Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

賜物と愛

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パウロの活躍時期
神殿での祭祀は引き続き行なわれていたが、既に聖霊は降下しており、肉のレヴィによる崇拝の意義は過ぎ去ったものとなっていた。
エスが語っていた「この山でもエルサレムでもないところで、霊と真理を以って崇拝する時」は到来していた。
それは聖霊の働きにより、世に光を掲げるエクレシアを通して行なわれていた崇拝であり、イエスはそれらのエクレシアの間を歩んでいたことを黙示録が描いている。

だが、この崇拝方式がイエスの監臨の中断に伴い、聖霊の降下が終るとき、その崇拝はどうなるだろうか?
パウロは、聖霊の賜物に対する愛の優越性を説くに当たり、この点を指摘していると読める。
聖霊の賜物が去ったとしても、信ずる者たちの間に残るものがある。
それが即ち、信仰と希望と愛であるとパウロは言う。

パウロはこの三つを挙げるに際して「」と記したが、それに対して「愛」には永続するものとしての最高位を与えた。
このコリント第一13章の論旨は、聖霊の賜物について語りつつ、当時の聖なる者らがともすれば聖霊の賜物を受けることに邁進し、キリスト教の精神的な部分で進歩を遂げないという愚を犯さぬよう説き進めている。
その中で、聖霊の賜物は部分であり、総体的なものが到来するときには、部分的なものは廃されることに注意を向けている。
彼らが得ていた知識にせよ、それは依然として部分的なもので全きものではなかった。 (2Cor3:4-4:6)
では、総体的な全きものが到来するときとは、いつ、またどんな状態を指すかについてパウロは、彼らが天界に至った姿を示している。
確かに、霊体での天への復活を果たした後には聖霊の賜物という地上的な印以上のものを持つことは容易に想像がつく。
そのときの彼らの権能は、御子と共にこの世を打ち砕くほどに強力なものであろう。
だがしかし、こうした知恵や力という権能を超えるものがある。
それこそがキリスト教の精神であり、教えの本質であり、神の様である。
それゆえ、聖霊の賜物が去ったとしても、その教えの影響力は存続し得るものである。
そして彼は「信仰、希望、愛」を挙げる。
しかし、信仰は聖徒らが天界に復活し、キリストと共になるときには、もはや信仰の必要もないであろう。
それは希望にしても同様ではないだろうか。新しい契約はその役割を果たし、アブラハムの裔を天界に生み出すことを終えるときには、彼らの最大の希望は叶えられているからである。
そこで、なお残るのが愛であり、これこそ、神がエデンで人に求めたものである。 (1Joh3:16)
それが二本の木を通して試されたが、そのとき以来、苦難満ちる人類史を経てまで神はこれを求めたのであり、キリストの忠節な愛を以って体現されたこの愛により、創造界にこの絆が存在し得ることが証しされた。

こうして、創造者と被造物の間には、永遠の関係が築かれることになるので、愛は絶えることがないと言える。

しかし、聖徒が天に集められず、神の王国が到来していないばかりか、聖霊も降っていない今日にあっては、まさしくパウロが言ったように、信仰、希望、愛が残されていると言える。

それは聖徒でなくともキリストの追随者たらんとする者であれば、培い育てることのできるものであろう。
それは聖徒に劣るものでもなさそうである。
なんとなれば、パウロは『より優れた道』とそれらを呼んでいる。
この点で、聖徒も信徒も変わるところなく希求できるのであれば、それはキリストの帰還を待つ今であっても



愛の優越性
パウロは愛の優越性を説く文脈で、聖霊の賜物が「廃される」と述べている。
その重きは、愛の優越性にあり、賜物が廃されることをそこで中心に述べているわけではない。
賜物が廃されることに勝って愛が残ること、それだけでなく、信仰と希望も残ることを告げている。
では、これらのことの文脈の全体は何を知らせようとしているのだろうか?
パウロは、様々な賜物があるとしても、それらが永続するものではないことを語る。それは聖徒が天に去った後に必要がなくなること、また、初期キリスト教徒の時代が終わると共に、キリストの監臨の終了に伴い聖霊が地上を去るときにも残るものが何であるかを教えているのであろう。
つまり、様々な超自然の賜物が見られなくなるとしても、不変である三つのものを挙げたのである。その三つは賜物の有無に影響されることがない。
それが即ち、信仰であり、希望であり、愛である。
聖霊の賜物を求めることを、それも預言のようなより意義深いものを求めるように勧めるパウロであったが、確かに聖霊の賜物はそれを得る人々が「新しい契約」に参与する「聖なる者」であることを証しするものであったが、これは「契約の箱」のように契約に付随するものではあるが、永続的な価値を有するとは言い難い。
そこでパウロはより普遍的な価値を有するものを示し、それを「より優れた道」として教えているのである。
「信仰」とは、当時の聖徒らを神の是認と霊の注ぎをもたらしたものであり、ナザレのイエスをメシアとして受入れさせたものであり、これは聖霊の有無に関わらず普遍的に持ち得るものである。そしてキリスト後には信仰は新たな段階を迎えた。それが第三の信仰の対象としての聖霊の登場であった。これに対する信仰は聖霊の灌ぎない今日であっても持ち得るものといえる。
「希望」は、聖徒であれば、天に召されキリストと共に王国を相続することを、それ以外の人々であれば、その王国の贖罪を受けて「神の子」としての栄光ある姿を回復することを望めるのである。また、希望は『錨』であり、暴風にも流されないための備えである。この世を生きてゆく上での困難に人の心を耐えさせるものとなるばかりか、信仰を守る上でも強い働きを為すものであろう。
しかし、信仰も希望も、それが到来したときにはその役割を終えるものである。
だが、「愛」についてはそうではない。
使徒ヨハネが「愛する者が神と結びついている」ことを霊感によって語ったように、それは神との、また他の者とをつなぐものとなって永遠に存続し続ける。神が永遠の存在である以上、その絆も絶えることはない。


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コリントスでは聖霊の賜物についての記述が多く、その扱いについての指示もある。エクレシアは賜物に欠けることが無かったが、分裂や淫行を抱えていた。(「コリントスのような生き方」)そこでこの13章は、その背景があってのことか?
聖霊は彼らの道徳性に応じて多く注がれたわけではないようだ。パウロが離れている間に、問題が表面化したように読める。既にアポロは一定の影響力を有しており、分派も助長されている。
ここには、聖徒と雖も徳性において努力が求められていることが分かる。後にクレタで苦労するように、それぞれの地域での道徳的傾向があるようで、聖霊が有るからといって、聖徒の資質は均一ではなかったようだ。
では『世の基が置かれて以来の選び』とはどのようなものなのか?厳密な救いの規準はそこになく、脱落する者もいるという状況であれば、神はここでも予知を完全には行使していないことになる。従って、聖霊の選びはそのまま救いを意味しない。「契約」を要する所以といえるのだろう。
<ではキリスト教界の慢心の酷さはどういうことになるのだろうか?>


パウロは第一書簡で所期の目的を遂げることは出来なかった。それは第二の書簡の「焦り」に顕れている。この以前にも一通の書簡が送られているようなので、コリントスの問題には他のエクレシアより手を焼いた期間が長く、しかも、コリントスのエクレシアはパウロを手こずらせ、落胆もさせたようである。⇒クレメンス
第一と第二の書簡の間で、小アジアの迫害に面したらしい。死に直面したと言うが、彼がエフェソスで獣刑に遭ったのはこの時期か?となると、第二書簡の辛苦の中にそれが含まれないのはなぜか?


アテナイとアレクサンドレイアのエクレシアは育っていなかったのだろうか?その理由はヘレニズムにあるのだろうか?アテナイにはユダヤ人社会は希薄であったようだが、アレクサンドレイアにパウロが近付いていないのはなぜか?この時期バルナバはどこにいたのか?決定的に別れたにしてはマルコが時々に顔を出す。殉教したか?第一書簡では生存が示唆されている。伝承ではシュナゴーグでユダヤ人と激論になり石打にされ、マルコはそれを目撃し、サラミスに葬ったという。バルナバパウロのテリトリーを侵さず、キプロス以南で宣教したのでは。その後のパウロの領分にはアポロが入り込んでいる。彼はパウロと異なり弁舌が達者であったので、アカイアで彼の影響を受けずには済まなかった。しかし、なぜアポロもアレクサンドレイアでの活躍が記されていないのか?アテナイやアレクサンドレイアには何かの障碍があったのか?
ペテロ以外の十二使徒にはこの時期にはエルサレムを離れないようにとの指示があったか?
ギリシア語に問題があったか?アンデレとフィリポにはギリシア人は近付き易かったようだ。特にフィリポは名前からしてヘレニストだったろう。

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karis
ex24:9-11
num11:24-25
ps68:17-18

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