Notae ad Quartodecimani

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パリンゲネシア マタイ19:28

[παλιγγενεσια]<名)属女単>

新約聖書中で使用例は二回のみ

『イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。』Mat19:28

『 わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。』Tit3:5


マタイでは、この世が終わるに際し、その権威が神の王国に移行する時期の事象について述べる。
テトスでは、イエスの水の浸礼による人の内面の変化について述べる。<『聖霊により新たにされる』は[ἀνακαινώσεως]で意味の単純な語。(ρουτποω「洗い」が先行)>
これは『キリストと結ばれた人は新しい創造物である』とのパウロの言葉の意味の実際上の成就となる霊体への変化を「再創造」としていると捉えられる。

「再創造」はまず使徒をはじめとする聖なる者らが、霊の創造物とされ天に招集される段階を指すことばとして用いられている。
従って、死せる聖徒については霊体への復活を意味し、生ける聖徒については『一瞬にして変えられる』事態を指すことになる。
これは『罪』なき状態への「回復」(アポカタスタシス)とも関わりを持つ。

敷衍して、一般の死者の復活も『罪』の赦しを伴って行われることからすれば、やはり「再創造」ということになり、「復活」という奇跡そのものが「再創造」の意義を持っていることになる。
そうでなければ、死者はただ蘇生されるに過ぎず、永遠の命の可能性はないことになり、また神の業は不完全であることにもなる。

[ παλιγγενεσιας ]
AV - regeneration 2; 2 1) new birth, reproduction, renewal, recreation, regeneration 1a) hence renovation, regeneration, the production of a new life consecrated to God, a radical change of mind for the better. The word often used to denote the restoration of a thing to its pristine state, its renovation, as a renewal or restoration of life after death 1b) the renovation of the earth after the deluge 1c) the renewal of the world to take place after its destruction by fire, as the Stoics taught 1d) the signal and glorious change of all things (in heaven and earth) for the better, that restoration of the primal and perfect condition of things which existed before the fall of our first parents, which the Jews looked for in connection with the advent of the Messiah, and which Christians expected in connection with the visible return of Jesus from heaven. 1e) other uses 1e1) of Cicero's restoration to rank and fortune on his recall from exile 1e2) of the restoration of the Jewish nation after exile 1e3) of the recovery of knowledge by recollection

ヘレニズム期に「パリンゲネシアス」は、異教秘儀の用語であり、密議参入者の変化を指す。マタイ自身がこの語を用いたのには、何か終末の特殊な事象を指そうとしたのかも知れない。どうやら、「改まる」のは「世」ではないようだ。該当本文に「世」に相当する語が無く、これは欽定訳が"the regeneration"と訳し口語訳もその意に準じたということなのであろう。ギリシア語辞典にも、「世の更新」が示されているが、ここは紀元1〜2世紀の用法やコイネの読者の視点に立つ必要が強いように思われる。
二つの句には、共に聖徒の変化が関わっているが、特にマタイの方は意味深にとれる。この内容はルカ22章にキリストと使徒らの契約として出てくるが、イエスは本件を他の場面で語っていたことになり、且つ、マタイがギリシア語に置き換えるに当たり、単なる「世の改まり」以上の意味を込めていたことを注意する必要がある。それは単に『世が改まる』という意味ではない可能性が非常に高いのではないか。

おそらくは、マタイの場合には、天界への復活を、テトスでは『キリストの命に生きる』変化を指しているのでは?共に聖徒の変化を述べており、徒ならぬものである。しかもテトスはギリシア人。
<エレシウスの密議でのパリンゲニシアスは、まず身を水で清めることが求められたが、それは永遠の清浄と幸福を意味したと。コリントスの近傍>


一方でルカは「アポカタスタシス」を用いてマタイの「パリンゲネシアス」と同じ事柄を示している。
[ἀποκαταστάσις]
AV - restitution 1; 1 1) restoration 1a) of a true theocracy 1b) of the perfect state before the fall

⇒ 「アポカタスタシス

こちらはマタイの使用例と共通している。
[ὃν δεῖ οὐρανὸν μὲν δέξασθαι ἄχρι χρόνων ἀποκαταστάσεως πάντων ὧν ἐλάλησεν ὁ θεὸς διὰ στόματος τῶν ἁγίων ἀπ’ αἰῶνος αὐτοῦ προφητῶν.]

このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。(使徒3:21)

この語はマタイで似た用法があり、17:11でエリヤによる「回復」に用いている。あとは、どの筆者も癒しで「元通りにされた」の意味に使用。

ほとんどの翻訳は、これらの語の意味を図りかねているように見える。これは肉体を去って霊体に復活するという秘儀の理解を要するので、聖書筆者も特殊な単語を敢えて用いたと思われる。それは単なる蘇生のようなものではなく、『格別な復活』だから(フィリピ3:11)
それは人が人になるのではなく、創造物としての最高の存在に生まれ変わることになる。


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「神を讃えて言う」[ἐδόξαζεν τὸν θεὸν] エドクサゼンは、新約中広く用いられている。⇒ LXX
ヘブライ的誓約の習慣が第一世紀までに定着していたのでは?それがギリシア語に置き換えられた?

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完全」について ⇒ 以前の記事

倫理的完全さは初穂たるキリストによって最初に証しされ、神は神となった。
それに聖なる者らも契約を全うして続くことになる。
最終的に知的存在者で永生を受けるのは倫理的完全者だけであるが、その条件は道徳規準に達することでは有り得ない。(ここでヨブを持ち出すのは全く間違っている)
アダムの子孫に求められる完全さは信仰の忠節な愛であり、それはダヴィドの生涯も証しする通りである。
アナニア夫婦が許されずダヴィドが許されたことはここに起因する。
またウザが一撃で打たれたことは別問題であり、この手の死は他にも少なくないが、復活が無いとは言い切れない。

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ヨブ記は契約外の人々がどれほど道徳的であったとしても神の前に『義』を得ないことを示した。
一方で、律法契約を全うすることによって『義』が得られるはずではあった。しかし、律法契約に咎めるところあり、『新しい契約』という補完契約の必要があった。
律法契約中でのレヴィ人に一定の道徳的清さが要求されていたように、『新しい契約』に与る民にも一定の道徳性が求められ、それは『キリストの律法』と呼ばれた。なぜなら、その規定により彼らが契約を満たすことができるからである。彼らは『シミも汚点もない、清らかな者として見出される』必要があった。
他方、キリストが義の上で完全な者となった時点でサタンが天界の地位を失わなかったのは、キリストと共なる者らの義が確立されていなかったからである。
しかし、『新しい契約』がその働きを果たし終えた時点、即ち『奥義の終了』によって、義なる民の全体が確立されることによって、サタンは天界の場所を失い、彼の訴えも効力を失うことになった。その理由は、サタンがまったく間違っていることが証明されたからである。
『仲間の兄弟全体の中で成し遂げられている事柄』というものが、忠節の全うによる契約の遵守であったのであれば(まずその通り)、キリストの兄弟らの成し遂げるべき事柄とは、神の前に義なる民としてキリストを基に構成されることであった。
それが将来の終末に確立される時というのは、本来は聖徒の天への召集の時点であるのだが、黙示録12章によれば、終末に契約に与る者らの出現、『女が男児を生み』『神の許へ』預けられる時点とされている。このタイムラグはなぜか?
確かに、聖徒の最後の者らが試みを受けるためにサタンの誘惑も必要ではあろうが、初期聖徒の場合には、試みは受けたにせよ、サタンの失墜までは起こっていない。
終末には、『背教』と「世俗全体の反抗」の必要があるので、サタンの失墜が起こるのか?
では、聖徒全体の登場によってサタンの天界の地位が失われるのは何故なのか??
Ans;試みは終わってはいなくとも、聖徒に選ばれる全員が出揃った事では、天界の神殿の完成は確約されたことになる。それを「奥義の終了」と見做すことも不可能とは言えない。つまり、象徴のサラはすべての子らを生み終えている。そこに何か意義があるらしい。

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未だ法典が効力を発揮しなかった時代
宗教の教理が社会に秩序もたらし、権力がそれを支えた
アブラムが、異邦人を信用しなかったのは、諸国の神々の徳性に問題を感じており、その風習に充分な倫理性を見なかったことによる
律法はその中でYHWHの倫理性を表したが、キリストはそこに人の達成不能なほどの高さを演繹した
だが、律法を「負いきれない頸木」とペテロは述べ、パウロは「キリストは律法の終り」と云う
キリスト教の本領は、罪を認め、神の手立て「神の王国」に信仰を置く事にある
だが、今日のキリスト教宗派には、新契約に伴う道徳性を一般信者に課するところあり、それは教導者ですら守れない重荷にしかならないが、それは、古代に社会道徳を規定した諸国の異教のような役割を、現代に再び働かせようとするようなもので、原始的宗教への後退ではないか?

しかし、人を裁くのは容易く、人を愛するのは難しい
稀に、良くも悪くも、その逆の人もいる
怒りと愛は、人間の最も制御が難しいもので・・

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『今から後』
パウロが生涯の終りに近づき『今から後、わたしには・・』と語ったときには、十二使徒が最後の晩餐で到達していた是認に達していた可能性がある。もしそうであれば、黙示の「今から後、死ぬ者は幸い」に関連があるのかも知れない。十二使徒は、一人を除いてその後の生涯を送ったが、その後に抜け落ちた者について知らされていない。
またこれは、聖徒に優った彼らの立場(聖徒を裁くという)と合致する。
最後の晩餐の時点のふたつの義認が神に予見されている。ひとつはキリスト・イエスの犠牲の死への義であり、もうひとつは十二使徒の11人に関する生涯の忠節による義と言える。
パウロが『今から後・・』と言ったとき、最後の晩餐に於ける十二使徒のような状態に入ったのか?
では、黙示録の残りの者らについても、神の予見の内に入った事を言うともとれる。

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「己の智きに頼るなかれ」Pr3:5とキリスト教は教えるか?
律法契約や新契約で神の介入のある場合には、そのように言えることがあるとは思えるが、聖霊の指導もその対象者も必要もない今日に、誰かがそう言うとすれば、それは騙りではないか?
「判断力を働かせずに、ただ従え」と言う場面は旧約でも相当に限られたところ、つまり、自己判断が邪魔になる僅かなケースを指していたのであり、それは律法の字面とは異なる行い(祭司アヒメレクのような)さえあったのでは?なぜ、彼はそれが出来たのか?
福音者には、ガブリエルの言葉を信じなかったゼカリヤの例を挙げられる。
アブラハムのイサク献供はこれに含まれない。彼は自己判断を下していることをパウロが書いている。
箴言3:5の前には、律法の言葉を守ることによる祝福を述べており、「洞察力を得よ」ともあるので、『自分の分別に頼らず』とは、「自分の律法」のような「やり方」なり「より良いと思われる方法」を避けよと言っているのではないか?そこで「律法の言葉通りにすることを守れ」と言っているのではないか?
とすれば、この句は宗教家が信者に用いる非常に狡猾な手段ともなり兼ねない。「自己判断を捨て教師に従え」とすることで、信者は人格も自由も踏み躙られる。






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