Notae ad Quartodecimani

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Memoヘーゲル左派関連

ヘーゲル左派
1831にヘーゲル(G.W.F.Hegel)が没すると、学派の中から師の哲学を巡って学徒からの公然たる論争が生じる。
1835年、ダーフィト・フリードリヒ・シュトラオス(1807-1874)の上梓した「Das Leben Jesus」を巡って惹起された論争が過熱する。38年にStraussは「論争集」を発表する中で、ヘーゲル学派を、右派、中道、左派に分け、自らを左派に位置づけた。ここにおいて、学派分裂はキリスト教解釈において起こった。
彼はチュービンゲン大学で神学を修めており、その後、ベルリンに出てヘーゲルの講義を聴講するつもりであったが、彼がヘーゲルに会って五日後に師はコレラで死亡してしまった。
しかし、彼は師の哲学をよく習得し、聖書の伝統的解釈とイエス史実性を否定するところまで進んでいたが、彼はキリスト教そのものを否定するところには至らなかった。
その後、キリスト教だけでなく、宗教を「人間が自己を疎外した結果生まれたものである」との批判を加えたのが、ブルーノ・バウアー(1809-1882反ユダヤ主義者)であった。
この流れは、ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイアーバッハ(1804-1872)に至って、キリスト教ヘーゲル哲学も否定し去るに至る。彼は、人間は阻害された自己の本質を、神という名のもとに崇拝し、また、それに対立している、と説いた。
この「人間主義」(Humanismus)の批判哲学に共鳴した者の中に、モーゼス・ヘス(1812-1875ユダヤ系)があり、この人物がヘーゲル左派からの最初の共産主義者となって現れた。
法哲学の領域では、アーノルト・ルーゲ(1802-1880)が挙げられる。彼は「ハレ年誌」を38年から行っている。この当時、教会と国家の激しい対立が翌年のケルン教会紛争となる中で、国家が理性を体現し、カトリック反動に徹底的に争うことを求めた。43年には「ドイツ年誌」を発行禁止に処したプロイセンと対立し、「理想国家論」を標榜するプロイセン、またヘーゲル法哲学とも対立してゆくことになる。
1845年、モーゼス・ヘス、フリードリヒ・エンゲルスと共に「ドイツイデオロギー」の著作の下に旗揚げしたのが、カール・マルクス(1818-1883ユダヤ系)であった。


「ヘーゲル左派の宗教攻撃」(人間の自己疎外)

所見:
西欧の科学の躍進の時代1830-1860と軌を一にした、宗教攻撃の狼煙の上がった時代と言えるように思う。この終わりに「種の起源」が書かれている。確かに、この時代に旧態依然としたヘーゲル哲学のキリスト教の肯定性は古臭く感じられ、カントの方がよほど革新的に見える。
一方、フランスでは、革命とその後の百年を通して、カトリック支配からの脱却を政治的にはかっているときに、ドイツでは、哲学という観念によって脱宗教化を図っていたと言えるように見える。但し、フランスは信仰そのものを破壊しようとはしていない。
無神論はフランスの場合には、そのまま存在できたが、ドイツの場合は、分立的キリスト教社会により閉鎖性が強く、無神論キリスト教に付随して起こされているようだ。つまり、信仰を持たない神学の登場であり、キリスト教の仮面をつけた無神論者が量産され、彼らによって「高等批評」と呼ばれる破滅的なキリスト教学が形成されてゆく。このようなキリスト教攻撃は英米ではここまで酷くはなく、むしろ、そこはキリスト教のサンクチャリのように見える。
そこで、英米キリスト教学徒がドイツに学ぼうとするときに、信仰の動揺を経験したというのは、ドイツ側の思惑通りであったということになるのだろう。つまり、キリスト教の中からのキリスト教攻撃である。彼らの目的はキリスト教と言わず、すべての信仰を科学の前に屈服させて滅ぼすことのように見える。仏独の信仰心の退潮には、ライシテとヘーゲル左派とが強く関わったと言えるのではないか。

チュービンゲンとの関連は更に興味深いものがある。古、ルターが聖書主義を打ち出したときに、その方向の先端には、当然の帰結として、無神論があったという見解を聞いたことがある。これは、神を動的なものから静的なものに置き換え、聖書の中に閉じ込めたからではないかと思える。つまり、ニーチェの「神の死」を招来するようなところが欧州を覆ったということか。それはヴァチカンや新教派の退潮と共に、世の趨勢が宗教とは関係のないところで回り始めたということなのであろう。
牧師の息子らとも揶揄される彼らではあるが、ヘスとマルクスユダヤ教の土壌から現れた。マルクスの家庭は彼が6歳のときに新教派に改宗しているが、この少年は洗礼を拒んで暴れたといわれる。やはり親との宗教的軋轢はほかのドイツ人の同志にしたところがあったように見受けられる。

ドイツ全体から見れば、彼らは社会での多数派にはならなかったが、この勢力は侮れず、日本にも影響を積極的にも消極的にも受けたキリスト教徒が観察される。内面では神の居ないキリスト教徒である。その主張は他者攻撃に本領を発揮し、自らは然したるものを持っているのかは分からない。
彼らの最も恐れるものは、現場主義である。つまり、彼らが「下等」と呼ぶ領域である。それはティッシェンドルフの行ったような物証の積み重ねであって、常に部分的なのだが、多方面で高等批評を蚕食し、その前に高等批評は為す術がない。彼らの弱点は、キリスト教を批判しながらヨーロッパを出て、パレスチナ古代ギリシア圏の実際は深く研究していないことであり、概念という砂上の楼閣に籠り、専ら思弁を以ってその根拠としたことにあるのだろう。そこでは中立的観点よりは概念が先行している。その「焦り」のようなものについては、キリスト教に躓き、科学の勃興する当時の状況からすると幾分か同意できるところもある。そこにドイツ人気質が彼らとキリスト教側の双方に影を落としているのではないかと思えるからである。

キリスト教の本質は倫理にあり、科学とは別の問題を扱っている。そこで思うに、キリスト教を科学的に擁護することも、科学的に攻撃することも「的外れ」のように思える。そこで科学は中立的客観性を失い、科学ではなくなっていないだろうか。そこではキリスト教としても無神論としても共に純粋ではなく、どちらも科学崇拝という別の宗教に置き換えられている。現代人の多くは(キリスト教徒と雖も)これから逃れられず、いずれ将来に大きな災禍を受けるのではないだろうか。

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1801年仏コンコルダート
1804年カント没、仏:ナポレオン即位:第一共和政の終わり
1815年ウィーン会議 ワーテルローの戦い
1821年ナポレオン没
1831年ヘーゲル
1833年マサチュ−セッツ州も公定教会を廃止
1835年「イエスの生涯」
1841年「キリスト教の本質」
1848年「共産党宣言
1849年ドレスデン五月蜂起
1854年シェリング
1859年「種の起源
1861年南北戦争-65
1864年第一インターナショナル
1868年明治維新

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信仰心も不信仰も共に人間のエゴでは?


⇒ 「ヘーゲル左派の宗教攻撃」




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