Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

統治体という捏造物

 

ものみの塔の統括するエホバの証人の最高権威が「統治体」と呼ばれる小集団である。

 

 

A governing body は、全米の公立学校に置かれる組織で、校長を含み、その同僚、親の代表、コミュニティと地方自治体からの参加者からなり、「ガバナー」と呼ばれる成員を構成する。

その役割は、校長に対して学校の運営、生徒の進歩、またスタッフを含めた福利の責を問うところにある。

この概念からすると、日本語での「統治体」は大袈裟で、高圧的な印象が強い。

中国語での以前の名称「治理機構」も「支配」のイメージがかなり強かった。その後「中央長老団」と改名したことは、中国の現体制の禁令下で地下活動する状態にある中で当局を刺激しないための方策であった可能性が高い。しかし、その忖度が効くのもアメリカ本国の中央についてであって、矢面に立つ現地の信者と幹部が迫害されるところではほとんど影響しないと思われる。

日本での現在の名称もはっきりと支配を示しているのだが、こちらは改称しないのは、差し迫った理由がなく、むしろ、組織が信者に対して支配的に振る舞うことに都合がよいということが考えられる。仮に日本の体制が変わり、圧制するようになり、ものみの塔が不評や迫害の対象となる場合には、改名されるのであろう。

 

米国の上記のような事情からすると、然程に圧制的な意味を込めるつもりはなかったのであろうけれども、日本語など他の言語や国ではニュアンスは異なってくる。そして実際の行いでは特にラザフォード会長の時から圧制的に振る舞ってきた。会長がノアであった時代には、F.W.フランズが教理の進展に関わっていたために、幾分か米国の公立学校の governing body に近い状況になったかと推察するが、後にフランズ自身が会長に就任することで、会長と運営サイドとの役割を明確化する便宜が生じたらしく、1976年に六つの委員会を作り、フランズ自身は会長であり、また執筆委員会を統括した。これはフランズがノア時代から専ら教理の考案に関わったことの結果と言える。

1994年のフランズ亡き後の統治体は、一時的ながら「1914年から一世代」という体制更新の時期を規定する教理を捨てている。その時期の会長はヘンシェルであった。

 

 

 

聖書中の権威の根拠として「忠実で思慮深い奴隷」Mt24:45 に置いている。

 

この「奴隷」は​エホバ​の​証人​の​統治​体​と​密接​に​結びつけ​られ​て​おり,時宜​に​かなっ​た​霊的​食物​を,エホバ​を​崇拝​する​仲間​に​与え​て​い​ます。

今の時代にだれがエホバのご意志を行なっていますか 第19課 

 

この「密接​に​結びつけ​られ​て​」いる根拠は、現にこの指導集団からのものとされる教理や生活指導を行っていることを指している。<これはたいていの宗派にも当てはまることではある>

 

18 統治体の決定した事柄を知らせる手紙は,「使徒や年長者の兄弟たちから,アンティオキア,またシリア,キリキアにいる,諸国民からの兄弟たちへ: あいさつを送ります」という言葉で始まっていました。この歴史的な会合には他の人たちも出席していましたが,統治体を構成していたのは「使徒や年長者の兄弟たち」だったようです。神の霊が彼らを導きました。その手紙にこう述べられているからです。「聖霊とわたしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです」。(使徒 15:23‐29)クリスチャンは,割礼を受けてモーセの律法を守ることは求められていませんでした。この決定により,ユダヤ人のクリスチャンと異邦人のクリスチャンは,行動面でも話す事柄の点でも一致するよう助けられました。諸会衆は喜び,引きつづき貴い一致を保ちました。それと同じことが,エホバの証人の統治体の霊的な導きを受けている今日の全地球的な神の家族にも見られます。―使徒 15:30‐35。

96.7/15「エホバの家族は貴い一致を享受する」統治体が行動するp14 

 

 

13 パウロは2週間にわたるエルサレム滞在中,ギリシャ語を話すユダヤ人に証言しましたが,『これらの者たちは,彼を除き去ってしまおうと企てました』。ルカはそれに加えて,「兄弟たちはこれを見破って,彼をカエサレアに連れ下り,タルソスに送り出した」と記しました。(使徒 9:28‐30)しかし,この賢明な決定の背後にいたのはどなたでしょうか。数年後にパウロは自分の人生におけるこの出来事について語った際,イエスが自分に現われ,早くエルサレムから立ち去るようお命じになった,と述べています。パウロがそれに異議を唱えた時,続けてイエスは,「行きなさい。わたしは,あなたを遠く諸国民に遣わすからです」と言われました。(使徒 22:17‐21)キリストは高い所から物事をしっかり見守り,エルサレムの責任ある兄弟たちを用いて,またパウロに直接話すという方法で行動されました。
14 同様に,聖書を注意深く読むと,異邦人のクリスチャンは割礼を受けるべきか,モーセの律法に従うべきかという問題を解決するために統治体の重要な会議が開かれた時も,その背後にキリストがおられたことは,はっきりと感じ取れます。「使徒たちの活動」の書には,論争が起きた時に「人々[アンティオキア会衆の責任ある成員,もしくは長老であったと思われる]は,パウロバルナバおよび自分たちのうちのほかの幾人かが,この論争のことでエルサレムにいる使徒や年長者たちのもとに上ることを取り決めた」と記されています。(使徒 15:1,2)しかしパウロは,割礼に関する論争を解決するためエルサレムに赴くことになった事情を述べ,その中で,「わたしは啓示があったので上って行ったのです」と語っています。(ガラテア 2:1‐3。ガラテア 1:12と比較してください。)キリストは会衆の積極的な頭として,重要なこの教理上の問題が,目に見える統治体全体によって解決されることを望まれました。キリストは聖霊を用い,それら献身的な男子が決定を下せるよう,彼らの思いを導かれました。―使徒 15:28,29。

 

異例の決定
15 キリストが天から物事を積極的に導いておられたことを示すもう一つの興味深い例は,パウロの3回目の宣教旅行の後に生じた出来事です。ルカの記述によれば,パウロエルサレムに戻ると,そこにいた統治体の成員に詳しい報告を行ないました。ルカはこのように書きました。「パウロはわたしたちと一緒にヤコブのところに行った。すると,年長者たちが皆そこに来ていた。そこでパウロは彼らにあいさつを述べ,神が自分の奉仕を通して諸国民の間で行なわれた事柄について詳しく話しはじめた」。(使徒 21:17‐19)集まり合っていた統治体はその話を聞いてからパウロに明白な指示を与え,「わたしたちが告げるこのことをしてください」と述べました。統治体は,パウロが神殿に行き,パウロが「諸国民の中にいるすべてのユダヤ人に対してモーセからの背教を説き,子供に割礼を施すことも,厳粛な習慣にしたがって歩むこともしないように告げている」という事実はないことを公に実証するよう命じました。―使徒 21:20‐24。

87.8/1「キリストは積極的にご自分の会衆を導かれる」キリストは統治体の成員を支持された p13

 

 

エルサレム会議でのヤコブの決定は、ユダヤ側からのイエス帰依者と無割礼で『新たに転向してきた人々』との交流を一つのエクレシアの中で蟠りなく行わせるために行われたものではあったが、その後のパウロは生涯に亘ってユダヤ主義者と戦っており、解決されたとはとても言い難い。ただ、当時には依然として神殿が機能し、聖徒として存在したエルサレムのエクレシアには十二使徒の残りも居たこともあって、ユダヤ教側からこの件についての声明を出し、一定の判断基準としたのであり、ディアスポラのエクレシアに向けてそれが証人付で知らされている。

しかし、ユダヤ教の崇拝が行われ、ヤコブをはじめとしてナザレ派のユダヤ教徒が多いエルサレムの中でこの件は然程浸透していない。その理由は依然として神殿聖域に無割礼の異邦人は入れなかったのであり、ナザレ派として一つの規準を持つ崇拝にまでは発展していなかった。

従って、異邦人の弟子らからすれば、「キリスト教」の概念なく、ユダヤ教からメシアが現れたことを信じる宗教の中に居て、聖霊の注ぎによる奇跡の業を見聞きし、また本人が体験するという崇拝にあったといえる。

 

信者らの認識として、「キリスト教」というユダヤ教から独立した一つの宗教となるには、西暦七十年の激変を要し、パウロを中心とした使徒らの教えが共通認識として定着されるのを待たねばならなかった。

加えて、最後の使徒ヨハネによる最終的な啓示の下賜があってこそ、霊の崇拝による新たな宗教の確立を見ている。

 

これらの実情から見るなら、ものみの塔の「統治体」の概念には。歴史上の実情が考慮されておらず、聖霊による崇拝という概念もない中で、数人のグループが数百万の信者の上に権威を振りかざすために、実情とはずれた使徒言行録の記述を利用していることが明らかになる。チャールズ・T・ラッセルのグループ設立当初は教理を多数決で採用していたというところも聖霊による上からの導きの無い中で、個人の暴走に配慮していた様も見受けられるが、そのような形式はその後も統治体内部の合議として存続してきた。法人設立後は、宗教団体としての方針の採用を株式を持つ会員の総会に掛け、議決によって採用の可否を決している。

 

統治体の構成員らが避けたいのは、信者たちが自ら聖書を深く吟味し、「永遠の命」を質に取っての支配欲の欺瞞に気付くことであろう。そこで「外の世界は悪魔」との情報統制は、他のカルトの数々と共に必要欠くべからざるものとなっている。

だが、それは「統治体」ばかりでなく、そのピラミッドからに益に与っている中間幹部や、その他の受益者、そして末端の信者も自分の「永遠の命」の確定を願うために、自らものみの塔の「ありがたい教え」を守ろうとし、そこで神に対しても利己的に振る舞っていることを意に介さない。

だが実は「真理」など愛してなぞおらず、神の裁きに対して自分の安泰を欲するので、「組織」を愛し、その拡大に努めて隷属の業に勤しみ、子らを鞭打ち、落伍する者を忌避し、周囲に迷惑を及ぼしていながら、優越感に浸り、自分の将来のために多くの善行をため込んだと思い込んでいる。

これが、繰り返される「聖書レッスンの成果」というよりは「洗脳の完成」である。自ら信者となった人々はほとんど例外なく、自分の内に眠っていた生存願望や利己心や優越感などが要所要所で引き出されていることには気付けない。

その最終結果が「統治体への隷属」である。

もちろん「統治体」が実際に神の裁きが下される時、その請け合った救いに責任を取れるわけもない。彼らは明らかに「神の経路」を称したのであるから、その責は重大となるに違いなく、それは『忠実で思慮深い奴隷』の例えの邪悪な奴隷として確かに描かれている。

その奴隷は主人が到着していないにも関わらず、他の奴隷たちを叩いて宴会を強制してしまったのであり、それら他の奴隷たちも「少なく叩かれる」ことになるが、主役の奴隷は『受け分を偽善者らと共にする』。

どうして、主人が到着したことにしてしまったのかと言えば、その淵源は英米の覚醒運動という、極端な自己義認の歪んだキリスト教からのものであった。すこし冷静に観察するだけで、その本質が利己主義であることは見えている。

どうして、日本人までがその犠牲になる必要があるだろうか?

 

証人支配の問題

キリストの王権がものみの塔の内部では既に到来していると主張し、その権威が統治体にあるとする。

その根拠は統治体が『忠実で聡い奴隷』であり、『家の奴隷』の世話をすることが予告されているからとされる。

そこで『忠実で聡い奴隷』は『主人が到着したときにすべてを委ねる』とあるのだから、統治体には既に他の証人を指導し、支配する権限があるとされる。

また、証人には生活の中で『神の王国を常に第一に求める』ようイエスが命じたのであるからと、ものみの塔の教団を拡大するための伝道を生活の中心に置くよう間断ない圧力をかけている。

だが、この権威は『主人が到着したときにすべてを委ねる』とあり、1914年以降あるいは1919年以降に統治体が真にキリストから『すべてを委ね』られたかどうかにかかっている。従って、覚醒運動以来の年代信仰の上に統治体の権威が築かれているのであり、それが疑われ、または否定される証拠が存在するときに、統治体の権威から組織の躯体に至るまで脆弱になるか、崩れ去ることになる。

そして、その強力な証拠は実在している。 ⇒ 「エレミヤの七十年」

加えて、地上で主の晩餐を行っているが、それはイエスの『到来する時にまで及ぶ』とパウロが教えている以上、キリストの到来は未だ行われていないことをその儀礼そのものが示している。パウロはコリントの仲間に『あなたがたはわたしたちを抜きにして支配を始めたのか』と問いかけ、王国の成員が地上に居る間に、彼らの支配は無かったことを明かしている。

証人に対する統治体の権威の大きさは、聖書中の聖霊注がれた聖なる者の清さを要求して、生活の微に入り細に入り抑圧的であることは否定し難い事実であり、情報や教育の制限、外部との敵対性、人を見る価値観の歪み、世にある諸権威を軽く見て専門家でもない宗教上の上長への従順が強調されることでは、実際的知恵を欠くことになっている。彼らは、神の創始した家庭の自然な関係にまで影響し、教団を支持するか否かで家族の各人に対する接し方までを「指導」する。この「指導」は同調圧力を伴うので、実質的には「命令」となっている。そうして証人は家族よりも教団組織を愛することで、それが家族を真に大切にすることになるとも教えている。

これらの『行いの実』は、ものみの塔の年代信仰の実態を表す指標となっており、この教団は、「ハルマゲドンの恐れ」で証人を縛り、「楽園の永遠の命」というご利益で証人をコントロールするという紛れもない圧制集団であることを示している。

憂慮されるべきは、証人がこれらの事柄に気付いていないことであり、そこに情報統制や同調圧力が強力に加えられていることである。これは心理操作であり、『神の象り』に創られた人間を軽んじ、虐げる孤立的社会を作り上げている。