Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

共通する誤謬


信徒が既に裁きを通過しているかのように請け負う(人集め)

聖徒の義務を交換価値として用いる(代償による実感)

すべき事を条件化し、都合よく使役する(隷属化)

求道する前に目的がある(利益で釣る)

自分で聖書を探求しない(また禁ずる)

聖書を論じつつ意味を知らない(無関心)

極端な聖書主義(偶像化)

学究が定型化している(権威主義

教導者が取り澄ましている(人望を作るため)

聖人君子を気取る(パリサイに同じ)

他派への誹謗(自派の底上げ)悪い他者を必要とする




◆改善されるべき観方
正当化のために特定の規則を設ける
 もし、同じ規則を持つ派があればどうするか
 「気をつけるべき」との発言あり
 差別化の必要を感じて違いを捜しそこに正しさを見る
 

知識を誇る
 知識を得ることがそのまま信仰なのではなく
 知識が人の価値を上げることもない
 道徳的程度は誰もあまり変わらない


神の悦納に入るために善行するのではない
 代償ある善行は隷属にあり、アガペーの自由に至らない
 アガペーは自由のないところに起こらない


奉仕活動のために人間関係を壊してはならない
 人間の生活様式はアダム以来動かし難く、神はそれを知る
 神と人を愛することは、どちらかを犠牲にするべきでない
 見える人を愛せない者が神を愛せるか
 身近な者の必要を満たすことは十二分に行うべき


自分がより神の是認に近いわけではない
 自分と同じ信仰や知識にない人々であっても裁きは将来である
 そこでどう裁かれるのかは誰にも分からない


自らの信仰から語る
 受け売りの知識で自分の判断ができないようでは信仰とは言えない
 誰かの判断を仰いでから返答するようなら心からは語れない




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マルクス人間性の解放を説いたときの「神」は「科学」であった。その預言は中産階級の没落と労使関係の二極化、国境の消滅などだったが、どれも実現しなかった。
マルキシズムを掲げる政権は「科学」を神輿に担いで繰り出したが、残ったものは独裁と圧制だけだった。
ソビエト・ロシアはマルキシズムを止めたが、独裁制の精紳は残している。共産中国も不完全ながら資本主義に走り、実質的にマルクス経済学とは決別しているが、やはり独裁は残った。つまり、マルキシズムの暗部だけが残されたのである。それは為政者の都合でもあるが、民がそれに代わるものを提出できるまでに全体としては成熟していない。
そこで重要なのが民衆の意識だった。民主主義には多年にわたる民の自覚の育成が必要であったが、教育がそれに追いつかず尊厳を持てず、政権の卑屈な番人でしかなかった。
ものみの塔を観るに、「エホバ」という神を担ぎ出した。だが、それは聖書の神の像から少しづつ離れてゆき、指導部に都合の良い決定を下す「神」になり果てている。
その教育もプロテタリア独裁の教育システムのようであり、個人の判断力を育てず、むしろ、組織の統制を行き渡らせるためのプロパガンダとなっていった。
そこで憂慮されることは、ものみの塔という圧政から離れても、その民であった人々には、自己の尊厳ある情報リテラシーまた意思決定のプロセスに不慣れであることと言える。神との相応しい関係性よりは、何事もその支配下に入ることばかりに努める人間となってしまっているのである。その惰弱な精神を煽ったのは疑いもなく「滅びへの恐れ」と「楽園」とされるご利益信仰である。それは圧制国家の粛清と実現することの無い理想国家建設の夢想にぴったりと一致する。
ものみの塔の指導者は一種のユートピストであったが、その夢は共産主義と同様にもはや打ち砕かれて、独裁だけが残っている。

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「自分たちは正しい」と主張したきり、他の声を聞かないというのは・・
それでは、どこがどう正しく、どこがどう間違っているかも分からないのでは?
批判は聞かない、しかし、主張はする、というのでは初めから対話の意志はなく、自分を超えるものは一切認めないという態度であり、進歩というものを拒絶し、自分より知識の無い者だけを相手にして、しかも神の超絶性を自分にまとわせていることになる。つまりは、自分はしるしの無い神の代理人であると言うのと同じではないか?本当にそれで良いのだろうか。。加えて、知識ある者、反論を加える者をみな背教者というのはどうなのか? つまりは自分たちの見解が神のものだと言ってはいないか?

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・神の王国を生活の中で最優先させるなら,物質面での必要について何も思い煩わなくてもよい

・神への献身にふさわしく生きている人にとって,最も大切なのは神のご意志を行なうことです。生活の必要物を入手するための世俗の仕事は副業,すなわち重要度の点で二次的な活動です。使徒パウロの場合のように,その本業,もしくは主要な仕事は,クリスチャン宣教です。

・「思い煩うのをやめなさい」と聴いたユダヤ人は何をしたのか?「地上に宝を蓄えるのをやめなさい」
所見:山上の垂訓6:19- は、貧しさで心が押しひしがれることへの解放を意図している。この聴衆の状況は、「明日のパンを思い煩う」ほどの経済状態にある。キリストの言葉は、彼らへの憐れみと共感に満ちている。これは当時の宗教家らにはまるで必要も無い言葉であったろう。
そこで、まず思い煩うのを止めることによって、生きるために焦り、徒労を恐れるという民衆の陥り易い状況に心のゆとりを与えることに主眼がある。その関連から文脈では、「二人の主人に仕えることはできない」ことが示され、ただ貧しさからの慰めを与えてはいない。「王国と神の義」は、その心の向かうべき方向を指し示す言葉であった。「そうすれば必要物は何でも与えられる」という呪文のように捉えてしまうと、「第一(プロトス)に求める」はユダヤ人の場合に、当時その民族の到達するべき目標であった。それは彼らにだけ、また彼らによって成し遂げられる神の義であった。
この言葉は大いに利用されやすい。契約の外にいる人が「王国と神の義」をどう第一に求められ、そのような生活ができるのだろう。そこに自分の解釈による「王国」の求め方が生じ、生活苦への慰めの言葉を踏み越えて、せっかくに比較的良い生活状況にあったにも関わらず、何かのあらぬ行動に駆り立てられ、自虐的に貧しい生活を余儀なくさせるとしたら、それはキリストの講話の要旨から逸脱しているばかりか、余分の困窮者を造り出していることになる。それがものみの塔統一教会の信者の置かれた状況となっている。「王国と神の義を第一に求めよ」の言葉が文脈から切り取られて、自分たちが酷使また搾取される口実のスローガンと変えられていることに、どうしてこうも多くの人々が気付かないのだろうか。彼らにとって「王国」とは、人の労力によって世話されねばならない弱々しいもので、そうさせることは「神の義」とは到底成り得ない。そこに神の側の全能性が疑われているばかりか、見下げられてさえいることに気付いた様子もない。結局は「王国」ではなく、その言葉に騙されて人の奴隷となっているばかりではないか。

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神の国と神の義をまず求めよ、然すれば加えられん」
この言葉を安易に受け取れば、劇薬とも成り兼ねない。そこで様々なストーリーの捏造ができるからである。
ものみの塔は、自分たちの教理を広めて組織を拡大することが、神の国を求めることであり、そうしていれば生活は成り立つというストーリーを作ってしまった。新約聖書中に当時の信者らが戸別伝道を主にした形跡は無い。またその生活が専らにキリスト教徒のものであったという証拠も無い。エパフラスのように自発的な宣教が行われていたにせよ。それはユダヤ人の会堂、次いでエクレシアを通したものであり、他にはフィリッポスのように聖霊を直に介するものが挙げられる。また、パウロが生業を捨てなかったのも、周囲への負担を掛けることを望まなかったからであり、彼ほど神の国と神の義を第一に求めたと言える者もないが、使徒らも一律に生活様式を決められていたわけではない。教育をどの程度受け、どのような仕事を持つべきかを決定するのが本人によらず、組織が模範的生活様式までをも指定しておきながら、いざとなれば強制ではなく、自発的なものだったと言うとすれば、それは倫理的整合性を欠く、平易な言葉で言えば、「卑怯極まりない」。それが宗教という人が尊敬を置くべき分野でなされるのであるから、その酷さは著しいものになる。その「善良さ」は表面だけの偽りであり、神の前に咎となる性質のものである。








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