Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

キリスト教宣教に盛られた毒

 

特にキリスト教の場合
信者になれば、救われる、天国行き、成功できる、楽園に行ける、イエス様が自分の中に住んでくれる
などを吹聴されるとすれば、それは本来のキリスト教とは言えない。
また、神の全能性も認めてもいない。

なぜなら、神が全能であるなら、諸苦で溢れるこの世から人類を残らず救えないはずがない。
そこで、神がそうしてはいない理由があるはずであるのだが、それが単に信仰を持たせるため、人生は試練のため、人を選別するため、等々理由付けする。
そうなると、神の意図するところや、その性格が規定されてくる。
それらの教えによって、「神は、人をより分けるので、人の方から神に対して上手くコンタクトをとり、宥めた者は好意を受ける」と言っていることにもなり、神は賂を受けるというに等しい。

そこで聖書に道徳律を探し出し、それらを守ろうとして人間の実態と異なる善人を演じることも誘発されてくる。
だが、それは常に神に取入ろうとする不自然な緊張感と、差別を人々の間にもたらすことになる。その端的な例が「パリサイ人の祈り」に集約される。他者との比較によってのみ神の前の立場を実感し、それでいて、実は人間は誰も神の前にキリストの犠牲を要する罪人であることから逃れようとする。
これはキリストの犠牲の価値を卑しめるものであるばかりか、キリストの示した自己犠牲の利他性の逆の精紳を植え付けることにもなっている。
これはキリスト教界、特に新教系の宗派の中に広く見られる独善性の原因であり、その由来は「聖書主義」という一種の偶像崇拝にある。

だが、聖書は人に「正しい生き方」を教えるものではないし、人生の指南書でも、道徳の本でもない。聖書とは、より根源的な人間の問題、人類の宿痾ともなっている倫理上の欠陥を指摘し、その隷属から解き放ち、創造されたままの『神の子』の栄光に回復させるという、神の偉大な目的と、その進捗を知らせる書なのである。

それを、神の目的は「人に崇拝させるため」、また「神の主権に服させるため」やら「天に召すため」などと神中心の都合を吹聴するのは明らかに間違っている。
神は人を地上に『その象りに創られた』のであり、恰も悪魔のように人を平伏させて喜ぶとすれば、それは神が自らを卑しめるに等しいことである。
この誤謬をもたらしているのは「聖徒理解」また『聖霊』が何であるのかを把握していないところにある。そこに宗教指導者らの権威獲得の願望も絡んでいるところが問題の根を深くしている。

 

更に程度が悪いのが、『神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び』などの句を根拠に、自分たち「クリスチャン」が信仰を持ったことそのものが神の業であって、生まれる前からの定めだというものまである。

さらには、自分に対する神の処遇がどうなるかは生まれる遥か前から決まっていることで、その運命を自分でどうすることもできないとまで決め付けているものもある。

これらの教え手は、それぞれ人にどう影響し、どのような神への観念を持たせてしまうかを考えるよりは、「聖書に書いてあるからそうなのだ」という意識に凝り固まっていたのであろう。つまりはズーゴートやパリサイ派のようなものである。

 

また、キリスト教界の謬見は「この世」というものをどう見るかも関わってくることになる。
この世界が、試練の場であるとすれば、この世には神の摂理が働いていることになり、起こる諸悪も究極的には神の為すところになってくる。
これは「神がいるなら、どうしてこれほどの悪や苦しみがあるか」という問いへの簡便な解答にされてしまう。
しかし、それでは神は優れた者を好むところの、差別主義者であると言っている。「キリストの助けを得て」などと言いつつ、ますます自分を善人に仕立てつつ、「神の是認は自己努力で獲得できる」と言っているではないか。


これはパリサイ派のような優越感と周囲への蔑視を造り出すための環境として「この世」が在ることになる。
この観方は、この世に諸苦が溢れることを積極的に捉えるようでいながら、実はこの世に潜む人間自身の害悪、つまり『罪』から目を背けさせている。

 この世とは、神の創造の意図から離れた人類が、背負い込んだ倫理上の欠陥によって自ら苦難を招き、その不倫理性に対処しながら何とか秩序を与えようともがいてきた「逸脱した世界」なのであり、そこですべてに神の意志も摂理もなく、ただ法則が支配している。

しかし、その中でも、神は創造の当初の企図を成就するべく、一定の介入をしてこられたが、その記録が聖書にまとめられている。
多くのキリスト教は、この点でも大きな誤解をしている。
自分たちが実は『罪人』であることを弁えず、神がまったくの善意の内に自分たちを置き、間違いなく是認するものと思い込み、またそう教えるのが「キリスト教」と言って良いほどである。聖書は、その善意を信者に与えるために書かれたとまで決め付けている。

だが、これは危険極まりない誤謬であり、聖書を熟知し、律法の規定を守ることに於いて揺らがぬほどの自信を持っていたユダヤ教徒によってメシアが殺害されたことは、その明らかな警告となっている。

それであれば、「クリスチャン」とは、神が人を裁くことは認めざるを得ないとしても、自分は許されると決め込んでいるのであり、その傲慢こそが神から最も離れた精神的場に自ら追いやっているのである。パリサイ人という端的な学習素材を、新約聖書に於いてあれほど与えられていながら、いったい何を読んでいるのだろうか。キリスト教界の信者諸氏、所謂「クリスチャン」と称する人々のこの点での変化はまず無理に見える。パリサイ派がそうであったように、ご利益を確定させるべく利己主義に於いて妥協する余地は極めて小さいほどに凝り固まっており、教えを受けるほどにその道を正義と信じて邁進するからである。

 心を静め、自らを省みるゆとりある人がいるのだろうか。

 

 

「教会の唱える救い」と原始キリスト教の「救済」

 <いくつかの側面が有って、どのような順番でどうまとめると読みやすいか>

「このような解釈を信じると、人はどのような影響を受けるか」

「それが神の意図やキリストの精紳と合致するのか」

「その解釈によって神はどのように描き出されるのか」

「自らの解釈の絶対性を唱えることで人間能力の限界を超えてしまう」

「絶対性は神だけが唱え得る」

「教師も信徒も神を代弁していると唱えれば責をすべて負うことになる」

「そうしたい動機はどこから来ているか」

「宗教が信仰に立脚するのであれば絶対はない」

「絶対がなければ人を究極的には裁けない」

「信仰上の真理とは常に相対的なものでなくては矛盾する」

「客観的事実は信仰を必要としない」