Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

誰がアデルフォスと呼ばれたか

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使徒10:23「ヨッパの兄弟たち」
使徒10:45「割礼を受けた信じる者ら(ピストイ)は」


①の「兄弟ら」はこの場面ではユダヤ人を指すかイエス派信徒を指すかは厳密には分からない
②では当然ながら彼らがユダヤ教徒であることが分かるが、ペテロと行動を共にした以上イエス派であることも分かる。しかし、ピストイが「信頼に値する者ら」なのか「信徒ら」なのかが分からない。
「信頼に値する者ら」とするなら問題が回避される
「信徒ら」である場合には難題がある
その場合、ペテロに同行したユダヤ人らは聖霊を受けていない状態で、コルネリウスらに聖霊が注がれたことに驚くことになる。
そうなると「兄弟たち」とは聖霊の注ぎに関係なくイエス派信徒は「兄弟」となる。
ルカが「信頼に値する者」として「ピストイ」と書いたなら、それはペテロに従って異邦人の家にまで入り込んだ行為を褒めてのことだろうか。よほどの信頼が必要であったと思われる。律法の条項を共に冒すからである。

Act 10:23
καί τινες τῶν ἀδελφῶν τῶν ἀπὸ Ἰόππης συνῆλθον αὐτῷ. 【NA28】
and some brethren from Joppa accompanied him. 【NKJV】
ヨッパの兄弟たち数人も一緒に行った。【口語】

Act 10:45
καὶ ἐξέστησαν οἱ ἐκ περιτομῆς πιστοὶ ὅσοι συνῆλθαν τῷ Πέτρῳ, ὅτι καὶ ἐπὶ τὰ ἔθνη ἡ δωρεὰ τοῦ ἁγίου πνεύματος ἐκκέχυται· 【NA28】
And those of the circumcision who believed were astonished, as many as came with Peter, 【NKJV】
割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、【口語】

1Cor5:11
νῦν δὲ ἔγραψα ὑμῖν μὴ συναναμίγνυσθαι ἐάν τις ἀδελφὸς ὀνομαζόμενος ᾖ πόρνος ἢ πλεονέκτης ἢ εἰδωλολάτρης ἢ λοίδορος ἢ μέθυσος ἢ ἅρπαξ, τῷ τοιούτῳ μηδὲ συνεσθίειν.
But now I have written to you not to keep company with anyone named a brother,
しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。【口語】

コリント第一5:11「兄弟と呼ばれる者で」は6章以降まで見てゆくと明らかに聖徒であることが分かる。この場合の「兄弟」とは単にイエス派の信者を意味しない。ただエクレシアの大半が聖徒であった。

ヘブライ2:11イエスは「兄弟たちと呼ぶことを恥としない」と言う。その理由は諸国民であっても神殿域も聖所に在るかのように「御名を告げ知らせ」るのであって、「隔ての壁を破った」(エフェソス2:14)という。
書簡の書かれた当時(55年頃)のコリントスの状況はユダヤと非ユダヤが競り合うバランスであったろう。エフェソスについてはパウロは四年以上エクレシアと接していない。それは62年頃に書かれたとすると、既に聖徒の減少をパウロは考慮したか?(コロッサイも同様)或いは、エフェソス人への手紙はエフェソス人に宛てたものではなかったという古写本上の線が濃厚になってくる。

ともあれ、パウロについては「アデルフォス」というときには高い確率で双方の民の「聖徒」を指している。

コロッサイで言及される当地の人物はアルキポとヌンファのみ
エフェソスの現地の人物への言及は無し(だがそれはフィリッポイも同じ)やはり「エフェソス人への手紙」は「エフェソス人への手紙」ではなかったのでは?


パウロに従おうとすると、「アデルフォス」と呼びかける相手は「聖徒」となる。
これは遅くとも第四世紀には信徒は誰彼なく皆「アデルフォス」となっていることを確認できる。(H.E) というよりも聖徒が絶えて居ない。
これは重要な事で、聖徒の減少、即ち聖霊の奇跡の退潮について当時のキリスト教会は正直に対処はできなかったというヴィジョンがここから展開される。
減少が緩やかであればあるほどに、地方差などが現れることになり(現に「イザヤの昇天」の記述が示すように)「アデルフォス」の呼称が曖昧に用いられるようになったか、元来、パウロの意図が理解されていなかったとも考えられる。


もうひとつ「主にある者」をパウロは使っている。原意「主とひとつである者」これもヨハネだけでなくパウロの論旨からも聖徒ということができる。(ローマ8:1.9-10)
Rm8:9-10 Ὑμεῖς δὲ οὐκ ἐστὲ ἐν σαρκὶ ἀλλ’ ἐν πνεύματι, εἴπερ πνεῦμα θεοῦ οἰκεῖ ἐν ὑμῖν. εἰ δέ τις πνεῦμα Χριστοῦ οὐκ ἔχει, οὗτος οὐκ ἔστιν αὐτοῦ.
εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμῖν, τὸ μὲν σῶμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν τὸ δὲ πνεῦμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην.
But you are not in the flesh but in the Spirit, if indeed the Spirit of God dwells in you. Now if anyone does not have the Spirit of Christ, he is not His.
And if Christ is in you, the body is dead because of sin, but the Spirit is life because of righteousness.
もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。

但し、新共同の8:1の『わたしはキリストに結ばれた者』の「結ばれた」は9:1のような箇所と共に意訳であって原語で該当する言葉は無い。


ペテロ・ユダ・ヨハネが「アガペトイ」を多用しているのは、聖徒の減少が背景にあるのでは・・
そうなると、「アデルフォス」と呼び合う仲間内が特権化してきたのを晩年の使徒らは避けようとしていたのではないだろうか。

いずれにせよ、「新しい契約」が関わる以上、信仰の仲間をそのまま「兄弟」と呼ぶことは憚られる。もし、原始キリスト教に則って仲間を親愛を込めて呼ぶなら「愛する者よ」となるが、日本語の場合には誤解され易いように思える。いや、まったく誤解される。これは世俗の慣例のままで良いようだ。



⇒ アデルフォスとアガペトスについて




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☆信徒同士が「兄弟」と呼ばれるべきか
・兄弟はイスラエルの中での同朋を意味した。(Deu:15:12.17:15.18:15/Act10:23)
エドム、モアブ、アンモンを「兄弟」と呼ぶこともあったが、律法の保護が与えられたイスラエル同朋とは別格とされている。(Deu24:7)
・イエスが『「兄弟たち」と呼ぶことを恥としない』とは、非イスラエルの信仰の仲間をひとりの人キリストから出ているゆえに、ヘブライ人が兄弟と呼ぶことをキリスト同様に恥とするべきでない、ということを指しており、これはやはり聖徒同士の呼び名であることが分かる。
そこで、水と霊から生まれていない以上は、『神のイスラエル』に含まれるとは言い難く「兄弟」の呼称は「新しい契約」に与る者に限られる。
そうすれば、コリント第一5:11などの言葉が全体の理解として収まる。
信仰を同じくするという理由だけで「兄弟」と呼びかける理由はない。しかし、コルネリオ以前にイエス派内部では、信仰を同じくする仲間のユダヤ人を特に「兄弟」と呼んでいたようだ。新約聖書だけを根拠にする場合、その習慣が聖徒のいない後のキリスト教世界の習慣になったであろうことは容易に想像される。


ハーシッド

浸礼は(備えのできた状態を示すのであって)終点ではない



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