Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

アウグスティヌスの自由意志と原罪の把握

「自由意志」Ⅲで論じられたが
罪悪は「自由な意志決定によって犯した原罪から生じている」
アダムからの遺伝が強調されるのは「自然と恩恵」の中であり、ローマ5:12が根拠とされた。
神の国」では、「神は人間を従順の義務を完全に果たすならば、死は介入する事なく、天使の不死と永遠の至福とが与えられるようにと創ったのである」13:1
「人間は自分から進んで堕落し、その結果、正当に罰せられ、同じように堕落し、罰せられた子孫を生んだのである」13:14
死とは第一には、神への不服従によって霊魂(?)が神から離れることであり、第二には、霊魂が味わった「転倒した自己の自由の喜び」が引き金となって、次に肉体が霊魂から離反を生み、「もし服従に留まっていたなら、常に為しえたはずの肉の支配がまったく出来なくなった。その時から、霊に逆らう肉の貪りが始まった。このように自由意志の悪用から一連の禍が生じた」14:13-14
では、人間は罪のゆえに正しい善い者となる見込みは断たれたかといえば、信仰によって正しい者とされるという。
「神の義」とは、神が所有するものではなく、神が罪人に無償で賜る義、つまり愛である
「われらの心に注がれていると語られる神の愛とは、それによって神がわれらを愛する愛ではなく、むしろ、神がわれらをして神を愛する者と成し給う愛なのである。同様に神の義とは、それによってわれらが神の恩賞として義人とされているものであり、主の救いとは、それによってわれらを救われた者と成すものをいう」霊と文字32:56
だから、義認は義化で聖化をも含むと
それで、信仰も人間自身から出たものでなく、神の恩寵であるとも
(これはペラギウス論争による)
人は恩寵を注がれることにより、その助けによって、人の努力は善人へ、さらに聖人への生へと結実してゆく
「上昇の七段階」
Mt5の八つの幸い(真福八端)と関連付けて、魂の完成に至る七段階があり、八つ目で最初に戻るという。この七つは「キリストの教え」でも反復されている。





所見;パウロの実直さとは異次元で聖書をヘレニズムで焼き直している。それと論議が半哲学的で、ロマン性と理想主義に流れている。
原罪論では、以後のキリスト教界の基礎を据えたようだが、パウロを理解し、それに付け加えたというくらいか。
ただ、義認については、聖徒への義の仮承認の理解はない。そこで信者全体に神の義が獲得可能にされている。修道制への示唆あり
だが、人を『義』とするのが『信仰』であるとするのは、パウロの字面を追っていて本質からずれている。人に『義』をもたらすのは、キリストの獲得した『義』を原資とする『神の王国』による贖罪であり、その前段階として『聖徒』への『肉の幕屋』を去ることを条件とする「義認」がある。この点ではやはり『罪の酬いは死』と言える。それゆえ『聖徒』の霊への復活は『再創造』と呼ばれるのである。
それから、アダムに求められたのが「服従」であったとするところは、以降、キリスト教界の大部分が影響の内に留まってきたが、これは根本的に間違っている。求められたのは「ヘセド」であり、敢えて訳すなら「忠節な愛」になる。[従順の義務]というのはまったく的外れで、凡庸にも「倫理」を規則化してしまう陥穽に落ちている。これほどの思想家にしてはどうなのか。


アウグスティヌスの言うような「信仰」が人からのものであく恩寵であるとするところは、信者が強烈な選民意識を持つことを助長する危険は考えなかったか。もし、神が信仰を与えるというのであれば、救いは各個人に対する神の好き嫌いで決まることになり、本人に参画する余地がなくなり、信仰を持っていないその人が何のために創造されてそこに居るのか意味がないことにされる。これは極めて排他的で自己欺瞞的教えというほかない。神も不信者も眼中になく、ただ自分を有難がっている、パリサイ的で有害な教えでしかない。
それから、キリストを神と捉えるせいか、キリスト自身が到達した義の完全性への理解は無いようだ。これは三一を採る場合には不可能なのだろう。
義認をもたらす信仰そのものが、神に発するものであるというなら(これは相当問題がある)、神を不公平だと言っていることになり、キリスト教の伝播していなかった地方の人々を考慮の外においている、(ここに理知的な日本人への宣教の失敗の根がある)また、エデンの二本の木の選択と、神の不干渉に意味がなくなるが・・ペラギウスを論駁しているうちに別の極端に流されたか(論駁するうちにバランスを失うというのは、他にも例があったが、いますぐには思い出せない)

人が努力で善人から聖人への生へと結実してゆくのなら『神の王国』の贖罪の必要はどこに出て来るか?それで彼の「神の国」のヴィジョンがあれほど曖昧なのか。理解していないことはとことん弄り回してなんとか神秘性に持ち込んでしまう。そこで著作が猛烈に長くなっているのでは。だが、論理の構造そのものは平板で、人の思惑を超える領域を主体に扱うものではなさそうだ。

アウグスティヌスの思想の主題のようなものが何かと言えば、善良さを装った神秘主義のように見える。彼は神から是認されていると思い込んでおり、神が自分を救ったと勝手に感謝を始めている。神が義化したのだから、自分は聖なる立場にいるものと思い込んでいる。これは彼自身が、旧約からの『女の裔』また『アブラハムの裔』が何者であるのかを理解していなかったことを露呈するものとなっている。エイレナイオスの千年期を否定できた背景には、聖書全体に通底する奥義を知らなかったこと、また当時には、既に聖霊が地上から去っていたこともその思い違いから明らかである。

おおよそ、彼がキリスト教界の土台の理解を作ってしまったので、この膨大量の著作の山を前に、その本質的誤謬を突くほどの一個の知性はついに現れなかった。しかし、ルネサンス以後、ヘブライ語聖典理解が進むに従い、徐々にアウグスティヌス論議の瑕疵が言われ始め、宗教改革期にはこの壁を乗り越える者らも現れたが、主流派とはならず迫害によって退けられてきた。
アウグスティヌス自身、三一の理解に苦しんでおり、的確な論理を示せず冗長な文書によってごまかしている。後の人々も「玄義」ということにして、やはり神秘主義の霧の中に隠して人に説明をしないで来た。
こうした事柄を総合すると、第四、五世紀のこの一人の神秘主義者に、キリスト教界はあまりにも寄りかかり過ぎている。そのためフィードバックが行われず、修道の闇の中に言い含められてしまった。
人を称揚することで、キリスト教そのものを更に気高いものにしたつもりだろうが、そうすることそのものがキリスト教のものではない。多くの教会で指導者を崇めるところがあるのは、実は、聖書が理解できない裏返しであろう。理解できるなら、人の解釈を必要としないからである。
そこで正しいアプローチは、不明なものを不明なままにし、人の解釈によらず、聖典と史料と文化と歴史を語学に尋ね続ける以外ない。なぜなら、現在まで聖徒が絶えて人類には聖霊が無いからである。



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