・Eph1:13-14
Jh6:27,Rm4:13,Ga3:14,Eph4:30,1Cor6:11,2Cor1:22,Heb2:4,Mic7:18,Isa43:7,
・1jh3:2
Jh13,Rm6:5,Rm8:29,1Cor15:49.52,2Cor5:6.8,2Cor8:6~,Ga2:20,Phi3:21,1Pe4:2,Zec12:8,
・Lk21:24
Lev:20:22,Ps:74:9,Isa1:12,Isa2:3,Isa52:1,Isa60:20,Jer2:7~,Jer30:3.18,Ez:33:24,Ez30:29,Ez34:29,Hoe4:14,Dan8:13,Joe3:17,Zep1:9,Zec1:12.17,
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Pscのプレーローマ
・子羊は長子を贖った
・イスラエルの全体を労役から携え出した
・彼の「到来する(エルコーマイ)ときにまで」
・「神の王国が到来する(エルコーマイ)まで・・飲まない」
・十二使徒と飲食を共にし、十二部族を裁く
所見;
十二使徒と聖餐を共にした理由は、聖徒との契約に優るものがあった。
彼らは「堅く従って」既に忠節が(ひとりを除いて)実証されていた。そこでPscがキリストの公生涯中一度だけであった理由が見える。それは、使徒らの忠節の試みの時期の終了でもあったといえよう。
Pscが過去と現在と未来をつなぐという発想は、この点で納得できる。
キリスト後のPscは聖徒による儀礼の域を出ず、信徒のものは更に低い位置にある。しかし、キリストの聖餐は二回行われる。つまり、キリストが与る聖餐は二回であるということになる。一度目は主の最後の晩餐であり、二回目は十二使徒との天界の晩餐であり、それには聖徒らの裁きが関わっている。この観点からすれば「十二の座に就く」とは最後の晩餐と同じく食卓を意味することになり、そこで聖徒らは吟味されるということか。ならば「王国が到来する」とはこの意味であろう。それは単なる食事である訳も無い。
長子を贖う出埃の過越はその予型であって、使徒ヨハネは事毎にこの件を強調している。
この二回の会食は「神のイスラエル」の集め出しの始まりと終わりを画するもので、その中心を成すのが十二使徒ということか。どちらの会食にも十二使徒が参与することになる。二回目の天界での晩餐は、エフェソス書からすると、シナイ契約の山頂の会食に対型であるように思われる。
しかし最後の晩餐も山頂会食に優り、神は使徒らに手を下す理由をまったくもたない。それは、象徴を超え、実体としてキリストの血を飲み、肉を食しているからであろう。民イスラエルは岩から飲み、マナを食しているが、これは意義において山頂会食に及ばない。イエスも「マナを食しても人々が死んだ」ことを指摘する。山頂会食者も死んだ(特にナダブとアビフ⇒ユダ)が、模式的「天」に招かれ、「人々の賜物を与えた」の句の背景を成した。(聖餐に与る者に賜物が与えられ、それが初代エクレシアを益した)
そうなると、過越しの食事は旅装での出立に備えた食事という要素が強くなり、そこに長子の贖いが模式的に示されたに過ぎず、その対型は相当に偉大な事象をもっていることになる。したがって、地上での年毎の聖餐は「主の死を告げ知らせる」こと、また、聖徒の現れを待つということに意義を置かれる。それはなお、大きな成就を待つ予型でしかない。
『わたしたちの過越』 過越はなぜ過越か? 過越は主の晩餐を供えるものとなったので、主の晩餐の背景を与え続けている。それが『神の子羊』としてのキリストを指し示すと共に、その犠牲がもたらす聖なる民を特定する働きを持っている。 だが、キリストの二度目の陪餐に至るまで、最終的な聖なる民の確定には至らない。この点で、過越と主の晩餐は二つながらに部分でしかない。すべてが成就するのは、天界の会食、つまり、キリストが予告した、十二使徒らと共に十二部族を裁くことにより、『神の王国が到来する』ときであり、それまで主は葡萄の産物を口にしないと言われた。その意味は、祝いに与ることはないということであろう。それほどに、主にとって次なる十二使徒との陪餐が待たれるということではないか。それは、神の右に座して待つ御子の状況を彷彿とさせる。時が至れば、十二人と共に王国の中核が形成され、十二部族が招集されて、いよいよキリストの王国が建国され、聖なる民と共にキリストはシオンを救うべく諸国民との決戦に向かうことになる。
となれば、その選びは、ニサン14日の後になるのだろうか?(何かの脱出があるか?) 聖なる民の確定は五十日後なのだろうか?(三日前に滅ぶ?) では、ティシュリ10日には何があるのか? ダニエルも短いと予告するが、本当にそこまで短いのか!やはり一年未満とみるべきだろうと思える。恐るべし!シャロッシュレガリーム
まだ、充分には信じられないが、そうなると、地上での聖餐の最後の一回は、非常に重いものになるだろう。天界と地上の双方で主の晩餐が行なわれるということになる。
シナイの会食と聖餐は対置されるもののようである。共に契約に招かれた人間に対する神の善意があり、そこには、それぞれの契約がもたらす贖罪の効果が発揮されていたのであろう。但し、ニサン14日の聖餐についても、シナイ会食と共に予型を示されただけであって、満たし(成就)には至っていない。
ルカ福音では、エレメントの双方が二度目の成就を待っており、アルトンについては、それが過越そのものを表している。(それゆえにも無酵母パン以外に考えられず、無酵母パンにする以上はニサン14日に行うことが要請される)
そうなると、「証印」とは、明言されない限り、聖霊を指すとは言えなくなるか?アッラボーンを「証印」と訳しているのはエフェソスだけか?
モーセが石版を賜るのに40日(2)、それは証しとなった。
イエスは40日をなお地上に過ごした。
シャブオートでアロンが潅油されたという伝承は何に由来するか?
やはり、聖書は新旧に関わらずヘブライのものというほかない。
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五王同盟・・救援
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