Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

人と宗教

 

人の周囲は善意ばかりで構成されている環境ではない。

むしろその人が生きることにさえ抵抗があり、競ったり、争ったり、あからさまな敵意さえ受けるのが、『この世』という、現在まで人々が逃れられなかった敵性環境である。

そこには人間相互の素っ気なさだけでなく、生まれ出たところで、諸苦が襲い掛かり、やがて老化を経て身体が劣化し、動き難くばかりか、多くの病を避けられなくなり、死に至る宿命を負わされている。

人間は、自らの存在を俯瞰して、それが儚いもの、いつ果てるとも知れない不確かなものであることを悟らざるを得ない。抽象的思考能力を持つほどに、人々は自分自身というものを省み、争いや苦しみや寿命の中に囚われていることを見出すことになる。

それであるから、人の置かれたこの境遇を変えることはできないものの、思いの中で自らに存在意義を与え、人生という空しい労役と最期の消滅を回避する方策が発生し、古来、維持されてきた。その端的なものが宗教であり、またその教義である。

したがって、宗教とは、抽象概念を把握できる人間が『この世』に生まれてくる限り、その必要を満たすために常に求められるものとなってきたが、それは無神論や不可知論であっても人生に何らかの答えを与える働きでは変わるところが無い。考えないことを信条とする場合であっても、それを自らに課す場合に、人はそのように強く念じる必要があり、それは宗教信条を守ろうとする姿勢と変わるところがない。

だが、こうした人の必要に応じた宗教や思想という心理的な人生問題の仮想解決策もそれぞれであり、共通点はあるにしても、矛盾や対立的な教義や教条が目立つものとなっている。しかも、その違いは相互の宗教なり思想なりの存立を否定し兼ねないところが避けられず、それは宗教や思想を自らの人生という問題の解決策とした人々、即ち、個々の信者の人生全体に関わる意義や、教えられて想定している死後の利益などが、単なる心に中だけの「事実」または「空想」であるとされ、その人に大きな損失をもたらしてしまい兼ねない脅威でもある。

ゆえに、人々は信仰する宗教の異なりによって、必然的に相争うことになり、この点で妥協することは、教えそのものを否定することにならざるを得ない。

多神教であれば、まだ譲歩の余地を持てるが、それでも排他性の強いもの、信じる宗教を変える者、まや辞める者への極端な扱いを躊躇しない多神教もやはり存在している。

こうして見えて来ることは、宗教はそれぞれに人々の大きな利益をその心に約束していることである。

だが、その利益そのものは未到来なものが大半を占めており、その多くが「死んでみなければ分からない」という、きわめて不確かなものなのであり、その正否の確約は誰も示すことはできず、そこが「信仰」であるとも言える。

近世フランスをはじめ、それぞれの思想信条を人権として保護する制度が始まることにより、宗教同士、信仰相互の直接的な衝突は緩和されている。それでも、宗教そのものの本質からすれば、いずれかが正しいのかは問われるべきものであり、本来、それは妥協ができないものである。

だが、その結果が倫理問題を生じさせ、人々の間に分断や差別や、紛争をもたらすとすれば、人は自らの人生の問題、『この世』の諸苦を改善するどころか、争いを増し加え、自らますます住みにくい場に周囲を変えていることになる。これが宗教最大の問題となっている。

 宗教とは押しなべて「信仰するもの」であるゆえに、本質的に心の中から具象の証明には出て来ない。この点で、科学が信仰を立証したかのように語られるのは、宗教の本質を失われることになり、そこには強制によって他者の信仰を破壊、また勝ち得ようとする精神的圧制の手段が見えているが、これは逆に非論理的なことになり、自ら宗教の信仰性という土台を攻撃してもいる愚行である。

確かに、宗教には多様性があるだけでなく、時代性も拭い得ず、人間の社会や科学の進展に即してこられていないところが散見される。そこで普遍的価値のないものは人々から関心を失われることが避けられないが、それを伝統性や地域社会性、また葬儀という避けられない儀礼制度の中に存続の活路をわずかに見出しているところもある。これは信仰の形骸化を招いており、いざ、教条への確信が問われるような事態が生じれば、短時間にそれらの宗教の存続の土台は崩れることになるように見える。

<例えれば、ユダヤ教が動物の犠牲の祭儀に立ち戻ったとしても、それはユダヤ人に農耕牧畜民族の性質を要求しており、そこにメシアの犠牲の意義が問われるなら、時代性のゆえに即座に限界の壁に直面することになろう>

そして、宗教は、その教えが「人を超えたもの」を想定するほどに、時代に即応して発展するには難い性質を帯びることになり、それが却って宗教自体の不合理性を露呈してしまい兼ねない。しかし、それでも気付いた人々が宗教を離れないのは、他に代替すべきものを見出さず、惰性が働くからである。ある地域では人々は「宗教疲れ」のような精神的背景を抱えており、宗教改革以来の宗教闘争に明け暮れたことのある西欧がその例に挙げられよう。キリスト教の新旧に関わらず、「クリスチャン」に名は留めても、心底確信を教義に捧げてもいない。<だからと言って、教義を科学に摺り合わせ、宗教を現代化しようとするのは、宗教そのものを却って不確かで、本質を逸したものにする>

 

したがって、宗教は今日に在って、宗教相互の、また社会や科学の進展によって、その真偽が絶えざる吟味に曝されているのではあるが、この吟味は各個人の中で進行しているのであり、特に伝統ある宗派で、表立ってその根幹的教義が急激な批判の的とされることは起っていない。

その一方で、その実質がどう評価されようとも、古式の非合理的な教義に固執し厳格に従おうとする反動も、旧来の伝統的宗教で見られるが、これはそれらの宗教の非合理性を内心では感じつつも、それを振り払い、本来的に宗教がもたらすはずの人間につきまとう不安の払拭を願っての回帰行動なのであろう。

それであれば、宗教一般のこの根本的役割は、併存する多くの宗教の存在と、人類社会の進歩によって脆弱にされており、人々の必要に充分答えているとは云えない状況にある。

<これは16世紀にカトリックが日本への布教を行った際に、同じ性質の障碍に突き当たっている 教義そのものが理知的に吟味されるという当時には珍しい現象が起こったが、これに宣教師はたじろいだのであった 「キリスト教の常識」はそこで限界を露呈した>