Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

「今から後」

以下、再録

 

『今から後』[τη ημερα] [ απ αρτι]
パウロが生涯の終りに近づき『今から後、わたしには・・』2Tim4:8と語ったときには、十二使徒が最後の晩餐で到達していた是認に達していた可能性がある。もしそうであれば、黙示の「今から後、死ぬ者は幸い」Rev14:13に関連があるのかも知れない。十二使徒は、一人を除いてその後の生涯を送ったが、その後に抜け落ちた者について知らされていない。
またこれは、聖徒に優った彼らの立場(聖徒を裁くという)と合致する。
最後の晩餐の時点のふたつの義認が神に予見されている。ひとつはキリスト・イエスの犠牲の死への義であり、もうひとつは十二使徒の11人に関する生涯の忠節による義と言える。(Lk22:69)
パウロが『今から後(今や)』と言ったとき、最後の晩餐に於ける十二使徒のような状態に入ったのか?
では、黙示録の残りの者らについても、神の予見の内に入った事を言うともとれる。Rev14:13
最後の晩餐に至るどこでその信頼が確定したのか使徒らは理解していないJoh14:22
しかし、パウロは死期を悟っていたときに、何かの実感があったらしい。
同様に、『今から後に死ぬ死人は幸い』という黙示録の言葉は、野獣の像の崇拝が興った後のどこかで聖徒らの信頼が確定するという情報を黙示録が与えていることになる。それは間違いなく天界への召しに先立っている。『彼らの業は付いて行く』というのは、すでに信頼に至ったことを言うのであろう。それがそのまま天への復活を意味すると理解することをテサロニケへのパウロの言葉が補強する。1Th4:16