Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

「この世」という人間の生まれ出る苦悩の世界への対処として

序説試

 


人は誰も自分から意図して生まれ出るわけではない。

しかも、生まれ出た「この世」という環境は降りかかる諸苦の苦悩と寿命の制約に縛られた場であり、古今東西の人々に空しさを嘆かせてきた。

人生を満足の内に閉じることのできた人は僅かであろうし、殆んどの人は望まず死を迎えることになる。

「この世」は様々な危険に満ちていて、生まれ出る人々をそう歓迎しているとは云えず、そう長くもない人生に問題を負わせてくるものである。

幾らかの幸福を見出せたにせよ、誰にも人生の終わりが、或いは突然に、或いはじわじわと迫って来るのはどうにも避けられない。

人はただでさえこうした空しさの中で生きているにも関わらず、わざわざ苦悩を付け加えてきた。即ち、社会悪であり、また対人関係の煩いである。

個人間の争いや軋轢から、組織内での確執や不当な扱い、そして格差や差別、また政治がもたらす失政や圧政の犠牲になることまで、総じて人との関わりとは実に難しい。それらが「人が他者とどう関わって生きてゆくのか」という「倫理」の問題である。

このように生きるに難しい環境である「この世」に人が生まれてはきたのであるが、そこで、この環境をどのように生きて、諸苦に対処できるのかについての導きを人々は古来切望してきたものである。

その「生き方」の一つの回答様式が「宗教」であったと云えよう。

これは便利なもので、「この世」に投げ出されたようになっている人々に、「倫理」という他者との関わり方を教え、または規定し、同時に「死」が人生にもたらす空虚さと恐れを軽減、さらには解決してくれるものともなってきたので、実に多くの人々がすがりつき、信心に励んでもきたであろう。

それだけでなく、「宗教」は人が「この世」に生まれ出た理由まで解説し、人が知りたいところの自分の存在する不思議や人生の意義までも教えてくれ、しかもその内容が自分たちの都合や願望に沿うものであれば、大衆社会にその「ありがたい宗教」も定着してきたのである。

(この点で、多神教はスピリチャルに近く、教理が浅いため、多神教同士の並立の融通性はあっても、人間存在への理解を深める教理は持ち合わせない。ただそれぞれの民間伝承の共通性は意外に高い)

 

それでも、「宗教」に問題がないわけでもなかった。様々な宗教の教えの内容もまた様々であり、共通するところと言えば、空しい人生と苦しみ満ちるこの世への対処法ではあるとしても、その具体的対処法は合致していないので、特に一神教の於けるその違いを巡って、どの教えが正しいのかと争いが避けられなかった。

その争いは、心の中で人々にとっての人生の全てと、死後の益まで関わる「最大利権」つまり「ご利益」の得失を左右する重大問題となってしまった。

そこで、宗教紛争は政治的な争い以上に苛烈なものとなってきた歴史を見ざるを得ない。

それは今では、その反省から宗教間対話などの緩和が見られにせよ、その精神環境と云えば、社会全体に占める人々の宗教的関心の低下という趨勢の上に成り立つものであり、依然として熱烈な信心が盛んな人々に於いては、強烈な正義感と共に他の宗教信条を排撃する姿勢に変わりない。それは様々な宗教の原理主義の活動に見られる通りであり、武器を執ることを厭わない「過激派」にその典型的な姿が見える。

だが、それは本来の「宗教」の働きの目指すところからは逸脱し失敗しており、むしろ、社会悪を付け加えて憚らない結果を刈り取っている。

だが、熱心に宗教を奉じ、そこから得られる「最大利権」を確実に求めようとするなら、他の教えの存在そのものを容認することは易しいことではない。

なぜなら、自分の信奉する教えが相対的なものとなってしまい、絶対確実な「ご利益」の獲得が薄らぐからである。

そこで、人が宗教を信奉する理由が見えてくる。

それ即ち、「我欲」なのである。

 

それにしても『この世』は人に薄情で、人生の終りが近付くにつれ、ほとんどに場合、人に豊かな収穫を与えない。「裸で来たように裸で返す」ばかりか、マイナスにして返すとも言える。

『この世』にどう対処するかという重大な問題は、人間各個人に生まれながら突き付けられた剣のようであり、怯えていない者はまず居ない。

 

 

 

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Hatena Blogに移行してみると、随分面倒になった

書き込みも編集も別のソフトで行わねばならないようだ

自分の場合、商売するでもなく画像を掲示する必要もなかった

どんなSNSを張り付けるでもないから、高機能である必要がなく

ブラウザがタイムラグを持たずに読み込める方がよい

幾分ローテクの方が便利という需要はないのだろうか

即、書き込めるところでDiaryがうってつけであったが

サーヴィス終了では致し方ない

「昔はよかった」と云うのは知恵がないとソロモンは書いたが

この場合は少々違うと思う。

しかし、まあ、世話になり続けるわけであるし

文句も云えぬ。

お、自動改行はそのままだ・・

しかし、なかなか良いデザインに出合えない 

 

 

G.H

 

ゲーハーとは謎解きのようではある