Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

クリスチャンと称する人々の信仰

-LF-

 

概して「クリスチャン」と称する人々の信仰の特徴

・「信仰」を持てば「赦された罪人」である

 キリストが癒しに際し『あなたの罪は許された [αφιενται]直現受3複 』Mt9:2

・「信仰」持つのは神の奇跡でその人はこの世の前から選ばれていた

 エデンの『女の裔』の予告Eph1:4を誤解

・自分の中にキリストは聖霊によって住んでいる

 聖霊を注がれる聖徒が神とキリストと結びつく事を誤解 Jh14:23

・信仰ある自分は死後に天に召される

 契約にある聖徒への処遇を自分に向け経綸の目的を喪失(利己心へ)

・神に従順であれば敬虔な言行により神に近づける

 自分を敬虔な義人とする事に関心が向いている

 

幸福感の俗化

まず、神の意図するところが、信者を中心とした人々のこの世で幸福であると説き、その後は天国や楽園での至福に入れることであると信じる。

他方で、信仰を持たない人々は、その神の意図に入れず、人生で真の成功を収めず、死後は地獄、または滅びなどの神の裁きによって処断されるとも教えられている。

この教えは、宣教する側からすれば、信者獲得のためのアメとムチの便法ではあっても、キリスト教に限らず、この種の教理を受け入れた信者は、排他的にならざるを得なくなり、自然と優越感と蔑視を惹き起こされることになる。

これは、神を差別主義者であるとしてしまうばかりか、キリストに激しく反対したパリサイ人の精紳を懐くことでもある。

そこで「クリスチャン」やその指導者らは、この教えは聖書に基いていると唱えることだろうが、そこで聖書の字面を追って、そこに書いてあればそれがそのまま真理であると思い込む「聖書の偶像化」が起っている。

この手の「聖書への忠実」は、聖書がまったく神からの親切な指導の書であり、その通りにしていれば、神の是認に入れるという仮定に基づいている。

だが、キリストを葬り去ったのは、まさしく当時の聖書に精通し、その言葉を厳密に守ろうとしたユダヤ教の指導層であった。

もちろん、ユダヤ教徒は聖書の律法に口頭伝承の付け加えを行ってはいたが、律法そのものを一字一句守ることを目的としてのことであった。

だが、聖書そのものには、単に神の善意が語られてばかりではなく、人を糾弾する言葉も多く、むしろそのように厳しい内容の方が多いほどである。

それは、神の言葉が語られたのが、ほとんど神との契約関係に入った民に向けられたものであったことが原因している。

それは新約聖書でも変わらず、キリストを通して『新しい契約』に入った『神のイスラエル』への祝福と戒めがその内容であり、水のバプテスマによってメシア信仰を表した人々が選ばれ、聖霊を注がれて『聖なる者』として任命された以上、『多くを委ねた者には普通以上が求められる』ので、新約聖書にも多くの戒めが書かれているのである。

そこで神の意図というものが、ただ「信仰を持った人を祝福し恵む」ということを超えていることに気付くべきなのであるが、人は短絡的にまず自分に益があるかないかというところで信者になろうとするものである。

これは嘆かわしくも、人に普遍的な利己心の表れでもある。しかし、キリスト教というものは、キリストが自己犠牲の死を遂げたように、利他性を教えるものである。(コリント第二5:15)

特に『この世は始まる前から選ばれていた』という本来は聖徒に向けた言葉を信者一般に摘要してしまうことは「おめでとうございます!あなたが選ばれました」と射幸心を煽る不埒な商法と性質は変わらない、下劣な欲を引き出す人権を卑しめる教えである。どれほど聖書にその句があろうとも、適用が間違っているだけでなく、その教えによって信者にどのような悪を為すかを弁えていない。

 

自己義認

自分が「クリスチャン」であることにより、そうでない人々に対して高一等の誇りを持っている。それは敬虔さと品性を備えており、言動に節度と賢さがあって、神に通じているという自負心が見られる。十字架を身に帯び、また体の正面で印を結ぶことにより、神であるキリストへの帰依と献身と服従を誇りのうちに自認する。しかし、その正義感は自身のものであり、本人の良心の働きがキリスト教的常識に影響されることによる。その正義感は時に他者を圧迫し、また実力行使を辞さないこともある。その理由づけは、自分たちが神の側に立っているとの思い込みによる。

特にプロテスタント新宗教系に自己義認の傾向が強く、他の派を批判するところで自らの正統を唱えやすい。カトリック東方正教会は伝統と儀礼に重きを置くので、義化の方式が神秘主義的ではあるが、教理の合理性は弱く、そこに新興の宗派の拠って立つ場を与える結果となっている。

西欧では19世紀後半ころから「科学信仰」が勃興してキリスト教的伝統は、ほぼ好まれていない。積極的なキリスト教の中心は清教徒の植民した北米に移っている。現在ではアメリカ合衆国が自己義認の強いプロテスタント的国家であり、宗教の自由を標榜しながらも、政治までが極めてキリスト教的な慣行を持っている。対して中南米でのキリスト教は教会組織を通して政治に影響を与えることがあっても強くはなく、個人や家族親族の共通認識を形造り、信者は義認感よりは赦しを求める立場に置かれる。

 

聖書の見方

よく言われるのが「神からのラブ・レター」<これは軽率、いや、まったく軽薄>

聖書を自分を導いてくれる神との接点のように見ている。

また集団としては、聖書に従った教理を教え、崇拝を組み立て、自派の正統を確立できると捉える。聖書は正しく従う者に神の是認やさらに義をもたらすと信じる。だが、これはパリサイの轍を踏んでいる。

大前提として、自分や教団は神の是認に在ると思い込んでいる。その根拠は自分が信仰を持っていると考えるところにある。却って、神は自分を尊重し、救いを施すべき存在として見ており、自分が祈るとき必ず聴かれ、信仰ない人、また異教徒や異端者らと異なり神の前に高一等の立場を得ていると思い込む。

神との親密さを自分は得られていると思い込むが、それは教導者の差別的な教えに原因するところが大きい。

そのため『新しい契約』がどのようなものかを理解できず、むしろ自分たちが契約に預かっていると思い込んでいる。

そこで、神は自分に善意を懐いているに違いないから、自分は天国行きなり楽園行きにされるものとの決め付けが最初から置かれている。(ヨハネ5:39-40)

そのため自分の目的や都合に合わせた解釈をしようとはするが、神の真意を汲むことは二の次になり、聖書理解が荒唐無稽になる。混乱が明らかになると教師は「神の事柄は理解できない」と逃げる。それでは聖書の存在意義な何なのか?

しかし、聖書はそのような書物ではなく、悠久の時代に亘る神の経綸が収められており、これまでの神の行動からその意志を探り出すべきであるのに、自分が祝福など益を得られると思い込む願望が先行してしまい、古色蒼然たる神と人との交渉の積み重ねを単なるスピリチャルのように自分の利益に読み替えようとしている。

そこで重い教訓を得ることなく、生き方や生活上の決定や困難への対処法を得ようとして聖書に向かう。

そのため、このような信者は、自分に関する戒律や細々したことへの指導に迎合し、自分で判断し責任を持って行動することから逃れようとする。

<これは投資やギャンブルで失敗しない方法を知ろうとする動機と非常によく似ている。背景にあるのはこの世への対処の難しさであり、人格の未熟さも関係する可能性が高い。つまり、安直に従うことで間違いのない方法を得ようとしているのである>

 

 

ユダヤ教への接近

近年では、プロテスタント系の諸宗派がユダヤ教に接近しつつあり、ユダヤ人が依然として神の経綸を担う民であるとの信仰が強まりつつある。一部のプロテスタント派は、ファウンダメンタリストと結びつき、イスラエルキブツユダヤ人と共に過ごし、その仕事を手伝うなどまでしている。彼らはパレスチナ人の置かれた苦境に同情しているようには見えない。

カトリックユダヤ教への接近を見せているとは聞いている。アメリカ国内でのユダヤ教の崇拝はカトリックに似たものとなりつつもある。但し、イスラエル本国のユダヤ教は正統派が多く、こうした折衷を好んでいない。

また、ユダヤ教側からナザレのイエスをマシアハとして信じる「メシアニック・ジュー」が現れたことを歓迎する宗派もキリスト教側から出てきているが、メシアニック・ジューは律法を順守する事に於いて明らかにユダヤ教徒であり、人間の原罪とキリストの贖いについての理解に到達していない。だが、もしメシアニック・ジューに接近するキリスト教の宗派が、律法順守を容認するのであれば、キリストの犠牲の重さを知らず、キリスト教を保持しているとは強い難い。イスラエル本国でメシアニック・ジューは立つ瀬も無く、ほぼ存在しないと言うに等しく、その分彼らは他の国々に浸透することを主にしている。

米国ではメシアニック・ジュー以上に、ユダヤ教そのものに改宗するキリスト教徒が女性を中心に少なくない。まず、夫がユダヤ人であるためのケースがかなり多いが、男性での改宗者が然程多くないのは「割礼」が影響しているのであろう。