人はなぜ自分の信じることを周囲の人に信じさせたいか?
・信じる者の数が増えれば、それが正しいことの実感が湧く。
・周囲の人々も同じ価値観を持つことで生活で孤立しない。
・他の人を信じるよう導くと達成感と賞賛を得られる。
・自分が導いた人からの尊敬を得られ、立場が向上する。
<以下は本人だけの理由で客観性がない>
×それが正しいことだからというのは、正さが立証できない。
×神に喜ばれるため、というものも、どの神か、また実際にその神かを明かすことは普通の人間には不可能であるので、これも理由にはできない。
×他の人々に神を知らせて救いを得させる、というのは救いの確実性を証明できないので理由にならない。
宣教に熱心であると、他の宗教体系や他の宗派に対して、どう接するかという問題が生じる。
自分の信仰が無謬であると思うほどに、他の宗教的存在に対して消極的あるいは否定的に接する以外になくなる。
従って、自分の正しさを主張するほどに、争いに巻き込まれることになる。なぜなら、その正しさはどれほど論理を尽くしても「立証」までは至らないからであり、仮に神の後ろ盾が本当にあったとしても、受け入れない人は受け入れない。そこでどうしても受け入れない人々をどう見るか、また扱うかという問題がどうしても派生してくる。そこでは「自分の正しさ」は何ら有益な対処法を示さない。
しかし、キリストは「敵を愛せ」と云われ、処刑の用意をする者らへの赦しを願い出ている。これはひとつの答えといえる。
考えの異なる個人や集団を攻撃する敵意の淵源は何か?
思想は消滅させることができない。
そこで何らかの思想を根絶させようとするときに、その思想の持主を隔離や抹殺する以外に手段は無いと古来認識されてきた。
だが、この認識はフランスのライシテを嚆矢として弱められ、今日のように多宗教コミュニティーの可能な社会への道が拓かれて、多くの人々はその恩恵に浴してきたのは事実である。その対価は公共での徹底した無宗教であった。それは無神論の擁護ではなく、公平性の確保からのことである。
しかし、この公共における思想信条の公平さには、なお多くの難問や矛盾を孕んでおり、そこに絶対的普遍性を唱えて実質的な闘争を持ち込む過激派の蛮行の頻出がその脆弱性と、根本的問題を焙り出している。
つまり、ライシテそのものも普遍性を唱える思想であるとすれば、制限を加えるところの別の思想と観るのである。
こうした多宗教受容の排撃には、思想同士に優劣を付けるべき主体が、個人の価値観であることをを否定するところから始まっている。ここでは、民主主義ほどには世界的価値観の同意を得られていない。
しかし、思想そのものは個人を超えて存在するものであり、個人はそれらの思想を個人の価値観によって肯定なり否定なりするものである。
しかし、人は往々にして、思想の在処を指導層の個人や集団に帰してしまいがちであり、そこに自らの懐くべき思想を付託して、自分では考えることを制限しようとする。
確かに、思想体系が複雑であるほどに、特定思想を専らに研究する者や集団の必要も出て来る。
したがって、その思想を代表するような個人なり集団なりが、他の思想にどう対処するべきかをも知る必要がある。
詰まるところ、人間は倫理性に問題を抱えた存在である以上、利益の分配だけでなく、思想の異なりについてもどう扱うべきかについて考慮すべき理由がある。
世界に広くみられる宗派対立による蛮行、宗教の違いによる争いに対処するにしても、政治の手法のように、国際法のような公正さをもった客観的システム、また、指導層の謙虚な認識が求められている。
この点で、宗教は政治に痛々しいまでの遅れをとっている。ヴェストファーレンも結局は内政不干渉という政治の進歩には結びついても、宗教には領邦国家という依然として中世的な政治と宗教の相互依存から脱却することができなかった。この点でキリスト教界に近世は訪れてはおらず、本質はいまだに中世的である。
しかし、宗教の近世化は不可能だろうか? 例えれば、イスラーム指導層とキリスト教の指導層が、自分の教理を絶対視せずに、互いの異なりを了解し、一定の尊重をしめすだけで、相当程度の争いや蛮行の抑止に貢献はできるように思える。
同様に、ある思想に対して、誰もがそれを考慮し評価することを許さなければならない。つまり、思想信条の絶対性を捨て、すべてを相対的であることを認めることである。
完全正義を唱えることから、様々な横暴が始まっており、その殆どで正義とは正反対の蛮行が行われてきたのであり、それは今日も精神的圧制や、中世的残忍さへの退行の原因がそこに見えている。この敵意を克服させる点で、宗教家はほとんど進歩して来なかった。
つまり、自分はまったく正しいと唱える以上の破壊的偽りも存在せず、非人間的残忍さはそこに源を発しているように観察される。
そこで有効な対処法として考えられることは、人間に絶対正義が無いことを周知させることになり、倫理的実体としての人間の実情に即して異なりを超えた共通認識とすることである。
現状も歴史上も、人間が倫理面に本質的欠陥を抱えていることは、どうにも否定のしようがない。したがって、人間は完全な倫理を持たないだけでなく、けっして主張もできない。何が正しく、何が間違えかを完全に答えられる人間は存在しないのであり、どんな経典を紐解こうとも、それを読む人間そのものが不完全であれば、そこに絶対倫理はあり得ない。
しかし、これは未だ広く共通の認識とはなっていない。しかし、出来得る限り早くこれを周知することにより、社会から思想信条の異なりによる争いを軽減することはできるはずである。
この副産物として、一神教の場合に、人間が絶対性を本来持ち得ないと認めることで、神を絶対者として高めることができ、人間個人や特定の集団を神の座に就かせたり、その代理者や代弁者として振る舞わせることを阻止することにもなる。
そこでは、これまで横暴に振る舞ってきたであろう指導者層を淘汰し、各思想信条の持ち主である信仰者の各個人の吟味を促すことで、宗教の分野でも洗練が進むことも期待できるように思える。
但し、これは政治のように下からの作用であることは銘記されるひつようがある。宗教的な思想は本来は上から、つまり人間以上の領域からのものである。したがって、上述の共通認識には、現状で真実に上からの啓示の無いことを認められなくてはならない。
これを判断することが、人間の判断を超えることであると言われる場合、そこで唯一効力を発揮するものがあるとすれば、それは各個人の良識による判断の数の積み重ねとなるように思う。つまり、民主主義に似た対処法であり、同様に、各個人が啓蒙されていることを前提とするが、民主主義同様に、「割の良い賭け」(ダール)といえるように思える。
一方で、上からの即時的啓示が無いことを認められるのであれば、特に一神教の場合に、各主体者は、異なる思想信条に対して寛容という以上に公平に接することができる。
その公平さとは、異なる思想信条に意見を言わないことではなく、別の主体者の判断を尊重しつつも、自己の価値観による評価を表明するもので、互いの思考を刺激はしても、倫理に関わる決定を当人以外に行う事ができないことを認め、そこにまでは踏み込まない姿勢を表すのであろう。
往々にして、宗教の上でこれが行われてこなかった背景には、過去に地域や民族による宗教の専有性が強かったこと、また、宗教家が信者数を獲得することを目指し、そこで個人の尊厳が冒されてきたことが挙げられるように思う。
殊にキリスト教においては、個人の価値判断である信仰に重きが置かれるべきことが根幹を成している以上、宗教上の個人の尊厳や倫理上の決定権を踏み躙る横暴は是非とも避けられるべきものとなる。
宗派の義に対するキリストの想い ⇒ サマリア人の例え
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ライシテとヘーゲル左派とを比較すると
これをフランス式、ドイツ式とした場合
フランス式は公平に主眼を置いているが、ドイツ式は時代背景もあってか独断と閉鎖性に特徴がある。
ドイツ式では科学的とされる対処法が標榜されたにも関わらず、それが科学的であったとも言い難い。ここから共産主義的無宗教が登場しているが、それも無神教という圧政的宗教になってしまった。
これであれば、カトリック支配とは戦っても、宗教そのものを蹂躙しようとはしなかったフランス式の方が、普遍的に宗教を持つ存在としての人間の実際に見合ったものとなっている。
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信仰の理由
・神が目に見えず、科学的証明ができない存在であること
もし、神が見えて客観的に存在が分かる場合にどうなるか?
強制が生じる、倫理行動に選択が生じる。
そうすると、神は人間の倫理行動の選択を保つために顕現せず、信仰を求めていることになる。「神が顔を隠されるときに誰が・・」
キリストもその生涯の間には信仰を求めた。その奇跡の業によってユダヤ人は信仰を働かせるべきであった。
しかし、ユダヤの体制はメシアを信仰せず、律法制度の終焉を迎えた。
今日、メシアがイエスであることはキリスト教徒によって広く信仰されている。また異教徒によってもイエスの歴史上の存在は周知されている。そこでイエスが今日に地上に顕現すれば、そこでは強制が生じかねない。第一世紀のユダヤとは事情が異なるから。確かにイエスが現れるなら、ユダヤ人であっても信仰によらず顕現の事実によって改宗しかねない。
そこで終末には、神もキリストもまず顕現することなく、人々の倫理行動の選択の自由を保つ必要がある。
そこで用いられるのが聖霊であり、これはキリストと共なる聖なる者を証しすると同時に、人々に信仰を懐く機会を保つものとなる。
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