Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ユダヤ教からキリスト教信仰への道程

 

以下

然程順序に関わりなく、メモとして記す

 

概論

キリストの死は律法の役割を終わらせ、キリストに復活はキリスト教への道を拓いた。

キリスト教とはユダヤ教を礎としながらも、崇拝方式ばかりかその精神を異にする異次元の宗教となっていった。

しかし、キリスト自身は完全に律法体制に属し、その死は「業による義」を完全に果たすものであり、同時にイスラエルという民族をメシアらを生み出す目的を達成させ、以後は「信仰による義」への超越的な次元上昇を行わせている。その新宗教の概要が新約聖書に含まれる文書に記されていった。

しかし、その文書が書き終えられるまで次の世紀を迎える七十年にも及ぶ期間を要している。それらの文書が蒐集され人々がその変革に応じてゆくには更に期間を要し、しかも完成されたのは第二世紀の使徒ヨハネの弟子らの周辺であり、キリスト教徒の中にヨハネ文書を承認しない地域があったため、キリスト教の完成形を確実に捉えた人々がキリスト教界の全体に及んでいたわけではなかった。

それでも聖霊の賜物は使徒後もしばらく残っていたが、必ずしもその賜物が教理を正しく護持させたかについてはコリントスの例からすると難しいらしい。

それでもパウロの周辺では新たな教えが幾らかの誤解があっても受け入れられていたのは、彼に注がれる聖霊の賜物が『力によって』証しされたためと思われる。

他方でヤコブが統括したユダヤのナザレ派はユダヤ教から先に突破することが困難で、キリスト教の先端を走っていたパウロらについてゆくには相当の難しさがあった。

異邦人的キリスト教界では、やがて第二世紀後半に入ると、モンタノス派が台頭し、はっきりと聖霊の賜物も悪霊の不思議と混同されるに至る。

その後は、ヘブライ人の使徒や直弟子らが去り、ユダヤ人イエス帰依者は次第に律法遵守に戻ってゆき、一方のキリスト教界はヘレニズム化の強い影響に曝され、異教と哲学の混入の波を避けられなくなってゆく。

従って、キリスト教界が純粋なキリスト教であったのは使徒後の数十年に過ぎず、それも使徒ヨハネの影響の及んでいた小アジア方面、またその地方の地震の頻発により植民した南仏の地域の幾らか、また僅かな期間であった。

 

過程

まず、キリストの死から52日が経過するまでの間、弟子や使徒らの行動がはっきりしていない。マルコとマタイとではニサン16日早朝に主の墓に向った女たちのメンバーに異なりがあり、天使の人数にも違いがある。また各福音書では互いに省略された主の死以後の部分で順序に幾らか違いがある。これらはゼカリヤの預言のように使徒たちがイエスの捕縛後に散り散りになったことに原因しているようである。

主の磔刑の現場にいたのは、女たちと使徒では例外的に祭司長派の親戚であり最も若いヨハネだけが居たようであり、そこに『隠れた弟子』であったアリマタヤのヨセフとニコデモが加わってくる。受難の場面ではヨハネと女たち、それにおそらくは祭司長派にマークされていなかった目立たない弟子らの遺体の埋葬と以後の証言が不可欠であったに違いない。これらの普段は目立たない弟子らの存在意義はこのような緊急時に担保されている。

パウロによれば、主は最初にキーファに、次いで十二使徒に現れ、その後の一度に五百人を越える弟子らに現れ、それからヤコブに現れ、それからあらゆる仲間に現れたとしている。(1Cor15:5-7)

ここでヤコブについて語られているところから、このイエスの弟が兄の復活の後に信じる者となり、彼がガリラヤからの弟子の集団に接近していったと理解する道を拓いている。

さて、四福音書は復活の起こったニサン16日の早朝に、信者の女たちが天使に出会ったことを揃って述べており、使徒ヨハネは女たちからの知らせを受けて一目散に墓に向ったのが自身とペテロであり、最初に墓を覗いたのがペテロで、次いで自分もそこに遺体のないことを見て確信を抱いたこと、また最初にイエスに会ったのがマグダラ・マリアであってことを記している。

マタイはイエス使徒らとガリラヤのある山(丘陵)で会合することを定めたことを伝えているが、この件は他の書にはない。(Mt28:19)

但し、パウロが『一度に五百人』というのはその件であるかも知れない。ガリラヤであればユダヤ人の妨害に遭い難く、しかもそこが山であれば他の人々が混じることも防がれた可能性もあるように思われる。

特にガリラヤについては、ヨハネ福音によれば使徒らがガリラヤに赴いており、その海で漁に出た五人は翌朝に復活したイエスから朝食に与っている。マタイは十二人の一人として実際にイエスが彼らとガリラヤのある山で会合の場を定めたことを記しているが、それを記した最後の五節の文面はメモを追加しただけのようにも見える。そこでイエスの活動がパレスチナに限定された事を越えてゆくよう指示されているところは注目に値する。

これらの状況をよくまとめているのは、マルコ福音書アレクサンドリア写本などに存在している末尾文である。これは聖霊と聖徒の関係を理解しているこの文章筆者の存在を示している。(Mr16:9-20)

但し、イエスのどの命令の言葉がどの場面で語られたのかについて確認できるようには書かれていない。それでも命令がそこに集められた形をとっている。それは福音の諸国への宣明、バプテスマの施しによる奇跡の業の継承、除霊、異言、解毒、癒しがあることを予告し、それが彼らへの主の助力であることを記し、この命令を語ってから主が帰天したと述べている。

そこでのマルコは主の死後の状況については、ヨハネ福音の通りに彼らの主はマリア・マグダレネに最初に現れ、ルカ福音のエマオに向かう二人が出会ったことを記し、使徒らの集まっているところに主が現れたこと、また彼らの不信仰を嘆いたことも記載している。

ルカは、マタイとは正反対に使徒らのガリラヤ行きについては何も述べていないが、ペンテコステの10日前までに『神の王国について語られた』と記した。(Act1:3)

ルカのソースは使徒以外からである蓋然性がある。

エスからの指示と意向の幾らかをルカはその福音書の末尾に書いているが、マタイとマルコに(長い追加)それに関すると思われる部分が存在している。それは使徒言行録の初めにも有り、それらのすべては聖霊注がれる以前の場面であったが、やはりマルコに同じく聖徒を集める活動を諸国に広げるよう命じるものとなっている。(Lk24:44-49/Mr16:15-18/Mt28:16-20)

これはマタイ福音の最後の一文の意味をも明らかにしており、それらを総合すると、それらの復活したイエスの命令の言葉は、使徒を通して聖徒に向けて語られていることが明らかで、ただ信者に世界伝道をせよと命じているわけではない。

また、復活後の40日の間に、それもおそらくは使徒らがガリラヤから戻って後に、イエスは弟子たちの集団がエルサレムに留まっているように命じており、それが日ならずして聖霊によってバプテスマを受けるためであることも教えている。(Act1:4)

ルカはイエスのベタニヤまたオリーブ山からの帰天の様について聖書中で唯一語る筆者となっているが、それがシャブオートの10日前、暦によればイッヤール25日木曜であったことの情報も提供している。(Lk24:50/Act1:12)

 

ガリラヤからの弟子たちがシャブオート前にエルサレムに逗留しているように言われたのは、イエスを処刑したユダヤ体制への怖れのために、伝統的な『週の祭り』に参加せずにいることのないようにとの命令と捉えることは不自然ではない。実際、彼らはイエスの受難後、エルサレムに逗留している間には扉に閂を下していたことが書かれている。

だが、律法の祭儀がキリストの死と復活とを予型していたように、『新しい契約』による聖霊降下と、律法契約の祭儀の目的もそのようにして成就することを指し示していたことを成就させるため、それがイエスの命令に込められていたことが明らかとなる。

 

十二使徒にせよ、それまでの弟子たちの信仰内容は、強大な王としての王また預言者であるメシアの到来と、その王朝の王を頂く王国の設立にあり、ヘロデ家とローマの支配からの脱却の希望があったが、それはユダヤ人一般の願いであり信仰でもあった。そこではマタイが後に記すような「天の王国」というような国家は余りにも想定外であった。そこでイエスの数多くの王国についての例え話の意義が見える。

それゆえ、奇跡を行う人イエスを群衆は王に擁立しようとしており、それはイエスが最後にエルサレムにろばに乗って上った際に、群衆が『ダヴィドの子よ!』と叫んでは歓喜して迎えたところにも表れている。

他方で、パリサイ人は『王国は何時来るのか』と受難が近づいている時期のイエスに尋ねたが、『際立った様では来ない』また『あなたがたのただ中に有る』と言い、次いで弟子らに見える地上のメシアへの警告を与えている。(Lk17:20-23)

これは彼らの王国の捉え方と、イエスが伝える王国の異なりを明らかにはしているのだが、弟子らにだけ「偽キリスト」の危険を語り、パリサイにはそうしていないのは、彼らにそれを理解するだけの器を見出していなかったからであろう。宗教家らは『自分では判断せず』『収税人や娼婦が入りつつあり』『人々は王国に殺到している』とイエスは言う。

その人々には聖徒となる機会があるので、その中から現れる『偽預言者』また『偽キリスト』への警告は相応しい。弟子らは互いに躓き、四人が五人に逆らい立ち、家庭内も信用できない場となる時がくる。

 

だが、やはりキリストの宣教の論点は明らかに『神の王国』にあり、それは例え話の多くがその主題で語られているところに見えている。

しかし、語られている『王国』とユダヤ人が思い描く「王国」には大きな乖離があった。それを例えによらず直に話したとすれば、反発が大きかったことであろう。

また、その『王国』に入るためにはユダヤ人であっても裁きを経なければならず、マラキはメシアが『レヴィを清める』と予告していた。

もし、イエスが『王国』のすべてをそのままに明らかにしていれば、キリストを屠る側の者らも、ユダ・イスカリオテも現れなかったかも知れない。やはり現れなかったろう。このユダについては、十二人中で唯一のユダヤ出身者であったところでユダ族であったとすれば、ダヴィド王朝への期待は一層強かった可能性があり、それがナザレのイエスへのもどかしさへと連なっていたとも考えられる。

それ以前のハスモン朝にせよ、エドム由来のヘロデ王統にせよ、純粋なユダ族の、それもダヴィドの血統を神殿の系図でマタイやルカのように確認できた時代であれば、その事からイエスへの期待が大きかったに違いなく、それは却って罠ともなり兼ねない。(この王系の追跡は、神殿の系図の喪失後もしばらくは追えたことが、後のローマの調査によりシメオンという農夫にまで追跡されている事例が明らかにされている)

 

一方のガリラヤの弟子らについては、イエスからすれば縁続きのゼベダイの子らが、母と共にその近親さを利用して『その王国での左右の座』を願い出たところでも、十二人の中でもひときわ高い役職を望んだが、それは王制での側近の地位を意識していたと思われる。しかし、彼らの意図に反し、神の意志に拠らなければそこまで決定する権限がイエス自身にはないとの回答に、謂わば「出過ぎた申し出」を暗に指摘されてしまった。

 

三年近く連れ添った使徒たちも、一向に王国の王を名乗らず、具体的な即位への意欲も見せない主人への失望を抱く危険は常にあったと思われ、イエスの受難の一年前には、既にユダ・イスカリオテの信仰が尽きていたことへのイエスの言及がヨハネ福音に見られる。

他方でガリラヤ人の気質として、革新性と勢いがあり、伝統を重んじるユダ=レヴィの体制派よりは幾分かのプラグマティックなところがあり、その拘りの薄さがナザレ人イエスをより鷹揚に受け入れる素地があったと言える。特にゼベダイの子らはイエスの母方の親戚であり、その仕事上の仲間でもあるアンデレとペテロという、十二使徒以前からの中核的弟子にはこのガリラヤという背景がある。

 

キリスト帰天後、シャブオートの日からの弟子たちは、新たに加わってきた大勢のディアスポラの弟子たちと共に毎日神殿に上っており、その反応はユダヤ教の延長線上にあったが、同時に聖霊の注ぎがあったことは記されている。ただ、そこで使徒以外の人々に異言以上のどのような賜物が有ったかは語られていない。

いずれにしても、西暦70年に至るまで地上の神殿祭祀が行われている間には、ナザレ派は律法崇拝を護持していた姿が使徒言行録のヤコブの発言に明らかであり、この状況はペテロを嚆矢としてパウロバルナバの動きとの調停を必要としていた。

西暦62年頃にヤコブが世を去ると、様々な事柄が大きく動き始め、パウロヘブライスタイの弟子たちを気遣いヘブライ書簡を記したように、ペテロの二通の書簡も緊急性に満ちている。ユダヤが国粋化してゆく中でナザレ派には大きな試練が臨んでいた。それは今やユダヤ教キリスト教の分離が起る時の到来であったともいえる。

ユダヤ教からの迫害はキリスト教の分離を促進するものとなり、遂にユダヤエルサレム、そして神殿を中心とする律法体制が最後を迎えることになる。

パウロの説いたキリスト教は、いったん西暦67年頃の彼とペテロの死を以って、一度完成したかに見えたが、この第一世代が過ぎ去る中で、キリスト教使徒らが諸国に散ることでユダヤ教ナザレ派の蒸発が起こってくる。

諸国のキリスト教ディアスポラの中から異邦人との混成の集団を形作るが、これは次第に異邦人に中心が移ってゆく。

使徒ヨハネは主の母マリアを伴いエフェソスに移住し、比較的近くのヒエラポリスには使徒フィリッポスと家族が移っている。彼らの周囲にはエパフラスのようなギリシアの協力者が現れ、エクレシアのエピスコポスに彼らが任じられるようになってゆく。

 

他方で、ユダヤ系イエス派はユダヤ教からの同化圧力と迫害を受け続け、退潮を始めていた。

このようにユダヤ教の延長線上から、人の知恵でキリスト教を創出することはおろか思い描くことさえ非常に難しく、そのうえイエスは群衆には例えで話し、『耳有る者は聴け』と言い、身近に追随する弟子らだけには幾らかの詳細を話はしたが、それでも多くの場合に本意を知り得たかどうかにはかなり難しいものが感じられる。

それは特に、再臨に関わるものに於いて顕著で、キリストの死に至るまでの期間にこの理解は封印されていたと言える。それを解き明かしていったのが、ユダヤ主義と闘いながらキリスト教を説き広めていった異邦人への使徒パウロであり、加えて後年にはエフェソスに身を寄せた最後の使徒ヨハネが黙示録によってそれを遥かに明らかに示した。但し、ペテロ書簡は、この十二使徒筆頭がパウロ論議をもよく把握しており、更に貴重な情報をも追加しているところで、聖霊注がれた中心的メンバーの認識の高さをうかがわせている。

 

エスは、聖霊が『あなたがたをあらゆる真理へと案内する』と述べていたように、これらの封印されていたキリスト教は、聖霊注がれた聖徒らによって驚異的な教えが次第に解き明かされてゆくべきものであったので、そこで律法体制で培われたユダヤの良心は却って足手まといとならざるを得ず、『先のものが後になる』との言葉の成就は避けられなかった。

人は必ずしも正しいと思うものに従うわけではなく、それはキリスト教徒と雖も例外ではなく、その感情や都合によって悪いものでも選択してしまう。だからこそ人間は裁きを要する良くも悪くも倫理的存在である。宗教習慣や周囲との関係、家族やコミュニティに引きずられるのが人間であり、それはアダムがエヴァに引きずられた時からそのようである。思いではそれが正しいと思っても、心は自分可愛さで動くのであり、それはあらゆる人が平素からそのようにしている通りのことであり、ほとんどの人々にとってすでに悪魔の誘惑の下にあるとも言える。従って、人類の大半はキリスト教は値しないことになろう。

 

ユダヤ教的な、律法条項順守による『業による義』と、キリスト教の自らの義を確立することを断念し、一心にキリストの完全な犠牲による贖いを信仰することによる義との異なりはまったく正反対のものであり、そこに地上の王国と天界の王国という概念の変更を伴うとなれば、当時のユダヤ人一般がキリスト教に脱皮することには大きな困難が避けられないのは明らかに見える。

 

エスの弟ヤコブエルサレムに在って、ユダヤ教の良心を代表しながらも、両者の調停に乗り出したところは、この人物が如何に優れた宗教的見識を持っていて、且つ、どれほど清い人格の持ち主であったかが聖書にも明かされているが、これはユダヤ教徒の歴史家ヨセフスも大いに称揚するところたなっている。

だがナザレ派の信仰とは、メシアをナザレ人イエスに認めることが大きな部分を占めて、「律法の完成」という意味が強く、そこで『神の王国』は一旦取り置かれているように見える。

 

その一方で、使徒や直弟子らが諸国民に伝える音信の主題は明らかに「キリストの死と復活」であり、それがもたらした彼らへの『聖徒』への招きの恩恵が主な主題を成している。これをキリスト教会は信者が死後に天国に召されると単純に誤解しているのであり、実際には全人類救済の手段となる民の天への召し出しが神の意図である。

この使徒以降の信仰では『神の王国』が背景に後退したというよりは、その選民となることに寄与した者らがキリストの働きを伝えることにより、自分たちに与えられた立場の類稀な高さ、旧約の最高峰であるバプテストのヨハネをも遥かに超える立場を理解したゆえの主題の交代と言える。即ち、王国の到来は、今や聖徒の現れにより確固たるものとされたからである。

その『王国』は天界のもので、そこに『入る』には人が肉を離れて霊者とならねばならないことを理解しなければならなかった。そこでキリストの死と復活とが、それら王国に入る人々の嚆矢となったのであり、ユダヤ教の観点からは見えないこのキリスト教の奥義に原始キリスト教徒が多くの教えと思考を要したとも言える。

彼らは地上に居る間から、復活したイエスの命を共に生き、『新しい契約』に基いて『罪』への仮赦免を受けている点で『神の子』であり、聖霊の注ぎがその証しとなっていた。この奇跡の賜物が与えられていることの大きな意義と、イエスと共にアブラハムの相続財産である人類祝福の民となることを共にする共同相続人であることへの認識と清さとを教えることが当時最大の教えであったことはパウロ書簡に明白である。

 

加えて、使徒ヨハネは聖なる者らが「信仰によるこの世への勝利」を得るべきことを強調しており、それはヨハネ福音書と書簡類と黙示録に共通する主題を成している。

ともあれ、キリストの犠牲が捧げられ、聖霊が降ったからと言っても、生身の人間が新たな宗教の彼岸に到達するまでには、七十年近い期間を要している。

 

使徒後教父の時代では、成立が非常に早いとされるディダケーには見るべき価値が多い*が、ギリシア教父文書の中は玉石混交であって、アンティオケイアの著名なイグナティオスの書簡も、ローマのクレメンスの書簡にも新約聖書文書のような鋭さも煌めきも曇ってしまっており、時折に資料としての価値を知らせる程度になっている。

quartodecimani blog : ディダケーの描く「主の晩餐」

それらの中で、第二世紀小アジアの系統にある教父たちには、使徒ヨハネの教えの継承が見られ、そこに使徒の教えの反響が残されているように読める。

十四日派人士 - Notae ad Quartodecimani

 

こうした聖徒が残っていたと思われる時代であっても、エクレシアにある程度の蒙昧が有ったことは、パウロ書簡からも覗えるところであり、聖徒と雖も自らキリスト教の全容を自身に注がれた聖霊によって知ることはなく、他の賜物を有する聖徒らとの集まりを通して学ぶ必要があったことが分かる。

この点では、コリントスのエクレシアはあらゆる賜物に恵まれていながら、学ぶ姿勢に問題があったことが書簡に暴露されており、それは後のクレメンスの書簡でも指摘されている。彼らは議論を好み過ぎ、分派的傾向を早くから持っていた。それがギリシア哲学から来るものであるかは不明だが、初期には一般人がエピスコポス職に就くことが普通であったのに、やがて「それなりの人物」を求めるようになったか、アレクサンドレイアのユスティノスのような哲学者の接近が起こると、信徒の群れはそれを尊敬して要職に迎えるようになり、それが哲学やヘレニズム混交の罠となってゆく。

 

最後の使徒ヨハネは第二世紀に入る頃まで生存し、その晩年に至って画期的な啓示を受けたことは、それを認めるか否かという問題を当時のキリスト教界に提出している。

その結果、シリア方面は小アジアに同意せず、千年期説を支持しなかった。

また、それまでに日曜陪餐が進行していたらしく、小アジアと他の土地のキリスト教との間に「主日」をどうするかについての論議が始まっている。

イグナティオスがローマに連行される途中で小アジアを通過したときには、この認識の違いがその書簡の中で露呈しているが、その時には平和裏に過ごしていた。

だが、それはやがてローマ司教ヴィクトルの時にパスカ論争となってゆくことになり、小アジアをアナテマに処置しようとしてエイレナイオスの仲裁を受けている。それは第二世紀後半の時代であるから、キリスト教界が一つの教義にまとまっていたという期間は非常に短く、使徒後に一度すべてを体現した人々が存在したのかもはっきりとはしない。ただ、小アジア十四日派が最後の使徒ヨハネの啓示の守り手であったことだけは史料に刻まれている。

 

その後、聖霊の降下が止み、キリスト教界に逸脱が訪れ、多くの誤謬が混入して、今日に至るまで幾度かの修正の動きは有ったものの、ユダヤ教からキリスト教への道程に鑑みるに、今日キリスト教徒と雖も、相当な信条や基礎的精神の入れ替えなくして原初のキリスト教への回帰はないと言えるに違いない。

 

特に、キリスト初臨の時のユダヤ教体制派の頑迷さと、自己義認の強さがキリスト殺害の動機となったように、今後の終末に至っても余程に心をニュートラルにして、自分の救いや利害に曇らされない『目の光』が求められるように思われる。

ユダヤ教から見た場合、キリスト教というものは人の想像もつかないほどに新たな宗教的次元にあった。それゆえにこそキリスト教は神からのものである。

だが、今日までキリスト教界は再び「人間の考える程度の信仰」に後退したままでいる。原因は、聖霊という上からの導きが絶えているところにある。それにも関わらずキリスト教界のほとんどは自分たちに聖霊は有ると唱えている。

かつてのユダヤ主義に増して厄介なのは、「キリスト教を自分が会得している」と思うその頑なな強情さとならないものだろうか。その心は予想外の新たなものを受け入れることが出来ないほどに硬い。そこに再臨が起こるとすれば、どういうことになるだろうか?

 

今日の筆者の視点から言えばではあるが、終末はそう遠いものではないらしい。

現在、どのような思想信条を持つかに関わらず、人はそれぞれに倫理を行使する者として日々生活しているのだが、その「内奥の人」というものは他の人からは隠されており、またその人の見えるところによらず計り知れないものである。そこを裁くのは神を置いて他に無い。

 

ただ、注意すべきは『わたしの語った言葉が終わりの日にその人を裁く』と言われたキリストに帰依していると思うその人には、「聖書を知るゆえの危険もある」ということになるのであろう。まさにユダヤ教体制派がそうではなかったか?

そして歴史は繰り返されるのであろう。

そこで聖書を知るということは、罠ともなることを知る必要がある。

何かを知っていながら心が動かないというその人の内面は、神との邂逅を得てさえ無感覚なのであり、かつての宗教家らが下層民ではあっても同朋である人たちがイエスの奇跡に癒されることを喜ばず、自分が正しいかどうかに固執したように、利己的本質はそこで見分けられることになるのだろう。

ともあれ、本人が利己的かどうかはともかくも、終末に聖霊と邂逅しても、それを敢えて選ぶところは否定できないことになる。即ち『霊を冒涜する』という『赦されることのない罪』となる。

他方で、サンヘドリン議員でありながら『神が共になければ、あなたのような奇跡は起こせない』と聖霊への信仰を表したニコデモは、宗教家であるから皆が傲慢で利己的であるとは言えないことの証しを提出している。

そこで今後現れる聖徒らは、初臨のキリストに同じく宗教的頑迷さに直面し、また独裁的政治家からの嫉妬にも遭うとされている。

人の心による倫理の世での趨勢というものは、古代も終末も変わらない。体制としてのユダヤがキリストを退けたのであれば、体制としてのこの世も聖徒らを退けるであろうし、その大衆的蒙昧の中心を形作るのは、キリスト教的な常識とはならないものか。

人は皆が「アダムの罪人」であり、その中でアダムとは異なる倫理的選択をする人が多数派を占めないのは既に見えている。原因は大衆的な利己心と感覚主義的無思考、宗教的安逸への耽溺であろう。この世というものが、本来の人にとっての「敵性環境」であることを忘れさせられ、『神の王国』を求めるべき目が、同じ名称の「キリスト教」によって却って曇らされている。これが終末に至れば、更に酷い誤謬に堕ちることも聖書は示している。しかも、それは聖徒を退ける事に於いて『聖霊を冒涜する』罪となる。それは『アダムの罪』の轍を踏むので、その結末は引き返すことができない。その終末での決定は人にとって極めて重大であり、これほどの裁きの問いは、諸世紀に例がないほどのものというべきであろう。

だが、数は少なくともアダムの選択をしない人々も確かに存在するに違いない。

 

 

 

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*(ディダケーについてはヨハネ文書の概念を含んでいると思われる記述があり、ヨハネ後の成立を匂わせている。写本の発見がヨハネ世代のクレメンス書簡と同時であった背景も、同種の時期、内容として共に保管された可能性もなくはない)