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教会のキリスト教についての雑録

教会のキリスト教についての雑録

 

・目的は何か

信者が神に近付き、是認や親密さを得て、信者については地獄行きを免れ、天国行きを確定させることにある。

<早速、この段階で指摘するべき誤謬が幾つも見えているが>

つまるところ、信者個人の益のための宗教である。

 

だが、教師の目的はそこにない。教師の意図は信者集めと資金獲得である。

教会堂を維持し、教団に上納し、かつ自分の生活を成り立たせるのに、日本の宗教環境ではかなり厳しい。

そのため、ますますご利益信仰の面が強められるきらいがある。また、結婚式場のチャペルでのアルバイトなど、本来のキリスト教ではない文化面を売りにする傾向は今後も続きそうに見える。但し、これは外人教師に人気がある。

仏教が葬式の宗教となっていったように、本来の部分が形骸化しつつ、派生的文化面で商業化するところは、その宗教の本質が社会に対して弱いという証と思われる。

 

・第一には、自分たちに与えられる祝福に酔っている。

これはキリストの自己犠牲の精神と同じ方向性にはない。

原因のひとつには、洗礼を受けた「クリスチャン」という身分で、キリスト教の全体を見ようとするところにある。

そこから、自分たちはお目出度く神の前に格別な存在となったと思い込む。

神がアブラハムにその意図を告げた人類の祝福という経綸の成就としてのキリスト教という理解は皆無に近い。むしろ、利己的ご利益を得ることに関心が向いている。

そこで、自分たちも裁かれる『この世』の一部であるという意識は持っていない。したがって、アダムの罪は自分たちについては既に赦されているというパウロの聖徒に関する言葉を自分に語られたものと解釈している。(『新しい契約』が『アブラハムの裔』を生み出し人類を益するという理解がないため⇒「聖徒理解)

だが、おおよそ宗教を望んで信仰する大衆の動機といえば、「信じるメリット」であり、よそよそしいこの世に在って、自分がどう扱われるかに関心が向き易いのは自然な成り行きといえる。

だが、それはキリスト自身が示した生き方でも、使徒や初期キリスト教徒の精神でもない。どこで変わったかといえば、キリスト教のコミュニティ化、また大衆化を画したローマ国教化までにははっきりしていたのであろう。

三位一体説、天国と地獄、刑具の象徴、パスカのイースター化、俗説の混入などは、目出度い自己へのメリットを中心に飾られる異教のかき集めになっている。

教会が煽るのぼせた高揚感によって幾らかの活気も演出されるが、土台に誤解がある危険で終末の裁きがどういうことになるだろうか。そこに心配があるが、言っても聴いてくれるようでもない。自分が正しいのはメリットを失いたくないからで、神に関心があるでもない。まず「終末」をどうこう言うことそのものを「異端」などと断じる教会や信者もある。

 

・聖書偶像化と通読の奨励

新教系の「クリスチャン」が聖書をほぼ絶対視するのには動かし難い目的がある。それは自己義認であり、聖書はそのための道具となっている。

「聖書に書かれた通りに行えば、その人は神の是認に入る」という前提条件を盲信しているのだが、その動機は自分を義とし(かつては旧教を断罪して)「正しいキリスト教」を実現しようとすることにあるだろう。

何が正統かを巡り論争を続ける内に聖書主義者は「ヨブの罠」に落ちて行く。ヨブ記は「義なる者が苦難に遭う理由」を説明しているのではなく、「ヨブが自分の義を高め過ぎ、神の義を否定すべきでないことを悔いた」のであり、どんなに自分が義人に思えても、詰まる所『義人はいない』事を悟り、キリストの贖いに頼るべきことを教えているのである。

そこで聖書を自分の義のための道具としたい教会員は、聖書を絶対化したい衝動に駆られ、却って神を聖書の言葉に押し込めてしまい、神は聖書でないにも関わらず、その全能性を無視することになる。これはキリストに反対した当時のユダヤ教指導層の著しく誤った轍を踏むことになる。

また、この傾向は「聖書通読の奨励」にも表れている。本来、新教派は当時の旧教の聖書への無知と異教的慣行にプロテストしていたにも関わらず、聖書通読によって「聖書の中の巡礼」を作ってしまった。通読を何度行ったかで敬虔さを測るとすれば、それは教会員の蒙昧を促進し、教師の側の聖書への無理解が露呈するのを避ける便法になってしまう。

なぜなら、聖書理解は通読によっては甚だ不十分にしか得られないからである。聖書を知ろうと思えば、集中的に部分を研読し、次いで部分と部分とを比較し、歴史資料などを参考にしなければならない。しかも、聖書を読む個人の度量によっても得られるものは違ってくるのであり、聖書ばかりを読んでいる人には、人格的問題が避けられない。「聖書だけを読んでいれば良い」という発想は「異様な人間」を作るだけのことである。その人には人格というものが育たない。実際の人間というものに目を向けないからである。

 

・「聖書を読むと分からなくなる」という原因は、自己中心のアプローチで聖書に向かうからではないのだろうか。

やはり、神に祝福されるのが、この信者らの主要な崇拝目的となっている。それに関連して硬直的な「聖書主義」もよく見られる。聖書の絶対化が自分たちの正当化に直結しているのは、神との絆がほかになくなっていることの証しでもあるが、聖書そのもので理解できるところは字面を追えるところだけだが、それも「有難い言葉」を断片的に拾っては自分に向けられた言葉として喜んでいるばかりで、聖書を貫く神の意図全体への見通しはほとんど持っていない。

しかも、キリストの犠牲は既に自分たちに適用されており、神の是認を得ていて、ひどい場合には、聖徒にのみ語られた『世の基の置かれる以前から』などの言葉を自分に当てはめてしまい、自分は神に選ばれていて、信仰を持ったのも神の選びだとまで信じ込んでいる。これは信者以外の人々への裏切りとならないものか。まして、神の意志は『地のあらゆる家族が自らを祝福する』選民を召し出すことにあるのに、自分の救いばかりを願うという、おおよそキリストに自己犠牲の精神とは真逆の利己性を教会の教えによって培っていることになる。

 

・射幸心を煽られる

ほとんどの教会で、1Col12:3等を理由にして「信仰を持ったことそのものが神の聖霊によることで、その人は神に選ばれた」と教えられているが、この教理の帰結を教師は知っていてのことだろうか?

その句は、当時に実際に奇跡を行う聖霊が注がれていたエクレシアの環境で、悪霊の霊感を吟味する方法として述べられたものであるにも関わらず、霊感を持つでもない一般信者に適応してしまえば、「選ばれた自分」という高慢な選民意識を免れない。だが、本来の聖霊を注がれた『聖徒』は『新しい契約』によって激しい試練と迫害を通して練り清められ、そうして後にはじめて『天でキリストと共になる』光栄に浴するのであるから、イエスも『入ろうと努めながら入れない者は多い』と言われている。即ち『多く与えられた者にはより多くが求められる』のであるが、教会はメリットは語っても、『人類の祭司にして王』となるべき者のキリストの続く地上での殉教を果たして教えるだろうか。

教会が信者一般に、「あなたが信じたのは神の選びだ」というとき、その人は自分は周囲から一等高められた意識を誘っているのであり、それは射幸心を煽るという以外なく、「パリサイ人」を作っていることになる。それを信者獲得と囲い込みの一便法としているのであれば、本来のキリスト教とは逆の方向に信者を誤導していることにもなってしまう。キリスト・イエスが『実によって見分ける』ことを言われたのであれば、射幸心を煽られたときに喜んでいてよいわけもない。それは利己主義への罠であり、そこに落ち込んだ人はパリサイのように頑なになってゆく。

今日に於いては、聖霊が初期に注がれて以来、絶えて地上にどこにも無いにも関わらず、「クリスチャン」には、聖霊が人格を持って個人の中に有り、それと共にキリストがその人の中に住むという、やはり聖徒にのみ象徴的に語られた言葉を、心理的妄想として自分の中にキリストが住んでいると思い込むが、それによって現実から遊離した道徳的潔癖症と周囲の未信者への蔑視が避けられなくなっている。キリスト信仰にない人々は地獄に堕ちるものと決め付け、パリサイ派の轍を踏みながら、実に自分たちこそ神の憤りに曝されつつあることはまず警戒しない。

 

・ハーヴェスト

ダニエル書と黙示録から終末期の情勢がどう予告されているかを探る。

おおよそは覚醒運動の流れを汲んでいる。

障碍になっているのは、欧米のキリスト教の轍を踏んでいる、というよりは、そのまま移植されたものであるので、やはり「クリスチャン」という単一の信仰者としか見ていない。

そこで拯救が信者だけに独占されるところは、他の教会的キリスト教と変わるところはない。

ユダヤ教文化への嗜好があるようで、再臨のキリストについては・・

それから、キリスト教の目的とするところが何かについての説明は弱く、一般宗教の領域に留まっているらしい。

聖書理解に思考のほとんどが費やされ、それが内外に人々に意味するところが不明瞭で、そうではないと言いつつも、やはり知識を取り入れることが宗派の目的のように見える。

どこの教会でも教えられるように、信仰とは「神が自分を守り愛して導いていると個人的な信頼を寄せることである」という。また、科学によってより深く神を知ることができるとも。

 

・SDA

十戒の絶対化からして吟味されるべきだが、人類への命令として譲らない。「十戒だけは別格」として律法契約から取分けるように考える「クリスチャン」は多い。それがごく一般的道徳律を教えているように見えるからである。

だが、そこに安息日を含んでいるところで、問題が生じた。改宗したと主張するローマ皇帝により、それまでの初期キリスト教徒の多くが採用していた「日曜安息」が法制化されたところには確かに問題があった。なぜなら、それは当時キリスト教の天敵であったユダヤ教に対抗して始められた習慣であったからであり、パウロが教えるように、キリスト教としては安息日の規定の下にない。(ローマ14:5) むしろ、安息日が示す、生きることを神に頼り、生業によって聖なる物事をなおざりにしないという精紳は日毎に抱けるものであり、且つそうすることを休暇を何時とるのかという肉的で些末な事柄に落とさないでいられるのである。

労力の多くを割いて、それを安息日に捧げる姿は、ユダヤ教のラビたちの陥った悪習を批難しながら、わざわざその同じ道に入り込むことではないのか。

 

 

・総じて

まず、「救い」や「祝福」を望むというのは、元来『この世』が人間にとっての「敵性環境」であることの証しといえる。そのため、人は強く宗教に自己存在の保全や確保を求める姿勢は人類に広く見られ、それはキリスト教ばかりのものでもないが、その傾向は一神教に強く出ている。

キリスト教の場合に、自分の救いなり永遠の命なりが確定したと信じ込んだところから、人間の貪欲が促進されているように見える。他の信条や信者への蔑視もその一つとなっているが、より明解に強い欲となって顕在するのが支配欲である。

これは情況からしてサタンの精紳そのものである。というのも、人間には『罪』のために、その存在そのものが脅かされた状態に置かれ、その境遇は『罪の奴隷』であるのだが、これがキリストの犠牲が既に自分には適用されたと思い込み、もはや自分が裁きを通過すると確信さえしている状態では、罪の道に入る前の天使であったサタンと同様に神の是認や栄光を得た立場を妄想していることになり、その人に元から宿っているアダムからの『罪』への警戒心が解かれてしまい、その人の素のままの悪しき虚栄の欲望が引き出されるのである。

人が同じく『神の象り』である人の上に立ちたいと思うのであれば、機会あれば神に対しても同じ願望を懐き得るのであり、これこそが倫理の基礎を打ち崩す元凶ではないか。

したがって、こうした神の是認を信者に請合う「キリスト教」というものは、キリストの精紳から信者を引き離し、キリストの教えに関心を払う人々をも利己心に堕落させるサタンの影響力に加担していることになる。

それはボランティアなど社会貢献や伝道を行ってさえ、実は自己に関心が向いているという内面の真実を問わない姿勢にも巧妙ではないか。

もちろん、偉くなりたいという貪欲は、十二使徒らですら払拭し難かったのではあるが、キリストはこれを再三にわたり訓戒し続けているのである。それこそはアダムからの『罪』の現れの一つであるだけでなく、そもそもサタンが陥った罪の始めであった。

この悪しき貪欲の発端となるものは二つある。第一が人が人の上に立ち、支配したいと願う悪であり、もう一つは、人が誰かの下に入りたいと願うことであり、聖書はこの双方を非としている。

宗教の信者は、当然ながら何かの教えを受け入れることで、信仰の対象に帰依する。その場合、創世記は人は「神の象り」に創られたことを記すけれども、往々にして、宗派の創唱者なりは、信者を大衆化させて自分が仕切り、教えを守らせることで支配すること欲望の陥穽に堕ちる。神の象りを支配しようとすれば、それは神を足の下にすることではないか。

また、信者は教師に自分を委ねてしまえれば、判断を怠けることができ、それでも「天国」などのご利益は確保されていると思い込むし、そうしたい欲求に駆られる。生計を立てるのも楽ではないし、楽しみ事も多ければ、誰かに一切を任せてしまえればそれほど楽なことはない。日曜毎に礼拝に行くことで自分という存在が安泰で、幾らかの友誼も楽しめれば、キリスト教の「天国保険」もまったく掛け捨てでもない。

こうして、教師と信者の相互依存が築かれる。そのうえ、キリスト教の信者は教師を支えるには不足しがちであれば、事業として「教会」を成り立たせようと、信者の乱造につながり、相互依存の傾向が強まってゆく。

何が欠けているかと云えば、自分のご利益を傍らに置いて、神の意志を探ろうとする気概なのであろう。⇒漁師アンデレのように

しかし、これを大衆に求めるのは難しい。「福音化」を望めば二律背反になる。イヴリートが「端」を意味するように、この世と神とは本来妥協できないものである。その証拠に、使徒らが『この世』を敵対するものとして語るのが、『荒野』から語る固有の神と整合している。

教会とは、やはり「世のもの」、大衆に依存するべきものなのではないか。

 

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