Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

エホバの証人の排他性の由来

 

エホバの証人の排他性は、その「生き残り」願望を煽る教理に由来する。 

本来の所属動機は自己義認を得た少数者となっての「永遠の命」の獲得にある

彼らの聖書理解の優越性は、常にキリスト諸教会の中世的な解釈に比較する場合に限られており、聖書との整合性や論理性では未だ蒙昧の域にあり、突き詰めようとすれば会話を止め、ほとんどの場合、考慮することそのものを拒絶してしまう。

その原因は、自らが与えられるつもりの永遠の命が危険に曝されると妄想するからであり、その点では真理を愛するよりはよほど「ご利益信仰」であって、「神の経路」を称する「ものみの塔」は実質「見える偶像」とされ、その教理にも命令にも逆らうことは許されていないのであり、信者である「エホバの証人」は「ものみの塔」に対して重要な信仰内容の個人判断は差し控える。これは彼らの「信仰」が組織的に規定されたもののコピーであることを証している。

その自己判断の放棄も、個人で抱く信仰の体裁をとってカムフラージュされているが、実のところ、永遠の命を質に取られた教団組織への隷属となっている。他者との関係に於いては、神の是認を持つと妄想しているために、外面はともかくも軽蔑的であり、社会一般の権威を認めず、ごく一般的な人々と変わらぬ仲間を過大に評価し過ぎており、「兄弟」と呼び合いながらも厳格な身分階層が存在している。即ち、実質的に「現代のパリサイ人」として古代と同じ轍を踏んでいる。

彼らは、輸血や兵役の拒否など一般社会の人々との差別化により、自分たちには神の是認があり、また自分たちだけが永遠の命に値するとし、「ものみの塔組織信仰」に無い外部の人々を内心で蔑視しつつ伝道するので、基本的に利己的ではあるが、これについては不信者は皆「地獄行き」とする諸教会とも変わるものではなく、欧州キリスト教の価値観から出てはいない。特にプロテスタント諸派に同じく「聖書に厳格に従うことから神の是認を得られる」という前提を共にしているところでは根本的に同じパリサイ的精神構造を持っているが、その差別化が激しいために、諸教会ばかりか社会一般までをも見下し、信仰を別にした自然な人間評価というものを想定していない。その不自然な視野の狭さ、また周囲への隔絶性が彼らの排他的行動を形成している。

⇒ quartodecimani blog : 利己主義という一神教の盲点

 

 

◆概説

最重要視されるのは「命」であって、神や他者との関わり「愛」ではない。

この逆転は、「命」の機会を与えることが「愛」になっており、「愛」が「命」を生み出すとは教えられていない。「命」の由来は「愛」ではなく「従順」にあり、これが人間の組織からの搾取を許している。

エホバの証人に「人にとって最重要なものは永遠の命ではない」と言えば、理解できないと思われる。

しかし、全能の神がそう意図すれば、あらゆる人に永遠の命をすぐにも与えることは不可能でないに違いないが、そうでないからには理由があるはずであり、その理由こそが「神との関係性」に由来する重大事である。

しかし、エホバの証人の場合には、神との関係を超えて「命を得る」ことが優先され、本末転倒に至っている。これは利己性を根幹としており、信者の内面で他者との関係性が後退させられている。神との関係性も歪められ、神の全能性とキリストの犠牲の価値に依拠するよりは「自らの業によって神に救いの代価を支払うこと」に信頼を置いている。

それを煽っているのが「ものみの塔聖書冊子協会」であり、精神的にも労力的にもエホバの証人を強い支配下に置いているが、これは聖書の神の性質に反する圧制と隷属に他ならない。その隷属の代価は人間には保証不能の「永遠の命」になっている。そこで証拠として聖書の記述を持ち出すのだが、そこに書かれた事柄といえども単なる人の解釈を経ていることは黙殺され、かつてユダヤ人らが聖書に書かれた事柄に硬直的であったために神の意志から逸れ、メシアを見誤り殺害にまで至った件は自分たちに無縁であると考え、同じく頑迷固陋に当時に事情を考慮するよりは、ただ文面に従うことで神との関係を結ぼうとしており、これは典型的なパリサイ主義と言える。

その原因は、神の意志を「時」という行動予定に置き換えてしまった非人格性にあり、唱道者のC.T.ラッセルの信仰のアプローチに起因しているのであり、これを改めるとすれば、初代の指導者の教理から放棄しなければならないことになる。

ラッセルの信仰のアプローチは彼から始まったものではなく、英米の覚醒運動の影響から始まっており、C.T.ラッセルはその年代を訂正した教理を説いた一人の素人研究者に過ぎず、1914年に主の来臨と自分たちの携挙とを主要な教理としていた。『七つの時』と2520年とするところは英国のJ.A.ブラウンに起源があり、そこからミラー派の系統樹に分類され、借用された信仰の型はアドヴェンチスト派のものであって、ラッセルがただ年代を訂正したところではなおアドヴェンチストの一派であった。⇒ ミラー派の系譜

予告した1914年に主張していた事は発生せず、世界大戦が勃発したため、本来予告した事柄は廃棄して、キリストの終末預言の災厄に同年のキリストの臨在の根拠を結び付けたのは、ラッセル派を再興させたラザフォードであった。以後、年代を何度か予告しては唱えた事柄が起きない度に、教理を訂正し続けてきているので、この宗派は未だにミラー派の範疇にあると言える。即ち「年代信仰の宗教」であり、今では年代主張を留め土曜安息にシフトしたアドヴェンチスト(SDA)以上にミラー的信仰にある。

従って、生き残りを懸けた純然たる「ご利益信仰」であり、自己利益の確保がその主題であることは「人生の成功」を謳うところに如実に露見している。『永遠の命』を自分たちが占有するかのように信じるところでは、神の意志が閉鎖的であるとの宣伝を行い、結果的に神を中傷することになり、その利己性はキリストの犠牲の精神に胡坐をかいている。

これはユダヤ教パリサイ派の轍を踏む愚行であり、キリストの裁きを恐れぬ異様なまでの蒙昧にあることを表している。(ヨハネ5:39-42)

端的に言って、「エホバの証人」とはハルマゲドンの恐怖に脅されて屈した人々であり、「楽園での永生」の確約を願望して、間違えもする単なる人間に操作されている人々である。これをどう評価するかは本人次第であるとしても、この事実は揺らがない。

その恐怖への焦りから、関心の中心は自分たちの生き残りにあるために「義」を求めつつも、人の内奥の倫理性に基いて裁こうとする神の意志ではなく、裁きの要諦が外面的な個人の行動による道徳性(業)であると考える結果、排他性が避けられないばかりか、その排他性がむしろ「救いの証拠」として錯覚させられている。そこで宣教が他の人々の「命を救う業」と称しながら、実は保身のための義認への誘いとなってしまっている。

このような業による救いは、既にユダヤ教とメシアとの対立の中で否定されていることはエホバの証人たちも承知はしているが、神の裁きの時の来ていない現状で、救いを先取りしたい願望から、業と道徳性の基準を作りあげ、救いの条件としているところで、本来の「信仰による救い」から外れ、ユダヤ教の「業による義」の原理に戻ってしまう指導層の教理の歪曲に賛同してしまった。

この歪曲は「神に関わる時の認知」を主な信仰の要件とする場合に避けられない。ものみの塔の信仰要件は構造的に誤謬を免れない「時への信仰」の形にラッセルを土台として初めから形成されていた。だが、これはキリスト教の本旨から逸脱している。神の裁きに関する「時の認知」は、自己保存本能の刺激を避けられるものではない。『あなたがたは、けっしてその時を知らない』とのキリストの言葉には、神の裁きにおいて人が善人の仮面を着けることを許さないことを意味する道理がある。だが、彼らの信仰はその逆で、聖霊もなく自ら『新しい人格を身に着ける』ことができ、その結果として救われると勘違いしている。

また、その誘因は、救われる者が少数であるに違いないから、その少数者に含まれるからには、社会一般とは異なっているはずであるという仮定から来ている。この根拠としてルカ13:24などが用いられる。この信条の基礎を成すのはノアやソドムの裁きのモデルであり、キリストの初臨に於けるユダヤの裁きのモデルではない。(マラキ3:2/マタイ3:12)

そこで「救われる少数者」の条件を聖書に求め、聖霊を注がれて「新しい契約」に預かった聖徒たちへの「聖なる者となるように」との訓戒を、一般信者にまで要求し、それを基準として教団が更に設けた基準に従う人々に「救われた実感」のような錯覚を与えることになっている。この自己義認を錯覚させる点で、伝道活動への強制は信者が義であるために社会的に孤立していることを印象付け、同時に新たな信者獲得にもつながるので、指導者側からすればメリットが大きい。

 

◆知ったつもりで知らない聖書

その原因の一つには、聖書への無知が挙げられる。個人的で自由な研鑽が許されず、多くの時間を非効率で無関係な事柄に消耗させられているからである。

これは「永遠の命」があたかもこの教団との関わりのみによってもたらされるかのように誤解させるところにまで本来のキリスト教が歪められた結果であり、宗教上の理由により行動の違いが出ることで、周囲から目立つところに自らの義認を再認識し、且つ組織は信者自身への操作、また周囲への義の誇示や宣伝を目的としてはいるが、行動基準に従うところでキリスト教との関係性は無く、このヒステリックな強制の犠牲者は主に子供や学生となっている。やはり、こうした排他的行動の本人や親たちの動機はやはり滅びへの恐怖である。

だが、キリストに続く者として厳しく試され吟味されるのは『聖徒』であって信徒にはならない。むしろ信徒の集団は聖徒の試みの期間を含めて保護を受ける。(黙示12:14/イザヤ26:20)

『入ろうとしても入れない者は多い』とは彼らではなく、『新しい契約』を全うし、神の王国を相続するまでにキリストに従う『聖徒』は多くなく、聖霊を注がれながらも脱落する者があることを指している。彼らには聖霊の罪が生じ、赦されることはない。(ルカ13:24/ヘブライ6:4-6)

しかし、ものみの塔は神の裁きに対する恐怖を強調し、その組織の下に人々を集めて操作し、支配を実行してきた。それがキリストの支配であり、その支配がものみの塔を通して地上で始まっているという主張ではあるが、その原理はやはり恐怖である。バプテスマを受ける時には、楽園か滅びかの選択を行う動機が働いており、教団もそれを請け負っている。もちろん「無条件の献身」とさえ言えない。献身先は神でもキリストでもなく、救いをもたらすはずの教団になっている。

「楽園」への生き残りの代価として、個々の信者は「エホバの証人」であることが何にも勝って強調されるため、あらゆる生来の個性を抑えて「エホバの証人」という人格を強要され、生活の細部にまで統制を受けることを許してしまっている。そのように命惜しさの偽人格が形成されているのを『新しい人格』として永遠の命に不可欠なありがたいものとして受け容れている。もちろん、それは聖徒が聖霊の内に得る人格を指しており、この教団の信者には単なる集団の心理作用である。

 

◆単なる一時逃れ

彼らの宗教を例えると

「対向車がパッシングする」のに似ている

「この先でネズミ捕りをしているから速度を落せ」というサインを受け、普段の自分らしくもない模範的行動によって「ハルマゲドン」という「取り締まり」を逃れようとはするが、本人の内面は「アダムの罪」に於いて何も変わらない。

つまり、今エホバの証人であっても、その場で模範を装って逃れようというだけの伝道奉仕であり言動である。それは表面的「業」の義であって、その「義」も一つの宗教組織を支持する行動を取るかどうかに置き換えられたことに気付いていない。集会という集団圧力に屈し流されている。

しかし、人間が『義』とされる方法は『信仰』という内心の価値観によるもの以外にない。それは自分の『罪』が人の努力の及ばないほどに改善できないものであるので、一重にキリストの犠牲の適用されることを願うことである。その『信仰』は、『聖霊』の現れである印を信じるところから生じる。

聖書に書かれたところは、かつての信仰の例ではあっても、読者個人を決定的な『信仰』に至らさせることはない。

 

 

◆教理の特徴

・1914年からキリストの臨在が始まっており、世界は「終りの日」に入っている。黙示録に描かれる『ハルマゲドン』が起るとき、『この世』は裁かれて滅びることになるが、エホバの証人は救われて、「楽園での永遠の命」に入る。<聖霊が注がれ、既に(仮の)救いに入った『聖徒』への言葉が誤用されている>

 

・組織の指導層はキリストの予告した『忠実で思慮深い奴隷』であり、信者たちに定めの食事である霊的な糧を備えている。

<キリストの支配が自分たちによって既に地上に到来していると唱えることに於いて、彼らは主人が到着していないのに仲間を叩いて強制し、宴会を始めてしまった家令に相当するばかりか近年その糧の質が劣化し続けている>

 

エホバの証人の宗教組織である「ものみの塔」は「ノアの箱舟」と見做すべきもので、エホバの証人として水の浸礼を受け、この組織に加入した信者は、世界の終りを生きて通過できる。したがって「ものみの塔」だけが神の救いを占有している。<キリストの救いの原理は、贖いの犠牲の提出によってノアの箱舟とは内面的に異なっている。ここから様々な強制が生じている>

 

・滅ぼされる『この世』は悪魔の支配下にあるが、エホバの証人は『神から出ている』(1Jo5:19)

 この違いは、ものみの塔を代表する『忠実で思慮深い奴隷』に従い、毎月伝道することで、『キリストの兄弟たち』を支持し、善を行っているかどうか、また、『この世』とは異なり『清い行状と敬虔な専心』を表しているところからくる。<マタイ25章の聖句の適用は歪曲されており、ヨハネ書簡も聖なる者らについて『世から選び出された』ことを述べている>

 

・『ハルマゲドン』を生き残って救われるためには、滅ぼされる『この世』とは異なっていなければならない。そこで聖書に生き残るための条件を求める。

 これは『この世』に見られる偽宗教(大いなるバビロン)的、また政治的、闘争的な慣習を離れ、不道徳な汚れを避けている必要があり、そうして神に嫌われる行いを避け、神の是認に入り、滅ぼされることなく救われる。

<聖徒たちへの契約に関わる道徳規準が他の人々の救いの要件ではない。またハルマゲドンの戦いで世の裁きが完了するわけではない⇒四騎士

 

・信者であっても、指導者層(統治体)を代表する「組織」に従順でない傾向を示すなら、神の是認は薄らぎ、新約聖書に書かれた道徳律の規準から逸脱しているなら神の是認は無い。だから聖書に従う自分たちは絶対に正しい。

<聖書にさえ従えば神の是認があるという仮定でパリサイ派の轍を踏んでいる>

 

・以前には信者であったが、後に通告して辞めた「断絶者」、また、組織の定めた規準を著しく犯した「排斥者」とは、家族信者を含む一切の交流や会話も断つことが強制されている。そうしないなら信者であっても同罪と見做される。

パウロは聖徒の清さの保持について、ヨハネは異教分子(グノーシス派)の混入を警告している、一般信者らへの忌避ではない。まして実害ある忌避が『自分にして欲しい』ところだろうか>

 

・『ハルマゲドン』が何時になるかは分からないにしても、1914年から百年以上の年月が「世代が重なる」ほど経過しているため、世界が滅ぼされる時は日々ますます近づいている。更に時が経過するに従い、いよいよ緊急感を抱いて熱心にならなくてはいけない。

<神は人の内面を裁くのであり、第一世紀のユダヤに同じく準備し善良を装って逃れられるものではない。イエスの終末預言は世代が去る以前の37年後に一度成就した> 

 

 

◆これらの教理が信者とその周辺にもたらす影響

概要     ギャンブラーに似た精神構造 

・代償としての救い

人間は交換社会に依存して生きているため、優れたものを提供する相手に代償を支払うことで救いや恵みまでも所有、または領有して安心したい性質を強く持っている。エホバの証人の場合、永遠の命や煩いない社会を希求する余りに、役に立ちそうな代償の提出を求められれば応じてしまう。

その代償も、信者らに納得し易いものでなくてはならないので、品性のある言動であったり、間違いのない真理であるものみの塔の教えの伝道であったり、寄付を寄せることでもある。

そこで信者の時間や労力が無駄に消費され、前時代的非効率の結果、指導に服するよう馴らされることになる。しかし、まるで無報酬でも熱意を削ぐので、称賛や「特権」という名義と権威が、より多くの努力を積んだ者に下賜される。ここに『救い』を得たと思う傲慢の源がある。そこで欲望のままの人が、生存の次に求めるものが地位と支配であることを露呈する。<これが指導層の相貌を暗示している。特権保持者はその「象り」となっている>

一般の社会生活では、支払を済ませた者には当然の権利があると思うのが、「この世」の交換社会の大前提であるので、エホバの証人は自らの払った労力や犠牲が大きいほどに、その利権を確保したいと自然に願うので、それが「永遠の命の確保」となり、その大損害を認められないために強硬で頑迷な排他性を発揮することになる(埋没費用効果)。それが永遠の命という最大利益を請合った組織を擁護する最大の動機であり、また懸案願望ともなっている。

彼らの「信仰」というものは、この「利権に対する信用」を言うのであり、神との関係性がどうこうということではない。それが証拠に、彼らに神を崇拝する理由、また宣教する理由を尋ねるなら「楽園での永遠の命の希望」を間違いなく挙げる。

だが、聖書を貫通する神の求めは何等かの「支払」ではなく、個々の人の「倫理の決定」即ち「信仰」にある。それは決して個々の人の道徳性の程度を云々するものでないことはキリストの犠牲に明らかであるが、ものみの塔は律法主義に後退してまで、エホバの証人に「支払」を要求してきた。人々は神に代価を支払っているつもりで、実際には組織を拡大させ肥えさせるために身を挺して仕えてきた。Rm4:4-5

例えエホバの証人が組織の指導の欺瞞に気付いたとしても、永遠の命は人間同士の需給関係を超えているため、支払った代償に見合う酬いが無くても指導層を訴え出て何等かの処置や制裁や賠償を求めることができない。組織側は信者たちが自発的な信仰を懐いて行動したことに於いて自己責任を唱えて逃れることができる。

その点では、神が何時ものみの塔エホバの証人と契約を締結したか、といえば、そのような契約が存在した客観的証拠は無く、ただ1914年の「預言の成就」に信頼を置くほどでしかない。

どれほど聖書に従うとしても『新しい契約』とは聖霊を注がれた『聖なる者』『キリストの兄弟ら』だけのことであり、それ以外の一切の人々には関わりのないことである。むしろ聖書記述に従うなら、依然としてすべての人は、その思想信条や道徳性に関わりなくアダムの罪を免れず「神の裁き」の以前に居る。

しかし、そこに宗教家の旨味がある。人は死を恐れて自分という存在を虚無に過ぎ去らせたいとは思わないので、「神はこう言っている」と脅すことが可能であり、彼らには驚くほど多くの人々が簡単に従ってしまうのを目にしているであろう。

疑う者が出るなら「信仰が足りない」あるいは「霊性が下がった」ということで処分を下せるが、ものみの塔の場合には更に「忌避」という情報遮断の手段を「愛のある行い」として実行し得る態勢が築かれている。しかも、この宗教体制の是非が信者からも決定的に問われる時期が定めなく延長され得るので、「ますます近付いている」と言っては逐次言い逃れができる状況が続いている。

 この責任感のない体制の存続を許しているのは、他ならぬ信者「エホバの証人」という以外に有り得ない。したがって、個々の信者がどれほど清廉潔白に言動を慎んでも、却って自ら盲点を突くことを指導者に許し、まさしく彼ら「エホバの証人」こそが様々な巨悪の原因となってしまっている。そこで彼らの中にも良い人は居ると言うのは的外れなことであり、むしろ良心ある人こそが、彼ら自身の救いや恵みへの貪欲によって、どれほどの悪を自分と周囲とにもたらしているのかを内外で気付いた人々が信者に知らせるべきと言える。

ただ、確信を留めるエホバの証人は現実を知ることが自分たちの将来を危うくすると勘違いするので、やはり、あらんかぎりの方法と力とを使って、その現実を拒絶し、実際には信者より貪欲な指導層の与える夢の中に留まろうとするところでこの人々に実態を気付かせるには大きな障碍を残している。彼らのその拒否感の強さは、ほぼ例外なく論理を超えて偏執的感情にまで膨らんでおり、情報を拒絶することが「正義」と置き換えられている。これが排他性の原動力である。

これは投資詐欺に遭っている被害者や「次は当てる」と思い込むギャンブラーが抱くほかの可能性を考えに入れない精神に似ている。だが、他の情報を遮断しようと、それが現存しているのであるから、考慮に入れないことは自ら危険に身を曝すだけのことになる。

<この辺りは洗脳のこれ以上ないほどの成功例の域に達している>

 

◆差別化による自己義認

即ち、信者たちは神に受け入れられているが、そうでない人々は神の不興を買っており、意図しなくても裁かれて滅ぼされる悪魔の側に組みしていると信じ込んでいる。そこで世間一般の人々と異なる習慣を多くする必要が生じ、幾つもの戒律でエホバの証人である規準を作り、周囲との差別化を図ることによってのみ、自らの義認を自覚することができる。

特に輸血の拒否は、この差別化において命をかけるまでの自己義認の方策となっている。この差別化がエホバの証人たちに、神の是認を得て永遠の命の規準に達したとの思い込みと、一般人に対する優越感を惹き起こさせ、他者への憐れみから伝道する誘因を形成している。これは自らが既に神の是認にあると見做すところで、隣人愛というよりは、かつてパリサイ人が懐いた自己義認を伴う傲慢さを基本としている。

この輸血拒絶を組織側から見ると、ものみの塔の指導への従順が一命を賭すところにまで極まり洗脳が完成する。また組織は健康問題と血の禁忌との違いをリンクさせて語り神からの実際的な知恵であると語るところが少なくない。

使徒15章の適用は、当時のユダヤ教会堂の習慣を見落としている)

 

◆模範性

自らの命の存否が、神の規準を越えて感覚的好き嫌いにかかっていることになり、それはこの宗教組織である「ものみの塔」また、その代表である「統治体」への従順の度合に左右されることになり、実際に「ものみの塔」は神が何を好み、何を嫌うかを代弁し公表しては、信者を掌握しているので、実質的に「ものみの塔」への従順の程度による模範性が終始問われている。

これは組織の外部に対してだけでなく、信者同士にも優劣の区別をもたらし、排他性を強化するものとなっている。実際「模範的」という不明瞭な規準があり、それに達していないと中間幹部(長老)に見做される場合には、組織内の「特権」が付与されない。<ヨブ記の解釈は間違っているというよりは、指導部はよく読んでいないらしい>

 

◆二重の法規

信者となるに向けての指導過程から、集会への定期的出席や伝道への参加、加えて道徳規準を守るよう促し続けられる。これは、既にキリストが地上を支配しており、それに従うことであるとされるところから来ている。

その結果、公の法規に加えてもう一つの法を守るように求められ、信者となると罰則が伴うので重い頸木を負うことになる。それでもこの組織が社会一般より道徳的であるとは言いきれず、どれほど教育を重ね、排斥を行っても人間の本質は変わらないので、組織の法規を守るという義の仮面の下で、却って道徳に悖る不正が行われることがある。

キリストの犠牲は、この変われない人間の悪を赦すためのものであったのだが、ものみの塔エホバの証人を法で縛り、キリスト以前のユダヤ教の原理に戻ってしまっている。したがって、信者は国家の法や条例と共に、二重国籍化したかのようになり、組織の法も負うことになる。ユダヤ教徒が住む国の法規との葛藤に曝されるように、それが時折、公の法と齟齬をきたすこともある。

しかし信者にとって、より重要なのは組織の課す法規であり、『人よりも神に従うべき』との聖書の精神に基づくものであると考えている。これは組織の指導が神の王国の支配であるとの思い込みから惹き起こされた事態であり、神の王国の支配が現に実行されているものであるかのように妄想することを助長するものともなっている。

それにしてはキリストの臨在は長く信者の負担も大きいが、それが救いの要件であると教えられているので、滅ぼされないために生涯にわたる忍耐が必須となっている。そのため信者は重い頸木を負いつつ、中枢の恣意的指導に耐えている。規準から逸れる者に寄り添う姿勢が見られるかと言えば、「組織を清く保つ」ことが第一に意識され、人間の現実の事情に目を背ける傾向が強い。

<これは、滅びへの恐れでも、法順守の業による救いでも本来のキリスト教からは大きく外れている>

 

◆信者への支配

統治体は信者の生活方式や決定事項に介入するが、それが神からの導きのように刷り込んでいる。しかし、その目的は信者が信者として留まるよう細々と指示を与えて依存関係に入れることにある。なぜなら、新約聖書にある道徳規準は契約関係に在る『聖なる者』に向けたものだからであり、それを守るべきは契約関係に在ると主張する者らの方である。指導層が「神はこう感じられる」と主張するとき、それは聖書に根拠が薄弱な上、人々の良心をもてあそんで、自分たちの命令に従わせる動機としているが、信者はそれを神の経路からの指示と信じて畏れて従ってしまう。

この指導層は、その一言によって信者の財産であった集会所や貯金の名義を中央組織に変えさせ、信者の意向を諮ることもなく、彼らの善意の結晶のような大会場を売り払って入手した代価を信者の誰にも還元する様子を見せていない。洗脳された集団の大半は形ばかりの決議に異を唱えることもなく、多額の財産が移管された。

<この神の威を借りた権威の横暴は支配嗜好者の傾向をしめしている。本来、信仰ある立場からすれば、神を代弁するところは悪辣というほかない。これは傍目にも適性な処置とは言えず、所有権というもの、また信者の人格への攻撃に見える>

 

◆間断の無い緊張

道徳性の清さと、宣教への熱心さに生き残りがかかっていることになり、信者が神経質に自らと他の信者とに注意を払うことになり、それは自分への緊張感と周囲の信者への監視を招いている。これは信者の全生活が、一挙手一投足について『言い開きを求められる』かのように、神に見られているという脅迫観念に支配される。しかも、終わりの時は不可逆的に近付いているのは間違いないのであるからと、信者の緊急感を煽り続けている。これに誠実に従おうとする信者自らだけでなく、家族、親戚、友人にも影響するものとなり、少なからぬ対人関係や精神疾患の実害をもたらしている。

会衆では模範性が常に要求され、道徳上の幾つかの種類の懲罰的措置が下されることがあり、その最たるものに忌避がある。それは家族の絆に対して、宗教団体の関係性が勝ることを主張するものであるので、家庭も無条件に憩える場とはならず、そのうえ、実質的に家族の生活方式にまで細かな規約が存在するために互いに監視するような関係を余儀なくされる。

 

◆優越感

様々な犠牲を払って「清い立場を維持している」ために、そうしていない人々に対し優越感は避けられない。また、優越感は自らエホバの証人であることに誇りを持たせ、宣教に邁進する動機を形成している。加えて、信者の中でも幹部となる「特権」が推奨されており、「兄弟」と呼び合いつつも、優越感が増強されるよう、組織内は立場が段階的に細分化されている。これは利己心を助長し、他者の弱さを自らの誇りのために利用することになっている。また、個人の判断は地位の上位者に相談や委託することが相応しいことにされ、個人の自発的判断は抑制される。この集団では「清さ」と「偉さ」の区別が非常に不明瞭になっており、偉くなることが熱心さの燃料となっている。しかも、これがサタン的特質を煽っていることに大半の信者が気付いていない。

 

◆蔑視が避けられない宣教

正義が自分たちにだけは有ると主張すれば、どんなドグマであれ周囲への蔑視は避けられない。エホバの証人の場合、単に、自分たちの聖書解釈が正しいというところを越えて、神の是認と救いが自分たちにだけは有ると信じ込んで他者と接するために、宣教において相手を蔑視していることを悟られることが観察されるが、蔑視していることで相手に反発される理由が自分たちにあるとは感じず、反発する相手に問題があると考える。これはエホバの証人が傲慢を自覚できないほど洗脳されていることに無感覚であることの証拠となっている。

加えて、伝道への貢献度は費やした時間により計測され、物理的な観点から伝道者の間に階級を設け、それによって効果性によらず、時間浪費の労働に信者を駆り立てることに成功している。個人の良心が時間数に対して働くので、奴隷的扱いを可能にさせているのは、それに疑問を呈さない信者も貢献している。時間数への忠実さが信者同士の間に優劣をもたらすだけでなく、伝道される側に対しても優越性を感じさせる特権意識は拭えない。

 

◆情報の閉鎖性

『この世』との異なりを求めることが救いの条件となっているために、外部の広大な領域を悪魔に影響された有害で敵性を持っているものと見做している。そこで「ものみの塔」は信者であるエホバの証人に、外に世界の情報に常に警戒するよう促しており、実際、SNSに参加することから、宗教的題目を検索することまでをも良心的な行いとはしていない。これによって、「ものみの塔」そのものの情報の真偽や価値の程度を自らのリテラシーに照らして判断することを非良心的行動として放棄させ、個人に自責の念を抱かせるよう宗教的指導に於いて操作している。その結果、エホバの証人は、入信以後に自らの判断や決定を避ける習慣が身についており、これは強権国家での人権蹂躙の手法と変わるところがない。

 

◆教育の軽視

情報の閉鎖性の一貫をも成しているが、それは二世以降の信者が情報リテラシーを得ず、ものみの塔の脆弱な学問的基盤に疑いを持たないためである理由がひとつには挙げられる。例えれば進化論やオリエント考古学に触れることで、教理への信頼は揺らぐことになる。なぜなら、その教理でこれらの学問に指導層は自説を唱えてしまっており、宗教の範疇を逸脱しているからである。

子弟に高等教育を避けさせるもうひとつの理由には、組織拡大のための宣教奉仕に駆り立てるためでもある。これは1975年に「ハルマゲドンが来る」(この発想自体が異様)と「預言」してしまったために、大学に行くよりも僅かな猶予期間を宣教に費やすことが「命を救う業」であり、「人生は繰り返せない」と主張したところが大きい。熱狂が去った後には、大学の環境に性的誘惑があるという理由に切り替えられた。

しかし、十代後半から成人してゆく時期は、人格や教養の形成と就職して家庭を安定的に支える能力を得るために最も重要な期間であり、エホバの証人アルバイターが多く、周囲との協調性に問題を抱え、常識はずれな言行がまま見られる原因は排他性と共にこの教育の軽視にも由来する。そのため、この団体を離れた人々には、周囲の社会環境の成熟さに開眼し、それに慣れるまでにしばらくの期間と自己再教育を要する結果となっている。

 

◆幼児教育の偏り

20世紀の終りまで、旧約聖書の律法時代の教訓を現代キリスト教徒に適用し、子らを鞭で叩いて教育するよう指導していた。それは集会に幼児も連れて来るようにとのネヘミヤ記にある、捕囚後に律法再教育が必要であったユダヤ人のパレスチナ帰国の場面を今日に適用したものであった。だがこれは『聴いて理解できる者』に対するものであったが、かつて集会への主婦の参加が多く、乳幼児を伴っていたために、鞭打ち教育がそこで適用され、集会の静粛を守るために利用された。組織が絶対正義を唱えたところで、親は子に対して逃れ難い「絶対の指導者」となって人格形成を妨げる壁と化した。

その結果、子供から「遊びという社会経験」を奪い、「小さな大人」を量産することになり、これは幼児期の自然な発育を阻害することとなった。加えて大人になっても心に傷や社会性の未発達を残すことになり、鬱病ばかりでなくACや自閉症関連の後遺症の事例を少なからず招かざるを得なかった。

だが、組織側は巡回訪問などを通し、精神疾患は世に広く見られるのであり、自分たちが特別ではないと主張した。これは同時に、この宗教が社会一般以上の健全さを持っていないことを証しする。現に、エホバの証人の開業する診療内科系の医院では信者たちが溢れるほどになり、待合室は各自で集会の予習をする受診者たちで占められる光景も見られた。<そこに原因と結果が如実に見えてはいないものか>

 

・極端な忌避の強要

外部への優越感と蔑視は内部においても、信者であることを望まない者、または道徳的に定められた規準を破った信者には、家族であろうと交流を断ち、さらには会話さえしないという「忌避」が現役信者には要求されている。これにより、家庭内にもこの宗教組織が分断の線引きを行うことになり、宗教組織との関係性が家族関係に勝ることを信者に強要している。もちろんこれは家族関係を破壊する以外になく、家庭という本来社会に在って無条件に助け合える場を人々から奪い、異常な緊張感をもたらしているのだが、同時に、この制度によって信者の登録数の維持が促進されている。

ものみの塔」はそれが忌避された者の悔悛をもたらすための「愛ある行い」であるとしている。しかし、聖書の言葉の適用は尽く間違っており、単なる家庭や交友関係の破壊は悪魔的であり、そのうえで組織体制維持を図っている。エホバの証人の排他性は、この忌避制度に於いて最も破壊的な作用を信者とその周囲にもたらしている。

 

◆幹部の堕落と横暴

強権独裁体制が幹部によって維持されるように、「ものみの塔」という宗教体制も「長老」という各集り(会衆)を束ね監視する幹部により広く維持され、これら「長老」たちを定期的に巡回してくる「巡回監督」が組織の意向が反映されているか、また各会衆の資金の動きをも監査し、この教義の矛盾の目立つ宗教組織も維持されている。これら「ものみの塔」の体制を維持してゆくために必須である「長老」や「巡回監督」は特権職とされ、一般信徒らからの支持や援助、尊敬と階級意識が要求されており、そこで独裁体制や他の宗教団体に広く見られるように、幹部が組織的に優遇されるところで、幹部による職権乱用や人格の蹂躙、幹部同士や一般信者への恣意的で不当な扱いの醜聞は絶えない。

その最たる例が幼児性虐待を行った幹部の犯罪を隠匿しているところである。各集りからの貯金の回収と印刷物の退潮に膨大な金額がこれらの裁判に関わって支出されていることは疑いようがないのだが、組織中枢の「統治体」や、宗教法人としての「ものみの塔聖書冊子協会」からこの隠蔽体質が見られる。これは宗教団体によく見られることながら、寄付金の流れや使途が内外に明朗であるとは言い難いうえ、統治体に含まれる各人からの生活や服装などへの神経質なほどの指導、信者一般や被害者らに対する敵対的態度に公正さが見られるとは言えない。

 

◆組織的商行為

ものみの塔は組織を商行為に利用することを信者に戒めてきたが、近年は、組織そのものが寄付の請願に加え、信者たちへの電子機器購入を要請しながら、特定のメーカーに出資もしている。投資については自らの信仰原理と一致しないであろうタバコや武器産業などにも行って信者には秘匿を努めている。

加えて、自前の商標を持った様々な物品の販売をなぜか禁止ぜず、旧来の商売を宗教に持ち込まないと謹んできた方針を自ら通告もなく破り、そのうえ集会所そのものや不動産の販売、集会所備品の有料提供も開始している。

これはキリストの当時の祭司長派が、神殿境内の商売人と癒着していた古代の型に類似する。

<既に、この点でもこの宗教組織の品格は地に落ちた。このような実態を指摘する者を権威を用いて黙らせる横暴は、悪辣な圧制者に共通するものとなっている。すなわち、指導部にその自覚があるということである>

 

◆法律を盾にとる

信教の自由が認められている場合に、彼らはこれを積極的に活用しようとして、善良な宗教を装うが、実質的には彼らは反社会的に外部一般を滅び去るものと蔑視しているのである以上、法に訴えて自分たちの自由を唱えるより以前に、信者たちの脱退の自由を信教の自由として認めるべきである。だが、信仰を既に失っている人々に対するこの団体の懲罰規則は常識を逸脱したもので、家族であっても接触を拒ませるというものである。これこそ法を以って処置すべき野蛮な人権蹂躙である。

加えて、法廷命令により幼児への性虐待の加害者リストの提出を現時点まで拒んでおり、この点では『人よりも神に従う』と弁明しているのだが、そこまで「二人以上の証人」を求める聖句を倫理的に誤用した例も珍しく、実質に於いてまったくお粗末な矛盾を見せている。この指導層の道徳性は信者ではなく、外部や司法によって問われている。だが、彼らはこうした情報を「背教者の嘘」であるとする。

<では裁判所は「背教者」なのだろうか?これでは「この世」の道徳性の方が高いということにならないものか>

 

 

◆問題の根源

 

・唯一の正しい宗教と吹聴

ものみの塔」だけが正しい宗教であり、「統治体」は「神の経路」である

  その根拠には聖書絶対主義がある。しかし、イエスを殺害に追いやったユダヤ教徒が既にこの同じ轍を踏んでいる。

 この前提で、この宗教組織の排他性が方向付けられている。他のあらゆる宗教や宗派を間違いで悪魔のものと否定することで、信者を囲い込んで、そこから出ることへの恐れを植え付け、それを具体的に忌避の制度によって神から否認されることへの強烈な恐れを煽っている。

唯一正当を唱えていながら、教理では旧来の他宗派の研究成果、また各界の識者に立脚しており、「ものみの塔」はそれを選択編集して教理を作ってきた。

年代計算もラッセル独自のものは、『七つの時』と『異邦人の時』を同じものと見做した程度に過ぎない。その教理は今日でもアドヴェンティスト派に近く、「年代計算によるキリストの臨在の察知」、「魂が死ぬ」ことや、預言したことの「天での見えない成就」など、核心的な部分での共通的教理が見られる。

にも関わらず、唯一正当を唱えることで、実は他者から学んだ借り物の特徴ある教理が、様々に選択され、根幹的な部分でも取り入れられていることを信者には知らせず、自分たちから教理が生じたように装うところは少なくない。<その理由は、指導層が『忠実で思慮深い奴隷』を装う必要からのものと思われる>

そのため、情報面で閉鎖的にならざるを得ず、幾らか矛盾を突かれると論理は脆弱であることが露見する。「ものみの塔」が唯一正しいと教えられている信者らは考えることも止めてしまい、質問者を悪魔的背教者として避ける。

本来、存在しない唯一正当を吹聴することにより、他の誰とも変わらない倫理性の普通の人を不当に高めてしまうことになり、そこから「誰がより偉いか」を問う権威主義的体質が育ってしまい、それが組織を腐敗させている。他の誰とも変わらない人同士で、神への序列が生じている。

それが「特権」と名付けられたヒエラルキアであり、秩序のためと主張しつつ、神の威を借りた不公正の温床を形成している。「巡回監督」も「統治体」も聖書に存在しない役職であり、パウロバルナバも巡回監督ではないし仲間に負担を掛けまいと生活費用を自ら工面していた。エルサレム使徒会議は常設ではなく、ヤコブのグループは遅れたユダヤ教理解に留まっていた。しかしエホバの証人であればそれらの権威にも疑念さえ許されない指導が毎週二度ずつ行われている。この指導は「霊的ライフライン」とも呼ばれ、間断の無い洗脳の刷り込みと査察が信者相互に行われる。

 

 

・死への恐れが利用されている

 人の存在は儚く、人生に空しさが拭えない。

人々は、この状態から逃れたいという願望が普遍的に有る。

そこで、実は「楽園での永遠の命」を聖書なり、キリスト教なりが提供していたという教えに、旧来の宗教に無い新鮮な希望を見出すよう教えてきたのがこの「ものみの塔」であり、それを信じた人々が「エホバの証人」となっている。だが、そこから「ものみの塔」の教えに悪質な問題が混入している。

神もキリストもこの「ものみの塔」を通して人々を救うというところに大きな罠がある。

神は『ハルマゲドン』で人類の大半を滅ぼす役割を持ち、「ものみの塔」という宗教団体に加入することが救いであるということになる。だが、人類を救うことは神の意志であるからこそ、キリストを地に遣わしたのであり、それはアブラハムへの契約の言葉にも明らかである。したがって、神もキリストも人類救済のために、終末には自ら行動するに違いなく、救うための証しを人間任せにしたと言うなら、それは神もキリストをも偽り伝えている。(マタイ10:18/イザヤ52:15/ミカ7:15)

全能の神であれば、初めから人類を死の無い、また幸福な状態にできないということは無い。そこで苦難と死の空しさが避けられない現状には、理由が有ってのことである。それが人類に宿る『罪』という、創造の業の意図しなかった欠陥にあることはエホバの証人も認められるところである。したがって、人が創造された当初のように永遠に生きるためには、アダムが試されたように、各個人の倫理的選択が問われるはずであり、これを「ものみの塔」は、結果的にエホバの証人となることがこの選択、つまり裁きの要諦であるとしてしまっている。

これがエホバの証人の閉鎖性を決定付けた。

つまり、神の裁きの要諦が「エホバの証人かどうか」に置き換えられてしまった。エホバの証人になるに当たって行う選択というものは、自分が救われたいか否か、その為に浸礼を受けるか否かになっている。

それでも、実際にはこれは倫理的に良い選択とはなっていない。なぜなら、キリストが言うように『その実によって・・見分ける』なら、上記のようにエホバの証人となることは、基本的に利己的な願望の追求することになり、死の恐れから逃れることを請合う宗教家に絆され、自分たちは「ノアの箱舟」に保護されたつもりになっただけのことである。(教会の信徒席も「ノアの箱舟」を意味するネーヴと呼ばれ救済願望で根本的違いはない)

そこで、エホバの証人の中ではいよいよ人間の『罪』が目立ってくることになる。それが自分の永遠の命が確保された安心感を得た『罪』ある人間の姿であり、神の是認があるつもりで油断することで生じた。それは道徳性の優劣を意識しない一般人をも下回るほどに倫理性の欠如したパリサイ派的に傲慢な姿である。

エホバの証人の熱心さは、死への恐れの裏返しであり、実は創造神の全能性への確信は持っていない。神による人の生死の分かれ目を気にして怯え、神の好意を得ようと腐心していながら、実は、神に関心を向けてはおらず、自分という存在を確保することに熱心なのであり、そのうえ「時の緊急性」が繰り返し唱えられるために伝道に追い立てられ、信者は信仰を得て後に、その教えを熟考し検討する時間を奪われ、聖書の研究を個人で深めることを困難にされている。

したがって、エホバの証人の信仰の目的は何かと問うなら、滅びを免れ「楽園の永遠の命に入ること」なのである。

(これは諸教会の天国行きと同じようでいて、年代予測も相まって、より具体的であるために、教理の日常生活への影響が遥かに大きい。)

 

他方、神の裁きの要諦は命の確保には無い。

なぜなら、神は人類に永遠の命を与えられないのではなく、何者にそれを与えるかが問題なのであり、そこで問われるのは各個人の倫理性であり「エデンの問い」である。

アダムが強烈な試みに遭って、エヴァと命運を共にしたように、罪に堕ちる者は悪魔に倣い利己心の道を行くのであり、神を含む他者とどう生きてゆくかという倫理を弁えないことを選び取る。同じく永遠の命を求めて利己心の道を歩んでいることが、またキリスト言われた「実」としてならせている宗教団体に信を置くことがどうして神の是認をもたらすものか。

まさしく、その閉鎖性、排他性こそが、利己的であることの否定し難い証拠となっている。利己心のままに永遠の命という木の実を求めても、神がそれを与えるものだろうか。むしろ、回転する炎の剣がその行く手を妨げないだろうか。

 エホバの証人の神への賛美というものは、永遠の命という、自分にとっての最大益を与えてくれることへの喜びが基本的な動機であり、死への恐怖を最大限度に消してくれるご利益への賛美となっている。

だが、神の意図はそこになく、神が生かそうとする者の要件は利他的に神を含むすべての他者を愛せるか否かなのであり、来るべき終末の裁きに於いて、それこそが問われなくては『神は愛』ではなく、恐がる者を永遠に生かすということになってしまう。実のところ、その恐れを利用した支配欲が「統治体」の願いではないのだろうか。

 

 

 

神の裁きの要諦については

blog.livedoor.jp
 

ものみの塔指導部は信者の死への恐怖を敢えて利用している

以下のような挿絵の少なからぬ例には、不安を煽る印象だけでなく、巧妙な人々の深層心理への操作が見られる

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サブリミナル効果を意図した例

 不安を煽る配色と構図を持ち、核爆発のような「きのこ雲」を背景ににして不明瞭に随所にドクロや牙をむいた口が描き込まれており、見る人はそれと気付かずに深層心理で死への恐怖を煽られるよう工夫が凝らされている。

地上も暗く描かれ1914年からとされるキリストの巨大な臨在と死の恐れを結び付け、見る人々に意識させずに深層心理に訴える意図が見られる。ページをいっぱいを用いたこれは、単に挿絵という以上の役割を負っている。

その一方で「楽園となる地上」の明るい希望を伝える落差により、保身願望を更に煽ることになる。

こうした図版は、たまたまこのように描かれてしまったというわけではなく、四色カラー版の出版が始められた1984年以降、こうして見る人々に無意識の恐れを懐かせる工夫が凝らされ心理効果を意図したと指摘された図版が散見されてきたが、近年に出版された書籍の図版でもこのように繰り返されている。このようなサブリミナル効果は商用では禁じられて久しい。

私見だが、おそらくこれは教団の意向を端的に示す例、また、指導の方向性を物語るものなのであろう。即ち、深層心理にまで働きかけて人を掌握しようとする意図であり、それが曖昧で、いざとなれば言い逃れできそうな範囲の施策であればこのような手段も躊躇しないということになる。しかし、これが「神の経路」と称する団体の取るべき方法と言えるだろうか?

おそらく指導部は、これが人々に永遠の命をもたらすことであるから、こうした手段も正当化されると念じているのかも知れない。だが、それでは人に知られないところでの行いは何でも許されることになりはしないものか?

ものみの塔は「神の経路」を主張するのだが、このように人に曖昧な仕方で関わるのは神ではなく、別の霊的存在者が人間にアプローチする方法ではないのだろうか。

 

 「神の王国は支配している!」2015年刊 より

 

 

 結論

「神の裁き」というものに対する観念が、結果の生と死に集約され過ぎてしまい、そこから「生き残る」という発想で捉えてしまっていた。

従って、人の利害の観点からキリスト教にアプローチしてしまっている。それが「楽園での永遠の命」を得るという目的意識に結実してしまった。

だが、「神の裁き」の意図は、保身目当ての魂と共に神が生きることにはないと言える理由がある。神を含む他者とどのように関わって生きて行こうとするのかがエデンの「二本の木」の選択以来問われている。これが「倫理」という問題であり、それはエデン以来すべての人に問われるべきものであり、その先に「永遠の命の木」がある。

ゆえに、「神の裁き」には人々のこの種の選択、即ち「倫理」が問われているのであり、その倫理上の選択が「信仰」となって現れることを聖書は再三示している。

しかし、エホバの証人の信仰とは、恐れに動かされて精神的な袋小路の狭隘な奥に追い込まれてしまっており、自然な価値観から遠く離れて、却ってその歪んだ価値観が正しく善良な事と感じるよう平素から慣らされてしまっている。

この人々にとっては、理性的というよりはずっと感覚的にこの組織に属する事が正しく、安全であるという信念に取り込められているのだが、その原動力はつまるところ恐怖であり、生き残ることを目的とするあまりに、自由な選択としての信仰、エデンのアダムとエヴァがそうであったような、監視も障碍もない環境下での選択を許した神の意図を無視しているというべきであろう。

言うまでもないことながら、規則化によって救われる者が分けられるとするなら、それはユダヤ教のものであり、神が本来意図したものとは言えない。律法はキリストが現れるまでの教師であり警護者であり、また神の全き義の精神を映し出し、義なるキリストひとりを指し示したものであったが、キリストの犠牲の実現によって、その役割を十全に果たし終え、そこから信仰による義が到来する事となった。

義をもたらす信仰とは、恐れなく自由な選択ができる状況下でこそ抱けるものにほかならず、脅されるものではけっしてない。神が脅して従順になる人々と共に生きようとすると思えるだろうか。むしろ、自発的に神を敬う人々を望まないのではないか。神は誰にも永遠の命を与えることは不可能ではなく、そうしないのは、共に生きる者すべてが愛で結ばれることを望まれるからである。

この点で、根本的にものみの塔はこれまで「神の裁き」を災害のように生存を脅かすもの、逃れるべきものと教えて来たのであり、この点で神の意図を見誤った。それは天国と地獄を教える「キリスト教世界」のご利益信仰と本質は変わらなかったという他なく、教会員が不信者を地獄行きだと確信しているように、同じく排他的なのである。

では、エホバの証人の方々は、この排他的独善をどうなさるだろうか?

人間に由来するものは間違いを避けられず、聖霊によって神と結ばれた宗教というものは今日存在しない。では、せめてそれを認めて謙虚に振る舞うことくらいはできないものか?そうすれば少なくとも圧制の害は相当程度避けられるのではないか。

 

 

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-LF-

(しかし、長文なので引用に利点あり)