Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

教会員の誤解

 

教会員のキリスト教に関する誤解の例

 

信じた者には

・すべての罪が赦される

「洗礼を受けた者が罪を赦される」とは新約聖書が主に『新しい契約』に入る者について書かれたことを度外視した結果による誤解である。

この『罪』というのは、個人が犯す個別の悪行を意味しない。新約聖書中でのこの『罪』とはアダム以来、人が誕生する時から抱えている人類共通の倫理不全を指している。それは律法によってイスラエルをテストケースとして人類全体にとりついた倫理不全である。(ローマ5:12/3:19-20)

従って使徒時代の新しい契約が発効して以降に、規律を守ることや敬虔な行いで神の是認があると思うこともキリスト教を理解しているとは言えない。

キリストの貴重な贖いを備えた神にとって、各個人の犯す悪行はすべてがアダム由来の『罪』の中に含まれており、キリストの犠牲の贖いは、アダムの罪に対応することにより、そのすべての結果を相殺するものである。

 

・信じた者は救われる

これは『もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである』とユダヤ教徒らにイエスが言われ、また求められた「メシア信仰」へのユダヤ教徒の転換について言っている背景から理解される必要があり、誰でも彼でも救われるというよりは、律法不履行の罪の内に裁かれかけ、死にかけていたユダヤ教徒がメシア信仰を見出し、律法契約から『新しい契約』へと律法の業によらずメシアへの信仰によって契約を更新し、それによって律法が罪を告発するのに対して、キリストの完全にされる義によって自らの義を立てることを止め、一心にキリストの犠牲の価値によって罪の赦しを得て、神との関係を続けることを一義的に言っている。

それを教会員は信者になれば皆救われ、天国行きが保証されたなどという幼稚な理解で満足してしまった。それは神の意向や経綸を理解するよりは、神の自分の処遇を気にしてだけのこと、つまりはご利益信仰に堕したのであり、メシア信仰でもなく、神とメシアの関係が三位一体の謬説によって区別がつかなくなり、上記のようなアブラハムの裔が受け継ぐべき『祭司の王国、聖なる国民』『神のイスラエル』の理解に達しないところからくるものとなっている。もちろん、そのゆな「信仰」が人を救うことはなく、むしろ終末の裁きに於いて、自己保身の精神からユダヤの祭司長派に同じく、自分の救いに利己的に固執し、頑迷固陋な敵意を表して終末の聖霊注がれるキリストの代理者たちを迫害し、殉教に追い立てる役回りを演じかねない危険性を帯びている。

 

・永遠の命が与えられ

信者になれば自動的に永遠の命が与えられるわけではない。

神に不公平はなく、倫理性に於いて変わるところのないすべての人は裁かれる前の罪人であり、キリスト教徒であるなしに関わらず、あらゆる人がキリストの贖罪を必要としているところでは変わるところがなく、命を得るか否かでは同じように試される必要がある。

創造での神の人に対する目的は、永遠の命を与え共に生き続けさせるところにあった。

そのためエデンの園には『永遠の命の木』も植えられたが、人祖アダムらが先に禁令を犯して『善悪を知る木』から食したために、倫理不全に陥った人類には次の世代を生み出すだけの寿命という限界が課せられ、それが倫理不全による人間社会の苦しみと短い生涯での空しさが避けられなくなった。

そこで神は、この善悪という倫理問題の解決なくして永遠の命に到達できないようにされたのであり、倫理問題の解消はキリストの義による贖いと必要とし、それを得るためには『罪』への悔いも必要とする。そこで人はただ命を願うだけでは与えられることはなく、『裁き』という査察を必要とし、そのための試金石として悪魔の誘惑も許される。その試みは一度、メシアの初臨の時にユダヤに臨み、メシア信仰を抱かなかった当時の世代はユダヤ宗教体制と共に壊滅するところとなっている。

キリストの再臨はその対型となり、世界全体に信仰が試されるときが訪れることになる。但し、その時にキリストは自らの代理として、聖霊によって語る『聖なる者ら』、終末に於いて『新しい契約』に入る者たちを用いて、その言葉への反応によって裁く。これが「聖霊信仰」であり、こうして旧約での「神信仰」、新約での「メシア信仰」、そして終末での「聖霊信仰」が揃うところで、『神と子と聖霊』への信仰によるバプテスマが可能となる。永遠の命への希望は、その信仰を保ち続けてこの世の裁きを通過するところで与えられる。

 

 

・神の子とされる

これは同時に、人が神の創造物であるにも関わらず、父たる神との絶縁状態にあることの裏返しである。

神と人とを隔てたのは『罪』であり、今日まで人間に普遍的に宿る倫理不全は、創造の神が意図したところのものではない。

そこでキリストが『神と人との仲介者』とされるのは、『創造の初め』であるキリストの仲立ちを経て、人が『罪』を赦され『神の子』に復帰することを助ける役割を指している。

新約聖書では、人類の贖罪をキリストと共に担う者『アブラハムの裔』をユダヤ民族の中から集め出すキリストの宣教と、使徒らを初めとする聖霊を受けた弟子らによる諸国民からの神の選民の集め出しの業が記されており、この『新しい契約』によって『律法契約』が成し遂げられなかった『地のあらゆる民族を祝福する』『祭司の王国、聖なる国民』の集め出しが描かれている。

したがって、そのほかの人々が神の子とされるのは、その贖罪を待たねばならないが、祭司として『新しい契約』に含まれるよう聖霊の注ぎによって選ばれた者については、その契約に基づいてキリストの義が仮承認され、人類の『初穂』として地上に居る間から『罪』を赦された状態には入り『神の子』の身分を得ることになる。自分たてが神の子として迎えられたと新約聖書が述べるのはこのことであり、奇跡を行う聖霊もない普通の人は、どんなにしてもこの身分には到達しない。

但し、彼ら聖なる者らは契約を全うしなければならず、それら契約に在る彼らは試練を受け最後までキリストの受難の道に従うか否かを、ほかの人類に先だって裁かれることになるが、脱落する者が出ることをキリストや使徒らは再三警告している。

 

 

このほかにも誤解は様々に有り、今後ここに幾らかを書き足してみる。

特に根本的なものは、ご利益信仰となっているところにあり、そのため自分の救いを確実に感じるように信仰しても、神の意志を探るところは二の次、また脆弱であり、自分の都合で作り上げられた教理を神の教えと見做してきた。

その「キリスト教の正しさ」とは、その都合や利害に直結しているため、広く寛容な視野を持つことは難しくされており、自らの信条を吟味することにも自己存在の危機を感じ、猛烈な敵愾心を懐くことになる。これはキリスト教に限らない反応であるが、その結果宗教紛争が苛烈なものとなってきた。その姿はキリストに抗ったパリサイ派に重なるものがあり、キリストの再臨に於いて同様の反応を起こす危険性を孕んでいる。