Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

雑記録21-10

エルサレム使徒会議が示した神意

モーセ以来の律法からくる人の価値観が簡単には崩れないことに加え、強要を避けたこと

その時点でパウロはひとつの現有書簡も書いていない。キリスト教の価値体系の全体が示されるには早くとも使徒ヨハネの死まで待つことになる。これらは聖霊の教えによって徐々に開示されてきたといえるであろうし、キリストの語っていた言葉の意味も次第に解かれていった。そこで一日にしてキリスト教の体系が示されたわけではなく、ユダヤの胎内で生育されているかのように使徒らと初期の弟子らの中で聖霊が開示していっている。

キリスト教体系を明らかにすることでは『奥義の家令』パウロの働きが非常に大きいものの、使徒ヨハネへの啓示の奥深さを加えずに全体像は形作られなかったに違いなく、使徒ペテロは、その第一書簡だけでもパウロに匹敵する認識を示すだけでなく、二つ目の書簡と共に絶妙にパウロ論議を補完している。これに加えキリストの弟ヤコブの手紙は単なるユダヤ教徒の認識を遥かに超えており、福音書筆者らのキリストの言葉への註解の文言にもキリスト教体系を理解していなければ語れない事柄が度々に示されている。

これらの至宝のような教えの全体は、「一式の真理」として一時に表されたのではなかったことは明らかで、おそらくは、そのようにされても人は理解の咀嚼ができなかったであろうし、一人の伝達者によらず、弟子のコイオニアの中で徐々に現れる方が奇跡的であり、それ自体も信仰の根拠ともなる。

また、エルサレム会議を要した由来には、神が人の理解してゆく速度を顧み、律法を『廃れたもの』としつつも、それがゴミのようなものではなかったことも含まれている。彼が『ゴミのようなもの』と言ったのは、自身が受けたタンナーを介した教育のことであり、無数のミシュナーの詰め込み学習を指すことは状況から明らかである。彼はむしろキリストが律法の完成者であることを認めるに及び、パリサイ派の方向性に無益を悟っている。(この『ゴミ』発言を「高等教育」に適用するのは強権宗教の愚民化策でしかない)

だが、当時のヘブライスタイに於いて、この認識は十分には浸透しておらず、依然として宗教上の良識が律法遵守の範疇に留まっていた。これは同じ聖徒ではあっても、使徒らに突出性があったことを物語っており、人の良心が安易に変わるものでないことの証しともいえる。この会議では結論として、当時にシュナゴーグでの異邦人への規定が繰り返され、諸国民は血と淫行と偶像への関わりだけを禁じられ、当時のユダヤ人ナザレ派の崇拝者の良心を尊重するように配慮され、議決された。

総じて、神は人の価値観、特に倫理性に関わる事柄に於いて、その思念を擁護している。即ち、神は独裁者のように独善を強制しないということであり、『神の象り』とされるだけの人間の価値観や思念をそれに価するものとして保護されるということでもある。それであるから、人一人の心の決定権とも言えるものを神がどれほど評価しているかが、エルサレム会議という「手間」に表れていると云える。

 

・神を信仰、崇敬することがそのまま義とはならない

ほとんどの人は、自分の利を求めるところ無くしては神を讃えない。

神が如何に人を超越するかという点は、神との邂逅無しに知る術はなく

それは常に上からもたらされるものであり、聖書もその片鱗を知らせるに過ぎない。

そこで神との邂逅の無い時代を通じ、人は聖書に信仰の基礎を置く以外になかった。

それがために聖書への依存が強まり、本来の神の奇跡の働きを聖書に劣る信仰の二次的な根拠にしてしまっている。そこにオカルトへの嫌気があったとしても、使徒らへの奇跡の業の配分を考えると、理解と奇跡とがバランスを保っていた様が見える。確かにヨエルの預言は一般人から下男下女に至るまで預言する新しい契約の効果を描いてはいたが、ペテロやパウロ使徒職と著しい奇跡の業が結びついている。

だが、この聖書主義よりも問題であるのは、自分を中心とした神の捉え方、また「信仰」の動機である。

聖書そのものが神の意図と経綸との流れを教えているのに、それらを自分の望む益のためであると思い違いをしている。即ち「ご利益信仰」である。

そこでは聖書の記述までが、自分の利益の証拠とされ、その願望の色眼鏡で読まれ、解釈されている。

それが信仰であるなら、それは神を畏敬しておらず、神の偉大さも悟ってはいない証拠になる。

神の意図は、人間への益の提供ではなく、人間が陥った問題「倫理」からの救済によって、神の創造物の栄光に復帰させることであり、個人の欲の都合や自分の是認された立場を求めるものではない。

たいていの「クリスチャン」には、この違いがどれほど深刻で本質的かが分かっていない。

 

 

・ローマ八曜

八曜制
古代ローマでは1週8日間の八曜制(ヌンディヌム、nundinum)を用いていた。nundinumはnuvem dies「9日間」を意味し、9日目に再び元の曜日に戻ることを表している。
1月1日(Kalendis Ianuariis)をAとして、AからHまでの記号であらわした。

AからHまでの記号の1日を毎年「市の日(ヌンディナエ、nundinae)」とした。農民は「市の日」に農作業をやめて買い物に出かけた。ある種の休日の意味合いがあったようだ。

「市の日」は毎年異なる。Aの日が「市の日」である場合、ユリウス暦の最後のAの日は361日目、12月27日(a.d. VI Kal. Ian.)。12月31日はEで、次の「市の日」までは3日。しかし、1月1日は再びAの日になるので、翌年の「市の日」はCとなる。


七曜制
1週間を7日とするのは、紀元後2世紀からであり、曜日の名称はさらにあとのことである。

日曜日    Solis Dies    太陽の日
月曜日    Lunae dies    月の日
火曜日    Martis dies    マールス(火星)の日
水曜日    Mercurii dies    メルクリウス(水星)の日
木曜日    Iovis dies    ユピテル木星)の日
金曜日    Veneris dies    ウェヌス(金星)の日
土曜日    Saturni dies    サートゥルヌス(土星)の日

引用元

古代ローマの暦_Via della Gatta

 

・『善悪を知る』

法を守り善良な市民であろうとすることは、その社会での評価を得ることはあるかも知れない。

だが、その法規そのものが必ずしも倫理性を備えていないことがあり、独裁制の下では特に人に自然に備わる善悪感覚からも逸脱しているにも関わらず、そのような法を守ることや、その施行に従いまた助力することが道徳的と施政側から強引に評価される。

特に、この状況での「善」は人の間でも異論が生じるものであるが、このような例はどこの社会でも多少に関わらずあり得るもので、それが人間の正義の限界を表している。

人間の社会秩序は、法の制定とその履行を必須とするが、その法という善悪判断そのものに人間の倫理性の不完全さがつきまとっている。法は人間が必要に迫られて善悪を仮定するものであり、真に倫理性を反映しているかは別問題であり、本来その判断に人は踏み込んでいないし、その能力もない。

アダムが『善悪を知るの木』の実を食したとき、人が倫理上の不完全さを背負ったのであれば、以後の社会には法とその履行が避けられなくなったと言い得る。

これは神の基準から離れ落ちた人間の倫理性の結果であると捉えるなら、確かにその実を取って食した事が招いたそのものが、人が自ら不完全な判断によって、仮定的に善悪を裁定する必要に迫られた事に於いて「善悪を知る」とも言える。

但し、この『善悪を知る』の名称に込められた意味には、さらにもう一つの意味も見えている。

それが創造されたままの無垢を脱し「自由な決定者として振る舞う」ようになった人間の倫理上の独立性の獲得であり、それは『人は我々の一人のようになった』という創世記に記される神の発言に示唆されている。そこには「従順」では人が与えられた『神の象り』である「自由さ」が成立しないことを含んでおり、利他的であるか利己的であるかによる「愛」と「罪」の選択が人の倫理上の独立なくして表明されないことの論理も導き出す。そこで禁断の木が人に問うのは明らかに「従順」ではなく「忠節」である。

また『善悪の知るの木』から取って食べようと、控ようと、いずれにしてもその木は『善悪を知るの木』であったことになり、その木が問い掛ける人の答えによって『永遠の命の木』から食すことが許されるか否かが確定することになっていたと言える。

この点で、「神が人に従順」を求めているかのように教える諸教派は、創世記原初史に於いて、即ち、聖書理解の出発点で躓いていることになる。

神が人に求めるものは、倫理上の独立、即ち『自らの象り』としての自由の行使による他者との関わりに関する決定であり、人は利他的に振る舞おうとする「愛」の選択を通して、他者とどのように生きてゆくかを弁え、それによって神を含む他の存在者との永続する関係を得ることにあると言える。

この点が、キリスト教にせよユダヤ教にせよ、ほかの様々な宗教を含んで「勧善懲悪の神」に誤解され、この人間の最大の問題点がなおざりにされてきた。

だが、聖書そのものは、この点を明瞭には語らず、事の本質的実態に霞をかけるかのようにしている。それはキリストの例え話にも表れる傾向であり、その不明性に「神の裁き」が関わっているように思われる。

なぜなら、この問題を明示すると、裁きを回避するために行動結果で自己正当化しようとする倫理不全の人間の偽装を誘うからであろう。

それでも「愛」を選ぼうとする者にとって、この本質的偽善を行う動機はないと言えるので、『知ることが許されている』とも言えよう。

人間には完全な善悪判断の能力はない。だからといって良心的自覚を捨てるわけにもゆかないのだが、それでも一点に於いて完全な判断能力を備えていると言える。それが「愛」という一言で表される心の内奥の意向であり、神が問題にするのは、この一点であろう。従って、「人は信仰によって救われる」と聖書が語る裏には、パウロも一言だけ言うように『愛によって働く信仰』を含意していることになる。

即ち、『信仰』の背後には『愛』があり、『信仰』は救いの最終的な要ではなく、明らかに『愛』に従属している。

それであるから、「信じる者は救われる」と単純化し、組織宗教に人集めを行うことは、幾重にも誤謬を重ねていることになり、利己心を煽ることに於いては有害でしかない。千年以上続いた律法体制という揺るぎない宗教方式から、まったくの彼岸に位置したキリスト教へと到達できたのは、宗教を絶対視しないこと無くして不可能なことであり、それを成し遂げたのはキリストが神の後ろ盾を得てその道を指し示した、そして使徒後の時代までも聖霊によって教え続けたからであって、そこには以前のあらゆるものを排する権利も人のものでないことを証ししている。

誰にせよ、自分の信仰が絶対と思うなら、それは神を超えたことであり、自分を真理の持ち主、即ち神だと言っているに等しい。

余りにも多くの宗教の徒が、自分の宗派の教理を絶対視して、求め続けるということをせずに、宗教を信じることは当然のように完全を認めることだと思い込み、思考停止に陥っている。それでは真理の持ち主は自分だと言うのであり、進歩を拒絶し、また他人の教えに依存して自己判断を止めている。『己の智きに頼るなかれ』は律法体制での精神であり、また、反語として固執することを戒めてもいる。

宗教、またキリスト教界の蒙昧は、そもそもこのような前提条件への考慮の無さから来ているのは、少し考えれば誰にでも分かりそうなものではないか。

 

 

・ミシュナ、アガダー(語り)、ミツヴォット(613の)

ガーアル⇒ゴーエール Ho13:14

ヨセフの子ヤコヴの殉死をヨセフスとヒエロニュモスは62年とする

しかし、エウセビオスとクレメンスAlxは69年とする

安居危思

飲水思源

北周の詩人庚信の「微調曲」後段から

 

ポリュビオス:「歴史」 アリストテレス:「政治学」 プラトン:「国家」

 

40日の不在⇒夜 安息が第一でなく第七である理由

復活から49日の服喪? 33日目

再建勅書が出て7週と62週

62週=1年2カ月と14日 434日 AD35

515から城壁再建までは

 

 

・宗教の盲点は異論への対処法が準備されていないところにもある

異教をどう見なすか、それは自らの教えをどう見なすかの裏返しとなる

宗教なのだから自派の教理が完全無欠、または神や超越者の代理、または是認にあるというような「完全性を唱えるのが宗教」というものか?

それが実は現実とは異なっていて、人間の思惑の範疇に留まるものに過ぎなかったり、または、当てにしている背後の超自然の影響力が万全ではなかったりする場合、その宗教は主張と現実とが一致しないことになるので、唱えられる「完全性」は証明ができないし、その信仰も「たまには当たる」という程度のものになる。

だが、悪影響はそれだけでは済まず、唱えられる「完全性」によって信者は排他的に振舞うことになり、それは他の信仰との間で必ず軋轢を生み、人間関係を徒に阻害する。

信者仲間内では和謔しても、外の関係者には自分たちの仲間に成る以外に益を図らず、親しい交友も避ける。これは一種の差別であり、只でさえ人間社会は権益や都合や嫌気によって分裂し易いうえに、宗教の異なりがそれに拍車を掛けることになるが、それで良いか?

しかも、それが証明することのできない「完全性」に依拠しているのであれば、それは単に「思い込み」ではないか?

その「信仰」を「思い込み」にしたくないのであれば、「信仰」という実態を現実に即して把握し、評価する必要がある。

「信仰」とは、その人の主観的判断であり、たとえ同じ宗教であってさえ、一人一人異なることを想定しなければならない。

それは、その人という有限な判断力の持ち主が信じていることであり、「信仰」が人間の判断である以上、それは科学や数学とは同列に置くことはできない。人間の主観は不安定で、よく間違えもする。従って、宗教信仰も本来訂正を免れないものである。

そこで、神また超越者の介入を想定するとしても、それは人間が懐く信仰とは別に存在しているはずであり、神または超越者が真に存在しているとしても、それに信仰を抱く人間の方は完全でも超越的でもなく、間違いも犯す凡庸さを免れていない。

従って、例え真実の神また超越者からの啓示や教えを受けて、それに感化され信仰を抱いたにしても、その人の「信仰」という個人的判断の範疇を出るものではない。

そこで、信仰者は誰であれ、周囲の他の人々に勝るところはこの点で特に無く、まして「信仰」を理由に人を差別、蔑視するべき理由はない。それは同じ宗教の信者にしても同様であることになる。

様々な宗教の中に、信者に戒律を押し付けては自分の信仰を強要するという横暴が行われ、また、教導者が信者の生活にまで立ち入り、影響を与えて自画自賛するのであれば、そこで人権蹂躙が起こっており、本来なら個人が判断して抱くべき信仰までをも、当人の自己判断を奪って押し付けていることになる。

このように、宗教の中では簡単に人権蹂躙が起こる原因には、人間が持てるわけもない「完全性」の主張にある。即ち、不完全なものが完全であると吹聴しているのであり、その無理が宗教に付き物の実害となっている。

だが、その無理な「完全性」の主張は、度々に瑕疵が露呈するところとなっている。そこで宗教団体はそれぞれ情報統制を行い始める。カルト宗教とされる強圧的な宗教団体から特に醜聞が聞こえるのは、それだけ「完全性」を人々に無理強いしているからであろう。そのような宗教が、他の宗教との差別化に熱心であるのは、その「完全性」が実証できないために、信者の道徳性や義行などを宣伝するほかないからであろう。

やはり、人は人というものの不完全な実態に即して何事も判断するべきであり、人はまず人を知らなくては神も超越者も判断のしようがない。

宗教とは、それがどれほど超自然の源を持っていたとしても、信仰するのが人間である以上、けっして「絶対」はなく、その妄想を抱いて周囲に害を及ぼすべき理由もない。

人は、自分の限界を知り、神の無限を悟るべきであって、自分を神のようにして良いわけもない。神を畏れるとは、自分の矮小さを弁えることなくして有り得ない。『知恵の初め』とはそのことではないか。

その点で人間が問題を起こすのは、神に関する知識のないときではなく、何かを知った後になる。そのことをソロモンは含意していたであろう。後代その点をパウロが繰り返し戒めている。人間は賢くないので、神について何かを知ると、それを知らない周囲の人々よりも自分が神に近付きまた高められたと思い込む。だが、それがすべてを無駄にしてしまう。

 

キリスト教界の基本姿勢

信者が神の是認に入ることを受け合い、また、そのそれを理由を付けて閉ざす。

基本的にキリスト教の存在意義は、信仰者が神の善意に浴することにしている。

各宗派の信者の信仰の目的と言えば、神から善意を受ける関係に自分を置くことにある。援用される句としてはRm8:1のような契約にある聖徒への義の仮承認について記述があるが、そこしか見ていない。

これは聖徒でさえ吟味の対象であるにも関わらず、神の裁きを無効化する誤謬であり、不信者、異教徒との蔑視、軋轢を避けられない。

また、神の是認を受けられるか否かについて聖職者が信者を裁定するところでも、やはり神の裁きを無効とし、自分の規準で人を判断し、それが恰も神の判定であるかのように振舞う。ここには神を裁き主の座から追い落すほどの不遜が見える。

これはかなり広くみられる悪習であり、根本的誤謬である。神の人に対する見方を誤り伝え、尚且つ人々に害を為してきた。これこそ宗教的蒙昧の為せる人類への犯罪というべきものであった。聖職者は神や善の名の下に正義心を抱いて人々を罰し、不要な圧制を行い、ある場合には殺人まで犯してきた。<酷いものに異端審問や魔女狩りがあると思われる>

<おそらくは、この問題点にカルヴァンの鋭敏な感覚が、彼をして何か違和感を感じ取らせ「運命予定説」に向かわせたのではないか?だが彼自身も激しい善悪感情の持ち主であり、セルヴェトスの死は拭えない汚点をもたらしてしまった>

キリスト教界の善悪規準は彼らの体制の宿痾であり続け、北欧州人の多くは自らその悪弊からキリスト教を離れるようになっていったと言って過言でないようだ。

この人間の道徳主義は、キリスト初臨の時のパリサイ派のように、再臨の最後に至って神と衝突することは十分予見される。

キリスト教徒とは「良いか悪いか」について拘り過ぎる。人間などは「アダムの罪人」以外に言いようがない。特にアングロサクソンにその傾向が強く、ラテン・スラヴではさほどでもない。

 

・服装

ドルマン アジアの軽騎馬兵

キトン 古ギリシア

ダルマティカ ダルマティア式貫頭衣 初期キリスト教徒男女の服装

 シルウェストルⅠ世はこれを助祭の制服とする

チュニック 短めの貫頭衣

パリウム ヘレニズム期ギリシア系哲学者の黒い職服