出埃12:6の[ בֵּ֥ין הָעַרְבָּֽיִם]「ヘ ゼー  ビン ヘ オブリーム」「それらの夕方(複)の間に」[וְשָׁחֲט֣וּ אֹתֹ֗ו]「それを彼らは屠るように」と結び付け、アビブ14日は家庭で犠牲の子羊を屠る夕刻(日没前)とすることで、モーセの規定に見られる七日を守るようにしたのではないか? こうすると、ニサン15日からマッツォを食すればよく、14日は過越しの独立性を失い、羊を屠る『準備の日』となっていった様が見える(神殿では14日昼頃に屠られていたと)。しかし、これはトーラーに一字一句従うという目的とは裏腹な結末を招くことになった。即ち「過越」の軽視また無視になる。
ユダヤ人がハグ・ハ ペサハとハグ・ハ マツォートの区別を薄くした理由がここにあり、『七日間』と文字通りに守ろうとしてペサハを軽んじ、セデルを14日夜から15日夜に移動していたのであろう。
・この他にも、当時から内地や外地、エッセネやカライなどでも暦や、この祭りの習慣が異なっており、ユダヤ教徒の間でも厳密で画一的な扱いはできなかったように観察される。
パリサイ派が自己の義を立ようと腐心したことはよく知られるところであり、その背後にタナイームも居たであろう。彼らがトーラー墨守を図ろうとする場合、過越を差し置いて『七日間』という数字の方に注意が向いたことは得心がゆく。
・その一方で、モーセはハグ・ハ スッコートの七日間の他に『八日目』の聖なる集まりについて述べており、なぜ無酵母パンの祭りでは過越を含めた八日について書かなかったかは、ひとつには両者の祭りの性質の違いによるのであろう。過越しの翌日に直ちに無酵母パンの祭りに移行するのに対して、仮庵の祭りはヨム・キプルから5日離れて独立している。また、スッコートでは祭りそのものが七日であることが『仮庵に住む』とされており、そのうえで八日目の聖会を命じている。(この八日目の存在は非常に示唆に富む)
この状況から、パリサイ人の思考がどう働いたかが見えて来る。モーセの記述の曖昧さに対して字句通りに腐心した彼らは、『七日間マッツォを食する』ことに注力する過程で、ニサン15日からの七日間にマッツォを食するとして、14日を等閑に付し、それを子羊を屠るためだけの日として二つの祭りは、単に「ペサハ」と略されるようになり、遂に両者がユダヤ人の意識の中でメシア到来以前に一つの祭りに融合してしまった。その「正義」の根拠は『七日の間マッツォを食する』ところにあったろう。(サマリアではこの二つの祭りは融合していない)
・『準備の日』とは「安息日」の前日の名称でもあった。しかし、ハグ・ハ マツォート初日のシャバトンに対してその前日は『準備の日』とされるべきだったろうか? それは『準備の日』ではなく『過越』そのものではなかったのか? ここにも相応しからざるものがある。シャバトとシャバトンが生活上では同じ感覚になり、その前日を「準備の日」と同じように過ごす習慣性もあって『過越』を軽視させる誘因のひとつとなったのでは?
酵母を除くのは15日以降の「除酵祭」についての命令であったと理解できる。 そこで、過越はともかくも、ニサン15日以降の七日間に家に酵母が無いようにするということがモーセの趣旨であったろう。
・こうしてパリサイ派サドカイ派も祭司長派もサンヘドリン挙げて、ナザレのイエスをニサン14日に屠り、意図せずにまさしく『神の子羊』としての役割をイエスに与え、自らは『踵を砕く』という『蛇の裔』の役回りを自ら進んで負ってしまった。
ユダヤ体制派のこの「認識」は、おそらく神の仕組んだことであり、メシアは拓かれた時間の道を間違いなく進んだと言える。
・イエスがニサン14日に磔刑に処され亡くなったことは、初期キリスト教徒の伝承、また小アジアを中心とする「十四日派」の存在によっても裏付けられる。

・『七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる。』(出埃12:15)この『最初の日』を「無酵母パン」の第一日(ニサン15日)と解釈しなければ、今日まで続くユダヤ教徒の『七日間』の習慣は成り立たない。そこで子羊と無酵母パンを共に食する「過越し」は軽視されることになる。
では何故モーセは、わざわざ14日から21日までの八日間を『七日間』と書いたのだろうか? ここに問題の根源と深遠な不思議がある。これはモーセを通した神の罠であり、その対象は『蛇の裔』であったことであろう。(これを「モーセの罠」と呼ぼう)
罠と呼べるものは他にもある:イエスの当時のユダヤ体制派はメシアの到来がベツレヘム・エフラタであると信じ込んでいたが、誕生と到来とは別であったことで、ナザレのイエスの出生地は見過ごされている。こうしてユダヤの祭司長派が『神の子羊』を屠る役回りを演じることになった。そうして彼らがエデンで語られた「蛇の裔」であることを露わにする誘いが開かれていた。(聖書至上主義の逆転的盲点)



・新約の扱い
ユダヤ人の間に過ぎ越しの日付に不一致があったことは
『過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。』というルカ22:7にも表れている。本来、律法では過越と除酵祭は別の祭りである。しかし、共観福音書筆者らは、その辺りの説明を省き、ユダヤ人の風習としてズレたままに語っている。

この観点に立って他の記述を見ると
『さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。』Mr14:1
『除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日に、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。』Mr14:12
『夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。』14:17
こうしてみると、マルコはニサン14日を過越の小羊を屠る日と呼び、その後の夕方になってから、つまりニサン15日に入った夜に最後の晩餐がとられたと書いているように見える。マタイも同様。
これに対し、ヨハネは『ユダヤ人の過越があった』(2:13/6:4/11:15)『ユダヤ人の祭りがあった』(5:1/7:2)という書き方では、ギリシア語の読者への配慮が見られる。だが、日の数え方ではユダヤ式を守っている。この使徒は旧約預言の成就者としてのメシアを描こうとする姿勢を貫いている。

福音書筆者らは、夕刻に日が改まるというユダヤ暦に然したる配慮を見せていない。それは読者の殆どがギリシア語を話す異邦人向けであったことに起因すると思われる。これはヨハネ福音書にも見られ、イエスが復活後の夜にエルサレムに集まっている弟子たちの前に現れたが、それを『週のはじめの日の遅く』と記しているが、これはエマオに向かった二人が戻った夜遅くであり、ユダヤ暦からすれば、明らかにニサン17日に入った夜である。
異邦人は夜明けから一日が始まり、その時間を数え始める。これは新約筆者も当時のユダヤ人もこの慣例にはしたがっていたことが明らかである。
従って、マルコが『除酵祭の第一日』と書いたとき、同時に『過越の小羊を屠る日』と述べて、ユダヤ歴ではニサン14日であることを知らせ、その後の夕方になって以降のことも「翌日」に入ったということを知らせずに最後の晩餐に入っている。彼はただ『夕方になってから』としか書いておらず、それはマタイもそうであるし、ルカも『時間になると』としか書いていない。異邦人読者にとって夕刻に日付が変わることよりも異邦人に伝えるべき重要なことがあったと共観福音書の筆者らは判断していたのであろう。ただ、マタイの方は事情が複雑ではある。彼が伝承のようにヘブライ語ユダヤ人向けに福音書を最初に書き、その後ギリシア語に訳されたのであれば、ユダヤの主流を成していたパリサイ・サドカイの習慣に合わせて書いたので、そこでマルコの扱いに準じた可能性が出てくる。(後発のヨハネはこれに気付いていたのであろう、共観福音書に感想を述べた場面が教会史に有り、その後に福音書を著している)

しかし、これらの新約記述にはいずれもユダヤ太陰暦が伏流として貫いていることを忘れることはできない。
そこで使徒ヨハネは異なっている。彼は「ユダヤの」祭りがあったことを福音書に詳しく取り上げ、それはイエスの宣教期間を数えることができる程のものとなっている。
また、ヨハネ福音書の特徴のひとつが、イエスを『神の子羊』として描き出すことに注力していることも挙げられ、それは黙示録も同様である。そこで、ヨハネは過越の子羊との対照を行っており、イエスの遺体の骨が守られたことなどを挙げているが、それは他の福音書には無い特徴と言える。
また、使徒ヨハネは祭司長派に近く、また信頼もされていたこと、サンヘドリンの内情を最もヨハネ福音書が伝えていることからして、ユダヤ体制派の過ぎ越しの観点も踏まえてイエスの記録を残そうとしている。
エス磔刑の日がユダヤ人の『準備の日』であったことは四人の福音書筆者が皆認めている#、しかしヨハネは、『ユダヤ人の準備の日』(19:42)と呼んでこれがユダヤの習慣であったこと、またその意味するところを詳細に告げ、夕刻に日付が変わる都合を描き出している。これがシュバトンの準備で、しかもその週のシャバトとも重なっていた。
また、ユダヤ体制派にとって、ニサン14日は犠牲の子羊は屠るものの、祭りには入っておらず、イエスをピラトゥスに訴え出たときには、異邦人の屋根の下に入って『身を汚す』ことを避けようと官邸内に自分たちは入らずに済ませようと腐心した様も描かれている。イエスの一行とは異なり、彼らはまだセデルを食していなかったからである。(18:28)#(Mt27:62/Mk15:42/Lk23:54)
この点は、祭司長派がイエスの捕縛のタイミングについて『祭りのときではならない』と繰り返していたことが記録されており(Mk14:2)イエス逮捕が彼らの祭りに入る以前であったことは明らかにされている。マルコではその言葉はニサン13日以前に語られているが、13日の晩にユダは祭司長派のところで主人を売り渡す金額を決めている。その日の昼の間は珍しくイエスエルサレムに登城しなかった。
したがって、祭司長派とユダに行動できる時間はニサン14日以外に残されていなかったことになる。(これらはどれも偶然の集積に過ぎないか?)

・そこでキリスト教徒が、今日のユダヤ教徒の習慣を根拠にして、主の受難日をニサン15日に想定するとなれば、自らの「キリスト教徒」というその主張に矛盾をきたすことになる。つまりは当時のユダヤ体制派と共にメシアを屠る役回りを負う「モーセの罠」にはまるのである。
それこそは、イエスを『神の子羊』として出エジプトの晩に相当する「世々に亘って守るべき夜」、『これは彼らをエジプトの国から導き出すために主が寝ずの番をされた夜であった。ゆえにこの夜、すべてのイスラエルの人々は代々、主のために寝ずの番をしなければならない。』とされた聖なる夜に聖餐を行われ、以後の弟子らに継承を命じ、その14日の日中に屠られた子羊に対応し、出エジプトの子羊も共にイスラエルの初子の贖いとされたことを否定してしまうからである。そもそも、大半の「クリスチャン」にこの理解無く、どうでもよいことであろう。それゆえにメシアニック・ジューなどにかぶれる隙を与えているのであろう。

・341年のアンティオケア会議で十四日派を異端としたように、この辺りは復活の祝いに拘って、『神の子羊』たるイエスを軽視したグレコ=ローマン型キリスト教の、聖書に流れる神意への無頓着さを表しているのであろう。つまりは、死よりは復活のように目出度く自分が楽しければそれで良いようである。


所見:ユダヤ人の習慣には不思議なところがある。
この「モーセの罠」だけでなく、神名の扱いもそうであって、これらはユダヤ人の全くの誤解でありながら、神はそれを用いた節がある。
また、祭礼における習慣も、後の預言書で比喩として生かされている例が幾つか見える。(そこで、聖句逐語霊感説はますます分が悪い。或いは、何等かの知られていない古の書の影響があったのか?)

ユダヤ人の伝承ではタルムードだけでなくハグハペサハとハグハマツォートに関するミドラシュ・ハラハーがあると思われるが、まだ読んでいない。英訳されたものがあるはず

除酵祭(種入れぬパンの祭り)の日付(月齢)について旧約
聖書のなかでも違いがあった。たとえば,「出エジプト記」は,かなり曖昧であるが,15-21日と読め(12:18-19),「レヴィ記」では15-21日(23:5-6)である。しかし,「申命記」では(16:2-3)14日から20日となっている。

<北海学園大学人文論集第57号 註27>この見方はユダヤの祭礼をはじめから基礎に考えているが、まず、出埃12:18からして14日から21日の及ぶことを『七日間』と書いている。15日から数えるのはユダヤ教式である。申命記は『七日間』と述べるだけであり日付けを書いていない。15日からの七日を正しく述べるのはレヴィ記23:6だけである。そこで矛盾を起こしているのは、出埃記とレヴィ記である



ヨハネ福音書に於ける祭りの位置

1.30年春 「過越し」2:13
2.31年(春)「祭り」5:1
3.32年春 「過越し」6:4
4.32年秋 「仮庵祭」7:2
5.32年冬 「ハヌカー」7:2
6.33年春 「過越し」19:14





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